田中清寿は文化元年、武州の鐔工田中房二郎の子として江戸に生まれ、後藤清乗と関係のある後藤宗次郎正乗のもとで鐔工として修業した。しかし本人は金工を好み、独学で勉強し、親の号を踏襲して東龍斎と号した。後藤一乗とも親交があり、後藤家や柳川家などの彫法を巧みに取拾して「時流に即した洒落た彼独特の東龍斎流の作風」を完成し、「幕末三名工」の一人に数えられるに至った。流自・自流・我一格・一家式等の添銘をきり、弘化二年に法橋、翌三年に法眼に進んでいる。
説示において清寿は「色金の魔術師」と賞され、赤銅・素銅・四分一・金・銀・真鍮など多彩な色金を自在に操る象嵌色絵の技が繰り返し称揚される。墨象嵌では「毛筆の穂先を意識させるかの」筆致を四分一地上に実現し、鉄地においても鋤出高彫の肉取りと鏨の冴えが力強い空間を生む。一方、素銅にこだわった作では色金を多用せずとも「重厚感のある作品を作るという清寿の思い」が看取され、独学で金工の世界を極めた「意気地」が窺える。構図は斬新にして些かのけれん味もなく、「垢抜けた個性」と「小粋で洒落た江戸前の彫技」が一貫して指摘される。
「西の後藤一乗、東の東竜斎清寿」と並び称された清寿は、多くの門人を養成しつつ数々の名作を遺した。格調が高く情趣豊かな初期作から、微細にして華やかな盛期の色金象嵌に至るまで、その作域は広く、いずれの作にも独学で一家をなした工人の気骨と洗練が通底している。