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名品博物館第三番

ヘラクレス英字透鐔

初代法安(鑑定書は甚五)

内閣総理大臣・寺内正毅伯爵旧蔵

表 縦7.65cm、横7.44cm、耳際厚さ0.54cm

作品の概要

作者
初代法安(当館の考察による)。秋山久作(明治四十年頃)・和田維四郎(大正二年)は法安とし、小倉惣右衛門(大正十四年)は初代法安の名品に数える。日本美術刀剣保存協会の鑑定書は、初代・二代に限って用いる表記で甚五と極める
種別
鉄地透鐔
時代
桃山〜江戸時代初期(1590〜1640年頃)
法量
縦7.65cm、横7.44cm、耳際厚さ0.54cm
指定・鑑定
特別保存刀装具(日本美術刀剣保存協会、2025年)
所蔵
個人蔵

欧文の大文字八字でHERCULESと透かした、無銘の鉄鐔です。1590年頃から1640年頃まで、日本がはじめてヨーロッパと出会った時代の作で、明治の末に鑑識家の秋山久作が実見し、のちに小倉惣右衛門が初代法安の名品に数えました。

八つの文字

この鉄鐔の地には、欧文の大文字八字がめぐらされています。文字は地に彫りつけたものではなく透かしそのもので、字画の端の小さな飾り(セリフ)まで鉄に残されています。八字は連なって輪をなし、切羽台と耳とをつないでいます。上から右回りに読めばHERCULES、英雄ヘラクレスのラテン語名です。

表。上から右回りにHERCULESと読む。
裏。同じ文字を裏から見る。

地板は撫角形です。丸みを帯びた厚い耳が、透しを施した薄手の地より一段高く立ち、鐔の重みは耳に集まって、文字は光のなかに浮かぶように見えます。鉄色は黒く、地肌はこまやかです。茎孔の一部には銅の責金が入り、左右の櫃孔は黒い埋金で塞がれています。いずれも、かつて拵に用いられていた名残です。

桃山時代の欧文

十六世紀の末、日本ではすでに欧文が印刷されていました。はじめ加津佐に、ついで肥後天草に置かれたイエズス会の印刷所は、天正十九年(1591年)から慶長二年(1597年)にかけてラテン語の書物を刊行し、そのなかには文禄三年(1594年)の『ラテン文典』や、翌年の『羅葡日対訳辞書』も含まれます。また、ヘラクレスの名が見えるウェルギリウスの『アエネーイス』は、セミナリヨで読まれていたと考えられます。以上は、こうした語が日本で読まれ得た世界を示すもので、本鐔の意匠の典拠としてではなく、その背景として記します。1

本鐔の年代は、この世界の存続した時期によって定まります。日本で欧文を知り、写すことができたのは、キリシタンの世紀に限られます。イエズス会は天正十八年(1590年)に印刷機を日本にもたらしましたが、慶長十八年十二月(1614年)の禁教令によってその印刷は途絶え、寛永十六年(1639年)のポルトガル人追放によってその世界は閉ざされました。肥後では慶安元年(1648年)、ローマ字の印が改められています。本鐔の文字も、同時代の刊本に見える欧文と同じ類のものです。したがって本鐔は、天正十八年(1590年)頃から寛永十七年(1640年)頃までの間に作られました。2

江戸時代の写本に写された排吉利支丹文の冒頭の頁
以心崇伝起草の排吉利支丹文(慶長十八年十二月)。「同月耶蘇宗門堅禁止之旨被仰出候御書付」の見出しのもと、「乾為父坤為母」と書き起こされる。『緜考輯録』第二十冊、江戸時代写本。国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン。
同じ写本の、排吉利支丹文の結びと日付のある頁
同じ写本の結び。「宜承知莫敢違失矣」に続き、「慶長十八龍集癸丑臘月日」と日付を記す。左の草書は同書の次の記事。『緜考輯録』第二十冊。国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン。

鉄に遺るラテン語の名

欧文はイエズス会とともに日本に入りました。織田信長は永禄十二年(1569年)にイエズス会を庇護のもとに置き、天正十年(1582年)に世を去るまでその庇護を続けました。本鐔は、国が閉ざされる前の、その世界の余光のなかにあります。

狩野内膳筆《南蛮屏風》の部分。船から上がる南蛮人の一行と、これを迎える黒衣の宣教師たち
狩野内膳(1570〜1616年)《南蛮屏風》六曲一双のうち右隻(部分)、1600年頃。上陸したカピタン・モールの一行と、これを迎える宣教師たち。神戸市立博物館蔵、重要文化財。

その語は、すでに宣教の世界に生きていました。1580年代のイエズス会の書簡は、キリシタン大名大友宗麟の側近で槍の名手であった柴田礼能を「豊後のヘラクレス」と呼んでいたと考えられます。宣教師たちにとってこの名は聖句とは関わりなく、武人の剛勇をたたえる呼び名であったとみられます。3

柴田礼能を豊後のヘラクレスとする綱文のある『大日本史料』(昭和二十七年)の頁
『大日本史料』第十一編之九(昭和二十七年)三百四十頁。豊後の戦いを伝えるイエズス会報告の邦訳。綱文に「柴田禮能ハ豐後ノへるくれすナリ」とある。国立国会図書館デジタルコレクション。
正面から見たブロンズのヘラクレス像。棍棒を振り上げ、ヒュドラを打つ。銅版画
ヤン・ハルメンス・ミュラー、アドリアン・デ・フリース原作《ヒュドラを打つヘラクレス》、1600〜1604年頃。アウクスブルクのヘラクレスの泉を飾るブロンズ像を描く。棍棒を振り上げる英雄。銅版画、51.2×36.6cm。アムステルダム国立美術館蔵(RP-P-OB-32.219)。パブリックドメイン。

その大文字は、イエズス会が刊行したラテン語書物の扉に組まれた字と同じ類のもので、字画は精確に引かれ、そのまま透かされています。この精確さからみて、ローマ字を心得た者が割り付けた手本があったと当館は考えます。

1595年に天草で刊行された羅葡日対訳辞書の扉。欧文の大文字で組まれる
『羅葡日対訳辞書』(Dictionarium Latino Lusitanicum ac Iaponicum)の扉。イエズス会が1595年に天草で刊行したもので、当時のセリフを備える大文字で組まれ、UはVと記される。ライデン大学図書館蔵。
ラテン語の誓言のなかにHerculesの語を刷る1595年の辞書の一段
同書三百二十八頁。1595年に日本で刷られたHerculesの語。ラテン語の誓言の一つとして掲げられる(「Hercule, & Hercle, Hercules, Mehercules, & Mehercule, aduerbia sunt iurandi」)。ライデン大学図書館蔵。

ほかの鐔に見られる欧文は、INRIやアルファとオメガのように、おおむね心得ある者だけが読み解くキリシタンの印であったと考えられます。本鐔では、その語が隠されることなく立っています。聖句ではなく、異教の英雄の名です。のちに秋山久作は、それゆえにこそ本鐔は禁教の世にも難を免れて伝わったのであろうと論じました。4

本鐔は、この語を鉄に遺すことを望んだ人の注文による作と、当館は考えます。時あたかも、ポルトガル風の装いから南蛮屏風に至るまで、南蛮趣味が貴顕の好みを彩った数十年のことです。東西の最初の出会いを、これほど明らかに文字として今に伝える品は、多くありません。

秋山久作の二度の実見

本鐔の記録は、明治三十八年(1905年)十二月十九日に始まります。この日、鑑識家の秋山久作は「或方の御愛藏品」として一枚の鐔を示されました。長丸に角味のある形で、耳は厚く、その内側の鋤き下げた地に欧文八字が透かされていました。同席の先輩はただちに甲冑師の作と答えましたが、秋山は同意せず、誰の作とも言いかねたと記しています。5

「長丸に角味ある耳厚すき下げ羅馬字八字を地透しにしたる珍らしき物」

秋山久作、明治三十八年十二月十九日(小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』大正十四年、六十八〜六十九頁所収)
秋山の記述を収める小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)の見開き
小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)六十八〜六十九頁。右頁に、明治三十八年十二月十九日の秋山の記述が始まる。国立国会図書館蔵。

それから満二年ののち、銘のある法安の鐔を見た秋山は、あの文字の鐔もまた法安の作であろうと思い至りました。請うて再見し、在銘の鐔と見比べて、両者を同作と判じました。

「實に珍寄〔ママ〕の名鍔である、善良の歷史上の參考品である、恐らくは日本中の一品物であらう」

秋山久作、明治四十年頃(小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』大正十四年、六十八〜六十九頁所収)

法安は鐔工の家系です。和田維四郎と小倉惣右衛門の伝えるところでは、初代の川口三郎右衛門法安は尾張に住み、信家・山吉兵の周辺で鐔を作りました。家は浅野家に従って甲斐、紀伊へ移り、元和五年(1619年)に広島に至りました。6

再見の折の秋山の記述は、小倉が大正十四年(1925年)、『日本鐔刀工録』に収めました。その一節を引きます。

「滿二年を經過して此頃在銘法安の鍔を見て、之も法安なる可しと心付き請ふて再見し、彼の在銘鍔と見くらべたるに、鐵の緻密にして軟かく鍛目の露出し居るも信家山吉にあらず、鐵に赤味を帶び居るなどの諸點はどう見ても法安獨特の特徵で、同作に間違なき事が明瞭したは近頃の快事である」

秋山久作(小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』大正十四年、六十八〜六十九頁所収)

寺内伯爵の所蔵

大正二年(1913年)には、本鐔は寺内伯爵の所蔵となっていました。この年、和田維四郎は法安の項に、Herclesの文字を透かした法安作無銘の鉄鐔を挙げ、割注に「寺内伯爵所藏」と記しました。刷られた綴りはHerclesの七字で、Uは組版の際に脱落したものです。二度手に取った秋山は八字と数えています。7

「蓋し洋字を鐔に用ひたる濫觴ならん」

和田維四郎『本邦装劔金工略誌』(大正二年)五十頁
和田維四郎『本邦装劔金工略誌』(大正二年)の見開き
和田維四郎『本邦装劔金工略誌』(大正二年)五十頁(右頁)。割注に「寺内伯爵所藏」とある。島根大学附属図書館桑原文庫蔵。

当時の寺内伯爵は、長州出身の陸軍軍人、寺内正毅(1852〜1919年)です。明治三十五年(1902年)から四十四年(1911年)まで陸軍大臣、明治四十三年(1910年)から大正五年(1916年)まで朝鮮総督を務め、明治四十四年に伯爵に陞爵しました。大正五年には元帥となり、同年から七年(1918年)まで内閣総理大臣の任にありました。

寺内正毅伯爵(1852〜1919年)。国立国会図書館「近代日本人の肖像」より。

伯爵は蒐集家でもありました。その礎のうえに、嗣子の寿一が大正十一年(1922年)、山口に開いたのが寺内家の私設図書館、桜圃寺内文庫で、その資料の大半は今日、山口県立大学に伝わっています。小倉もまた大正十四年、法安の章を結ぶにあたって本鐔を改めて挙げ、「寺內家藏の名鐔」と記しています。8

法安の名品

大正十四年(1925年)、網屋五代目の小倉惣右衛門は『日本鐔刀工録』の法安の章で、初代法安の作と認められる名品として二枚の鐔を挙げました。和田の説にある「寺內家の英字透しの鐔」と、犬養毅(木堂)旧蔵の在銘の鉄丸形車透し鐔です。「寺內家」という言い方は、伯爵が大正八年(1919年)に没したのちも、この鐔が同家にあったことを示しています。9

「法安初代作と肯かれます名品は和田先生の說にある寺內家の英字透しの鐔と……傑作中の双絕であります」

小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)六十四〜六十五頁
小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)六十四・六十五頁
小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)六十四〜六十五頁。左頁で、寺内家の英字透しの鐔を初代法安の名品に挙げる。国立国会図書館蔵。

小倉はさらに、昭和九・十年(1934〜35年)に初めて刊行された小道具の講義でも、本鐔に再び触れていると考えられます。撫角形の土手耳で地にHerclesの英字を透かした、すこぶる精巧な鐔とし、在銘の車透し鐔とともに法安の名声を一層高める名品に数えたうえで、両者は常の法安作とは相当の隔たりがあるように思われる、とも述べています。10

三十年にわたるこれらの記述は、ここに示す鐔とあらゆる点で一致します。地に透かした欧文八字、ヘラクレスの名、撫角形の地板、そして鋤き下げた地より高く立つ厚い耳。寺内家の英字透しの鐔は、本鐔です。

斜光のもとで。厚い耳が、鋤き下げて透かした地より高く立つ。

小倉惣右衛門、大正十四年(1925年)の記述。

「法安初代作と肯かれます名品は和田先生の說にある寺內家の英字透しの鐔と、犬養先生舊藏の法安在銘鐵丸形の車透しで耳に兎と大根の模樣ある鐔とでありますが、是れは信家の名鐔に同樣の物がありまして殆んど失れ〔ママ=夫れ〕に迫まり、又箇性の現はれもありまして傑作中の双絕であります」

小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)六十四〜六十五頁

今日の本鐔

今日、本鐔には、令和七年(2025年)に日本美術刀剣保存協会が発行した特別保存刀装具の鑑定書が附されています。鑑定書は本鐔を「英字透鐔」とし、来歴には触れず、無銘の本鐔を、初代・二代に限って用いる表記の「甚五」に極めています。戦前の来歴は、当館の調査によるものです。11

日差しのなかの文字の面。透かしの文字が影を落とす。

作者をめぐって

本鐔は寺内家旧蔵の英字透しの鐔であり、その来歴には二つの極めが並び立っています。明治四十年(1907年)頃から昭和十年(1935年)にかけて本鐔を書き留めた鑑識家たちは法安とし(小倉は大正十四年に、これを初代と記します)、今日の同協会の鑑定書は甚五としています。本鐔は無銘であり、以下は、その二つを作品そのものに照らした当館の考察です。

文字の面(ビロードの上)。

文献の伝えるところでは、法安はその鐔の多くに、焼き手腐らしによる薄肉彫りを施しています。昭和五十八年(1983年)刊の『尾張と三河の鐔工』は、「薄肉彫りの図柄を燒き腐らしにするのは法安の得意とするところ」と記して、それが板鐔にも透し鐔にも及ぶことを述べ、「稀には腐らし図のないものもある」と添えています。同協会もまた、第六十三回重要刀装具指定(平成二十九年〈2017年〉十一月十七日)の法安在銘鐔の説明に、「得意の焼き手腐らし工法を駆使し、平地に玄妙な変化を表し」と記しています。腐らしは地鉄の軟らかい部分を侵し、硬い部分を、際のなだらかな低い起伏として残します。12

法安在銘の鉄丸形車透し鐔。図版の註記とともに(1925年刊)
法安在銘の鐔。鉄、丸形、車透し。図版の註記に「鋤出シ彫、焼手仕上」とある。当時は金森一吉氏の所蔵。小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(大正十四年)第十八図(一号)。国立国会図書館デジタルコレクション、パブリックドメイン。

その手法がもっとも見事に表れているのは、小倉が本鐔と並べて法安の「傑作中の双絕」とした、いま一枚の鐔です。犬養旧蔵の在銘の車透し鐔で、地の耳際に耳長兎を配し、『尾張と三河の鐔工』(昭和五十八年〈1983年〉)はこれを「耳際の地には燒手腐らしの耳長兎を配し」と記しています。平成十四年(2002年)に第四十八回重要刀装具に指定された鐔は、この一枚である可能性が高く、その説明には「得意の焼き手腐らし工法にて耳長兎を表している」とあります。腐らしで起こされた兎の耳は、際のなだらかな低い線として、周りの鉄からわずかに立ち上がります。13

本鐔に腐らしの図柄はなく、槌目地に文字を素透しにしています。耳には、鍛えた鉄の硬い筋がわずかに浮き出た鉄骨が、線状に自然に現れています。それは地鉄に本来備わるもので、耳の大半では、短く途切れた不揃いな筋にとどまります。

鉄骨自然の鉄骨。耳に沿って、鍛えた鉄の細く途切れた筋が浮く。
同じく自然の鉄骨。耳の大半に見られる、短く不揃いな筋。

しかし、一筋だけは異なります。ほかよりも高く、長く、整って、耳に沿う一本の際立った線をなしているのです。当館は、これを腐らしによって起こされたものと見ます。左右の鉄を侵して線を立たせる手際は、兎の耳を起こす手際と同じです。法安の得意と伝えられる焼き手腐らしを、図柄ではなく地鉄そのものに用いたものといえます。

鉄骨ただ一筋だけ異なる線。当館が腐らしによって起こされたと見る鉄骨。
同じ線を別の角度から。長く整い、際はなだらか。

小倉が対とした二枚は、この手際を共にしていると当館は考えます。耳長兎を配した法安在銘の車透し鐔はほかにもあり、その兎の耳もやはり、腐らしによって鐔の耳から起こされた、際のなだらかな起伏をなしています。その傍らの鐔の耳にも、腐らしの線が走っています。在銘作に同じ手法がみられるという点で、これは当館の見出した類似のなかで最も近いものです。

法安在銘の車透耳長兎図鐔(特別保存刀装具)。写真提供:真玄堂。
本鐔の表。
法安在銘の車透し鐔の耳の近接。輻の脇に腐らしの線が耳に沿って走る
法安在銘の鐔。耳に沿って腐らしで起こされた線。写真提供:真玄堂。
本鐔。当館が同じ手際によると見る、地鉄そのものの線。

いま一つの類似は、作りにあります。文字は、耳との接点に小さな窪みを設けて据えられており、耳に突き当てたというより、耳に納まっているように見えます。ここに掲げた耳長兎の法安在銘車透し鐔でも、輻(や)は同じように耳に納められています。

耳に据えられたR。接するところに小さな窪みがある。
C。文字は耳に突き当てられず、耳に納まる。

地鉄もまた、同じことを示しています。きわめて優れた鉄で、秋山が見たとおり緻密にしてやわらかく、鉄鐔の名工たちの名を高めた鉄質を備えています。平成二十九年に重要刀装具に指定された前掲の法安在銘鐔について、同協会は「法安の地がねは『うわばみ鉄』と異称されるほど手強さに定評がある」と記しています。当館の見るところ、本鐔の地鉄にも、同じく緻密で手強い、ネットリとした感があります。その鉄色は赤味を帯び、甚五の名で知られる鐔の地鉄よりも暗く沈んでいます。14

一方に、鑑定書の甚五があります。鑑定書の表記は初代・二代のいずれをも指し得ます。しかし二代甚五郎は元和六年(1620年)の生まれで、本鐔が作られた年代の終わりにようやく二十歳でした。その年代のうちでは、鑑定書の表記はむしろ初代の志水仁兵衛(1599〜1675年)を指します。仁兵衛は寛永九年(1632年)、肥後へ移りました。15

甚五の名で知られる鐔もまた大胆ですが、その大胆さは別のところにあります。同協会の説明が、同工独得にして肥後の諸金工中に比類のないものとして繰り返し挙げるのは、真鍮の据文象嵌です。別に彫った図を、槌目焼手仕立ての鉄地の表に大きく据えるもので、図は松上の鷲・鷹が第一で、説明もこの意匠を最も強く同工の名と結びつけています。ほかに梟・蟹・蛸などがあります。裏は広く空け、三日月や枝先を置くにとどめます。透しを本領とするのは同じ肥後の林・西垣両家であって、甚五ではありません。同協会が肥後拵とともに重要刀装に指定した同派在銘の二枚も象嵌の作で、いずれも二代とされ、一枚は金、一枚は真鍮線の象嵌を施しています。本鐔には象嵌も真鍮もありません。その大胆さは、文字そのものを図として透した地鉄にあります。16

当館の考察では、こうして法安の側に四つの点が並びます。法安の在銘作を知る秋山は、明治四十年(1907年)頃、二枚を並べて同作と判じました。本鐔の地鉄は、同協会が法安の地鉄の特色として記す手強さを備え、その色は赤味を帯びて甚五の地鉄より暗く沈んでいます。法安の得意と伝えられる腐らしは、小倉が本鐔と対にした鐔の兎の耳を起こしたのと同じく、本鐔の耳の一筋を起こしています。そして文字は、法安在銘の車透し鐔の輻と同じように耳に納まっています。他方には鑑定書の甚五があり、年代からみてそれは初代を指します。

ここに、推測として一つの見方を記します。本鐔は注文による作と当館はみており、技の粋を尽くしながら銘を持ちません。しかし耳には、作者の作にみられる手法によって起こされた一筋が立っています。この一筋は、名を刻む代わりに地鉄に遺された作者のしるし、いわば、ひそやかな銘とも読めるのではないでしょうか。

鑑定書は、数多くの作品のなかで、一度の審査においてなされた判断を記すものであり、そうした場における極めは、おのずから慎重なものとなります。当館の考察は、そこから一歩を進めたものです。作品そのものの示すところにより、当館は本鐔を初代法安の作とします。

伝来

寺内伯爵家旧蔵

  1. 1590〜1640年頃

    欧文を知り得たキリシタンの世紀に作られる。文字は、イエズス会の印刷所が刊行した書物に見える、セリフを備える大文字の類。

    確定

  2. 1905年

    秋山久作が、羅馬字八字を地透しにした本鐔を示され、珍しい物と記す。

    確定

  3. 1907年頃

    在銘の法安と見比べた秋山は同作と判じ、「恐らくは日本中の一品物であらう」と評する。

    確定

  4. 1913年

    和田維四郎が、Herclesの文字を透かした法安作無銘の鉄鐔を、寺内伯爵の蔵として記す。

    確定

  5. 1925年

    小倉惣右衛門が、寺内家の英字透しの鐔を初代法安の名品双絶の一つに挙げる。

    確定

  6. 1934〜35年

    小倉が小道具の講義で再び記す。撫角形土手耳の、すこぶる精巧な鐔。

    有力

  7. 2025年

    日本美術刀剣保存協会により特別保存刀装具に指定。「英字透鐔」、甚五極め。

    確定

伝来書 第三号

注

  1. 1アーネスト・サトウ The Jesuit Mission Press in Japan, 1591–1610(私家版、1888年)序。新村出『吉利支丹研究余録』(昭和二十三年)百三十一頁(国立国会図書館、pid 1041115、コマ72)。 ↩
  2. 2印刷機の渡来(1590年)はサトウ(1888年)と新村(昭和二十三年)。慶長十八年の禁令は以心崇伝『異国日記』、『異国日記抄』(明治四十四年)百七十四〜百七十五頁(国立国会図書館、pid 993934、コマ112)。寛永十六年(1639年)の令は『徳川実紀』大猷院殿御実紀 巻四十一(明治三十二年刊本 三十一頁、pid 772999、コマ27)および『通航一覧』巻百八十三(昭和十五年版 第五巻 二十五頁、pid 1908952、コマ18)。肥後の南蛮字印形の停止(慶安元年)は『熊本近世史』(昭和四十五年、pid 9769691、コマ4)。 ↩
  3. 3『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第III期 第七巻(国立国会図書館、pid 12281432、コマ43)。フロイスの1585年10月1日付書簡、『耶蘇会の日本年報』第二巻 百五十一頁(pid 1041121、コマ91)。 ↩
  4. 4鐔のローマ字がキリシタンの印であったことについて、阿部明郎『キリシタン鍔とその象徴』(平成二年、国立国会図書館、pid 13451666、コマ46)。秋山の論は、小倉(大正十四年)六十八〜六十九頁に収める秋山の記述による。 ↩
  5. 5秋山久作の記述。小倉惣右衛門『日本鐔刀工録』(中央刀剣会、大正十四年)六十八〜六十九頁に全文を収める(国立国会図書館、pid 1871584、コマ39)。 ↩
  6. 6和田維四郎編『本邦装劔金工略誌』(大正二年)五十頁(島根大学附属図書館 桑原文庫、7187)。小倉(大正十四年)六十四〜六十五頁(pid 1871584、コマ37)。 ↩
  7. 7和田(大正二年)五十頁、行間の注「寺内伯爵所藏」(島根大学附属図書館 桑原文庫、7187)。同文は小倉(大正十四年)六十〜六十一頁に再録(pid 1871584、コマ35)。 ↩
  8. 8小倉(大正十四年)六十九〜七十一頁(国立国会図書館、pid 1871584、コマ40)。 ↩
  9. 9小倉(大正十四年)六十四〜六十五頁(国立国会図書館、pid 1871584、コマ37)。 ↩
  10. 10小倉惣右衛門の講義、『日本刀講座』第五巻 小道具篇(雄山閣、昭和九〜十年)法安の項(国立国会図書館、pid 1265847、コマ100)。現代表記は『新版日本刀講座』第六巻(昭和四十三年、pid 2526253、コマ54)。 ↩
  11. 11日本美術刀剣保存協会、本鐔の特別保存刀装具鑑定書(令和七年)。原本により確認。 ↩
  12. 12『尾張と三河の鐔工』(昭和五十八年、国立国会図書館、pid 12866767、コマ112)。日本美術刀剣保存協会、第六十三回重要刀装具(平成二十九年十一月十七日指定)、法安在銘鐔の説明。 ↩
  13. 13『尾張と三河の鐔工』(昭和五十八年、国立国会図書館、pid 12866767、コマ112)。日本美術刀剣保存協会、第四十八回重要刀装具(平成十四年)の説明。 ↩
  14. 14日本美術刀剣保存協会、第六十三回重要刀装具(平成二十九年十一月十七日指定)、法安在銘鐔の説明。 ↩
  15. 15志水家の先祖附写(文政六年)、井出家文書より『肥後金工大鑑』に翻刻(国立国会図書館、pid 8312652、コマ33)。 ↩
  16. 16甚五と極められた鐔についての日本美術刀剣保存協会の説明。うち重要刀装 第四十三回第百九十三番(平成九年十月三十日指定)・第四十七回第二百六十九番(平成十三年十月十一日指定)は、鐔に甚五の銘がある肥後拵二点。 ↩

個人蔵

展示制作

展示構成
名品博物館
鐔の写真
個人蔵
文献図版
国立国会図書館、島根大学附属図書館桑原文庫、ライデン大学図書館
同時代の図版
神戸市立博物館、アムステルダム国立美術館
鑑定書
特別保存刀装具(日本美術刀剣保存協会)

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