1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
元治元年十二月日(1864年)(162年前) 出ました出ました源清磨の兄源真雄の門の山浦兵左衛門藤原義信の名刀が出ました。源清磨一門展では必ず必要な本刀ですが真雄の代作者の為に残念ながら作品無く本刀は非常に貴重な名刀です。山浦清磨、山浦真雄と同じ山浦姓の為に清磨や真雄とは親戚の関係です、源真雄の松代藩の荒試しは事に有名で一躍真雄の名声を高めました。試した刀は山浦真雄の二尺一寸五分荒沸出来の刀で、荒沸出来は真雄が得意ではないと断りましたが真田藩抱工の採用試験の為に敢て沸出来で鍛えた刀で試験に臨みます。試しはこもを二枚束ねた干藁から始り、三十四回も刀で切りつけ試しを終えた後、以後は完全な打折り試しを行い、最後の試しの模様は、試し手はほとん必死になって息を切らせ殴り続け、それでも頑固に折れてくれない真雄の見事な刀でした。その時の模様は誠に峻烈を極め見物の武士達も真剣そのもので、手に汗を握るが如く、肌に鳥肌を生ぜしが如しこれが刀剣史上に後々まで語り継がれた[松代藩荒試し]の模様です。(荒試しの詳細は下に記述します)真雄は試刀会の翌日、家老真田志摩から長巻百振りの注文の申し渡しを受け、しかも真雄が上田に帰る時には、真田藩の武具奉行高野車之助と小野喜平太の二人が同道し、真雄が再び松代に戻らぬことを恐れた真田志摩の処置だと言われています。これ以後現在に至るまで清麿系の刀剣は非常に高価です。清磨系の鍛法は本三枚鍛えと言われ柔らかい心鉄に硬い皮鉄を付けそれに刃鉄を着けた強靭な鍛え方です。本刀は正しく真雄の刀を見る様な長寸で元重ね厚く元身幅と先身幅のやや差の有る反の浅い豪壮な刀姿を現し、地金は板目肌に鍛え杢目肌も現し地には多くの地景を現し、刃紋は匂い出来の互の目刃を焼き刃中清磨派の細かな金筋を現し如何にも良く斬れる刀を鍛え上げています。この度古いお数寄者様から大切にしてきた源清磨に縁ある刀を自分も年を取りましたので大切にして頂ける方にお安くお譲り下いとお預かりした為に特別に格安にて源清磨一門展には必ず必要な山浦兵左衛門藤原義信の名刀をご提供いたします是非お楽しみ下さいませ。 源真雄の松代藩の荒試しは事に有名で一躍真雄の名声を高めました。試した刀は山浦真雄の二尺一寸五分荒沸出来の刀で、荒沸出来は真雄が得意ではないと断りましたが真田藩抱工の採用試験の為に敢て沸出来で鍛えた刀で試験に臨みます。試しはこもを二枚束ねた干藁から始り、干藁1回切り、但九分切「切味宜」と記帳されました。次に同じく干藁を10回切り 何れも八・九分切れ、干わらを10回切っても切れ味は変らず。次は竹の入ったわらを6回切り、但七・八分切れてさらに17回切って、僅かに切れ味が鈍っただけでした。ここで研師が刃を付け直し次は古鉄の厚さ一分(3弌防七分(2.1僉1回切って鉄は両断され左右へ切れて飛び、刃切が1か所出来ました。鉄は古いほど鉄性が精良で新鉄にまさりそれを完全に両断したのでさすがに刃切れが入りましたが驚くべき切れ味と強靭さです。次は固い鹿の角を六回切り、その次は竹の入ったわらをまた2回切り。刃こぼれの儘にて六分位切れ、次は鉄砂入張笠を2回切り、その次は古鉄で出来た胴を2回切り次は四分一の地金の鍔を1回切り、ここからは既に切れ味試しではなく、折る試しへの限界への挑戦に入っています。次に再び四分一の鍔を1回切り次に鍛た鉄を1回切り次に鉄の兜を1回切った後に鍛えた鉄に切りつけでようやく曲りを生じたのを鉄鎚で打ち直して使用しましたが、それでもまだ折れない程驚くべき粘着性であり以上の三十四回も刀で切りつけ試しを終えた後、これ以後は完全な打折り試しを行い、長さ五尺五寸(180僉暴鼎吉百三十匁(3、2kgr)の鉄の杖で、刀の弱点とされる棟や平面(鎬部)を強打して鉄の杖を棟より7回きつく棟打を行い、次に平地に6回力一杯に打ち次に鉄敷で棟を6回打ちさらに棟を7回打って、ここで刃切れが大きくなったといいます。次に平打3回、裏返して打つ事2回にしてついに折れました。最後の試しの模様は、試し手はほとん必死になって息を切らせ殴り続け、それでも頑固に折れてくれない真雄の見事な刀でした。その時の模様は誠に峻烈を極め見物の武士達も真剣そのもので、手に汗を握るが如く、肌に鳥肌を生ぜしが如しこれが刀剣史上に後々まで語り継がれた[松代藩荒試し]の模様です。尚、真雄の鍛えたもう一振りの匂出来の刀については、試すに及ばず、ということになったと言います。不得意だという沸出来の刀でさえこの結果を生み、真田藩士の心胆を寒からしめました。得意の匂出来については試す必要を認めなかったのです。真雄は試刀会の翌日、家老真田志摩から長巻百振りの注文の申し渡しを受けています。しかも真雄が上田に帰る時には、真田藩の武具奉行高野車之助と小野喜平太の二人が同道し、真雄が再び松代に戻らぬことを恐れた真田志摩の処置だと言われています。
取扱店 明倫産業
























新々刀 · 信濃 · 1864-1865頃
現在1点販売中
新々刀 · 武蔵
現在14点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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