戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
兼定は、志津一派の流れと伝え、初代が文明頃、二代は初代の子で、名を吉右衛門尉といい、初期は、兼定の定のウ冠の中を「疋」と楷書で切り、文亀頃より「之」と草書に切る事から通称之定と呼ばれ、永正二年に和泉守を受領している。三代が天文頃、四代が弘治頃、その子が会津に移り会津兼定の祖となっている。この刀は、身幅3.4cmもある豪壮な平造の脇差で、地景よく入る杢目肌に、地沸が微塵に厚くつき、明るく冴える美しい地鉄に、互の目に、尖刃・箱形の刃など交え変化に富み、湯走り・飛び焼き掛り、小沸深くつき、金筋・沸筋・砂流し幾重にも頻りに掛るなど刃中の働き盛んで、匂口明るく冴える傑作である
Certificate reading — 銘 兼定




















Seki (Mino) — Izumi no Kami Kanesada, "Nosada" · 美濃 · 1492-1515頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在7点販売中
兼定は美濃関の二代和泉守兼定で、定の字のウ冠の中を「之」と切ることから一般に「ノサダ」と称される刀工である。説明書はその活躍を明応から大永にかけて、室町時代末期の数十年に置き、兼元と並ぶ当代の美濃を代表する工とする。説明書が記すように、古刀期にあって珍しく受領「和泉守」を許された刀工であり、しばしば藤原姓をも切った。初代が平明に銘したのに対し、その名を頂点へ運んだのはこの手であり、刀剣書は端的に「すぐれたる上手」と評する。定の字を楷書から「之」の字体へ改めた時期を、説明書は明応八年十一月以降、同九年八月以前と置き、三代の「ヒキサダ」とは区別する。
本工の典型はこの華やかな美濃の手である。姿は室町時代末期の刀で、身幅広く先反りつき、時に大鋒となって堂々たる体配を呈し、平肉は切るための刀のごとく豊かである。処々僅かに流れて総じてつんだ板目に、地鉄は地沸つき白け映り立つ。刃文は賑やかなもので、互の目に丁子・尖りごころの刃を交え、匂勝ち小沸つき、足・葉わずかに入り、砂流しかかり、極く僅かに飛焼かかる。帽子は乱れ込み掃きかけて、先尖りごころとなる。この作域の最上手の作について、説明書は地刃ともに冴え、「ノサダの本領を示したもので、同工中の白眉」[[c:2]]と記す。
地鉄は終始その手の要である。板目、時に小板目につみて杢を交え、地沸つき白けごころのある地が、ほとんどの作に見える。肌の流れるところは柾ごころとなり、そこに立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、美濃の地鉄の淡い白け映りである。この白ける地こそ極めの拠るところで、より明るい備前の映りと作を分かつ見どころである。その上に匂口を締めて冴えさせ、働きは足・砂流し・小沸に托される。ある磨上の刀は中程やや華やかに乱れて飛焼を交えるが、刃の本体は賑やかな互の目にとどまる。
本工の作はおよそ二つの作域に分かれ、その線は説明書みずからが引く。華やかな美濃の刃の傍らに、よくつんだ小板目に細直刃を焼いた意図的な山城写しがあり、説明書はこれを来国俊など山城の名手を狙ったものとする。この作域について、同名中、京物写としては「此の右に出るものはない」[[c:6]]と評する。なおこの手であることの見どころも同じ一文に名指される。すなわち、これだけ出来ていても刃中にフシのあること、静かな直刃にわずかに互の目が交ること、姿が先反りごころとなり、板目が山城物と異なって白けることである。刀・短刀のほか稀な薙刀まで作域は広く、数口には菊花紋と「伊勢於山田是作」の銘を切ったものがあり、その紋ゆえに「山田打」として珍重される。
関派のうちで本工を分かつのは、まさに極めの言うところである。室町期に兼定と銘する工は数名あり、和泉守を冠する者も一人に限らないため、説明書は各代の区分をなお未定とし、「之」の字を切る手も四人は区別し得るとする。その中でこの工の銘振りが最も称揚され、「技術も一番優れ」世上に賞玩されるとし、永正の年紀を見る作を群中第一に挙げる。白ける板目に焼いた明るく賑やかな美濃の刃と、互の目を秘めた来国俊風の細直刃とが、周囲の平明な関物から本工を分かつ確かな標である。説明書はその作域を「作域も広く美術的価値も高い」[[c:5]]と称える。
収集の観点では、よく残るがけっして多くはない、晩期古刀の大名である。藤代の極めは上々作。この記録に国宝はなく重要文化財もないが、その地位は特別重要刀剣一口と重要刀剣の連なり、そのうちに重要美術品の太刀を含んで支えられ、その作は最上の大名家を経てきた。特別重要刀剣の刀は紀州徳川家の家老三浦将監の指料であり、一口の太刀は武田信玄の父、左京大夫信虎のために打たれた。菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、その作は島津・佐竹・京極・山内・秋元の諸家、また佐野美術館に記録される。特別重要刀剣はわずか一口、他は重要刀剣以下であるから、在銘のノサダは稀にというよりは時折世に出て、鎌倉の大名よりは見つけやすい。それでも由緒の確かな永正の佳作は、世に現れれば一個の画期であり、刀剣書がすぐれたる上手と呼ぶ工の作である。
兼定の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 美濃
現在22点販売中
兼定は美濃国関を本拠とする末関の刀工で、室町時代後期にこの地で繁栄した美濃鍛冶を兼元とともに代表する。兼定を名乗る工は数代にわたるが、説示に最もしばしば挙げられるのは初代兼定の子にあたる二代和泉守兼定である。この二代は「定」の字のウ冠の中を「之」に切ることから「ノサダ」(之定)と称され、これを「疋」に切る後代の「ヒキサダ」と区別される。之定銘の成立については検討がなされ、はじめは「兼定」を楷書で切り、明応末から永正の初めにかけて之の字体に転じたと見られる。受領銘は永正七年紀の作にはじまり大永六年頃まで及び、之定は古刀期にあって珍しく「和泉守」を受領した工として、多くの刀剣書に上手と評される。説示には永正七年・同十年・同十二年などの年紀作、斎藤利隆との合作、伊勢山田での作刀も挙げられている。 作風は、兼元の三本杉と称される尖り刃主調の乱れ刃と対比して論じられることが多い。之定は頭の丸い互の目に小のたれ・互の目丁子・尖り刃などを交えた変化のある乱れ刃を本領とし、刀には湾れ調を基調に焼の高低を見せて大模様に乱れるものや、互の目丁子に尖り刃を交えて飛焼のかかるものがある。地鉄は板目に流れ肌を交えてよく錬れ、地沸つき地景入り、白け映りや白気ごころの立つものが多く、美濃物にありながら鉄色の明るく冴える点が特色とされる。茎の鑢目は関鍛冶に共通する鷹の羽で、短刀の早い時期には檜垣を見る。短刀や直刃調の刀には来写し(山城物写し)と称する上品な直刃があり、刃中に節が出ず来国俊を思わせる出来を示すものがあって、末関の各工に往々見られる節とこの点で見分けられる。之定と他の兼定との識別は、まず定の字体が之か疋かにより、之定はことに鍛えの錬れと地刃の冴えが一段優れる点に見どころがある。 鑑定にあたっては、姿の傾向が出来口と結びつく点が説示に示される。すなわち湾れ調の作では身幅広く鋒の大きい姿となり、互の目丁子を乱れる作では身幅尋常で元先の幅差が開き反りのやや高い洗練された姿を呈することが多い。切れ味の評価は高く、二ツ胴・立袈裟などの截断銘を金象嵌に伝える作が知られ、号「笒釣瓶」のように号を帯びるものもある。伝来も諸家に及び、紀州徳川家家老三浦将監、津山松平家家老小須賀帯刀、島津家、秋田佐竹家、土佐山内家、また武田信虎所持と伝える作などが挙げられている。総じて之定は、明るく冴えた地鉄と変化に富む乱れ刃、ならびに格調高い来写しの直刃をもって、関鍛冶の中でも技術の擢んでた工と位置づけられ、末関・末美濃の頂点を示す名工として評価される。 詳しく見る →
戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品発送後の返品・交換・キャンセルには、基本的に対応しておりません。商品に重大な瑕疵がある場合のみ、当サイトでご購入いただいた商品到着後3日以内であれば返品•交換が可能です。
兼定は、志津一派の流れと伝え、初代が文明頃、二代は初代の子で、名を吉右衛門尉といい、初期は、兼定の定のウ冠の中を「疋」と楷書で切り、文亀頃より「之」と草書に切る事から通称之定と呼ばれ、永正二年に和泉守を受領している。三代が天文頃、四代が弘治頃、その子が会津に移り会津兼定の祖となっている。この刀は、身幅3.4cmもある豪壮な平造の脇差で、地景よく入る杢目肌に、地沸が微塵に厚くつき、明るく冴える美しい地鉄に、互の目に、尖刃・箱形の刃など交え変化に富み、湯走り・飛び焼き掛り、小沸深くつき、金筋・沸筋・砂流し幾重にも頻りに掛るなど刃中の働き盛んで、匂口明るく冴える傑作である
Certificate reading — 銘 兼定




















Seki (Mino) — Izumi no Kami Kanesada, "Nosada" · 美濃 · 1492-1515頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在7点販売中
兼定は美濃関の二代和泉守兼定で、定の字のウ冠の中を「之」と切ることから一般に「ノサダ」と称される刀工である。説明書はその活躍を明応から大永にかけて、室町時代末期の数十年に置き、兼元と並ぶ当代の美濃を代表する工とする。説明書が記すように、古刀期にあって珍しく受領「和泉守」を許された刀工であり、しばしば藤原姓をも切った。初代が平明に銘したのに対し、その名を頂点へ運んだのはこの手であり、刀剣書は端的に「すぐれたる上手」と評する。定の字を楷書から「之」の字体へ改めた時期を、説明書は明応八年十一月以降、同九年八月以前と置き、三代の「ヒキサダ」とは区別する。
本工の典型はこの華やかな美濃の手である。姿は室町時代末期の刀で、身幅広く先反りつき、時に大鋒となって堂々たる体配を呈し、平肉は切るための刀のごとく豊かである。処々僅かに流れて総じてつんだ板目に、地鉄は地沸つき白け映り立つ。刃文は賑やかなもので、互の目に丁子・尖りごころの刃を交え、匂勝ち小沸つき、足・葉わずかに入り、砂流しかかり、極く僅かに飛焼かかる。帽子は乱れ込み掃きかけて、先尖りごころとなる。この作域の最上手の作について、説明書は地刃ともに冴え、「ノサダの本領を示したもので、同工中の白眉」[[c:2]]と記す。
地鉄は終始その手の要である。板目、時に小板目につみて杢を交え、地沸つき白けごころのある地が、ほとんどの作に見える。肌の流れるところは柾ごころとなり、そこに立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、美濃の地鉄の淡い白け映りである。この白ける地こそ極めの拠るところで、より明るい備前の映りと作を分かつ見どころである。その上に匂口を締めて冴えさせ、働きは足・砂流し・小沸に托される。ある磨上の刀は中程やや華やかに乱れて飛焼を交えるが、刃の本体は賑やかな互の目にとどまる。
本工の作はおよそ二つの作域に分かれ、その線は説明書みずからが引く。華やかな美濃の刃の傍らに、よくつんだ小板目に細直刃を焼いた意図的な山城写しがあり、説明書はこれを来国俊など山城の名手を狙ったものとする。この作域について、同名中、京物写としては「此の右に出るものはない」[[c:6]]と評する。なおこの手であることの見どころも同じ一文に名指される。すなわち、これだけ出来ていても刃中にフシのあること、静かな直刃にわずかに互の目が交ること、姿が先反りごころとなり、板目が山城物と異なって白けることである。刀・短刀のほか稀な薙刀まで作域は広く、数口には菊花紋と「伊勢於山田是作」の銘を切ったものがあり、その紋ゆえに「山田打」として珍重される。
関派のうちで本工を分かつのは、まさに極めの言うところである。室町期に兼定と銘する工は数名あり、和泉守を冠する者も一人に限らないため、説明書は各代の区分をなお未定とし、「之」の字を切る手も四人は区別し得るとする。その中でこの工の銘振りが最も称揚され、「技術も一番優れ」世上に賞玩されるとし、永正の年紀を見る作を群中第一に挙げる。白ける板目に焼いた明るく賑やかな美濃の刃と、互の目を秘めた来国俊風の細直刃とが、周囲の平明な関物から本工を分かつ確かな標である。説明書はその作域を「作域も広く美術的価値も高い」[[c:5]]と称える。
収集の観点では、よく残るがけっして多くはない、晩期古刀の大名である。藤代の極めは上々作。この記録に国宝はなく重要文化財もないが、その地位は特別重要刀剣一口と重要刀剣の連なり、そのうちに重要美術品の太刀を含んで支えられ、その作は最上の大名家を経てきた。特別重要刀剣の刀は紀州徳川家の家老三浦将監の指料であり、一口の太刀は武田信玄の父、左京大夫信虎のために打たれた。菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、その作は島津・佐竹・京極・山内・秋元の諸家、また佐野美術館に記録される。特別重要刀剣はわずか一口、他は重要刀剣以下であるから、在銘のノサダは稀にというよりは時折世に出て、鎌倉の大名よりは見つけやすい。それでも由緒の確かな永正の佳作は、世に現れれば一個の画期であり、刀剣書がすぐれたる上手と呼ぶ工の作である。
兼定の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 美濃
現在22点販売中
兼定は美濃国関を本拠とする末関の刀工で、室町時代後期にこの地で繁栄した美濃鍛冶を兼元とともに代表する。兼定を名乗る工は数代にわたるが、説示に最もしばしば挙げられるのは初代兼定の子にあたる二代和泉守兼定である。この二代は「定」の字のウ冠の中を「之」に切ることから「ノサダ」(之定)と称され、これを「疋」に切る後代の「ヒキサダ」と区別される。之定銘の成立については検討がなされ、はじめは「兼定」を楷書で切り、明応末から永正の初めにかけて之の字体に転じたと見られる。受領銘は永正七年紀の作にはじまり大永六年頃まで及び、之定は古刀期にあって珍しく「和泉守」を受領した工として、多くの刀剣書に上手と評される。説示には永正七年・同十年・同十二年などの年紀作、斎藤利隆との合作、伊勢山田での作刀も挙げられている。 作風は、兼元の三本杉と称される尖り刃主調の乱れ刃と対比して論じられることが多い。之定は頭の丸い互の目に小のたれ・互の目丁子・尖り刃などを交えた変化のある乱れ刃を本領とし、刀には湾れ調を基調に焼の高低を見せて大模様に乱れるものや、互の目丁子に尖り刃を交えて飛焼のかかるものがある。地鉄は板目に流れ肌を交えてよく錬れ、地沸つき地景入り、白け映りや白気ごころの立つものが多く、美濃物にありながら鉄色の明るく冴える点が特色とされる。茎の鑢目は関鍛冶に共通する鷹の羽で、短刀の早い時期には檜垣を見る。短刀や直刃調の刀には来写し(山城物写し)と称する上品な直刃があり、刃中に節が出ず来国俊を思わせる出来を示すものがあって、末関の各工に往々見られる節とこの点で見分けられる。之定と他の兼定との識別は、まず定の字体が之か疋かにより、之定はことに鍛えの錬れと地刃の冴えが一段優れる点に見どころがある。 鑑定にあたっては、姿の傾向が出来口と結びつく点が説示に示される。すなわち湾れ調の作では身幅広く鋒の大きい姿となり、互の目丁子を乱れる作では身幅尋常で元先の幅差が開き反りのやや高い洗練された姿を呈することが多い。切れ味の評価は高く、二ツ胴・立袈裟などの截断銘を金象嵌に伝える作が知られ、号「笒釣瓶」のように号を帯びるものもある。伝来も諸家に及び、紀州徳川家家老三浦将監、津山松平家家老小須賀帯刀、島津家、秋田佐竹家、土佐山内家、また武田信虎所持と伝える作などが挙げられている。総じて之定は、明るく冴えた地鉄と変化に富む乱れ刃、ならびに格調高い来写しの直刃をもって、関鍛冶の中でも技術の擢んでた工と位置づけられ、末関・末美濃の頂点を示す名工として評価される。 詳しく見る →
戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト商品発送後の返品・交換・キャンセルには、基本的に対応しておりません。商品に重大な瑕疵がある場合のみ、当サイトでご購入いただいた商品到着後3日以内であれば返品•交換が可能です。