肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
日本刀 脇差:銘 伝武州下原正廣(NTHK鑑定書付) 【解説】 概要 本作は、NTHK(日本刀剣保存会)の鑑定書により、安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)頃に制作された「伝 武州下原正廣」と極められた一振りです。 「武州下原」とは、現在の東京都八王子市にあたる地域を指します。刀剣の記録によれば、下原鍛冶がこの地に定住したのは、八王子城の築城直後である天正16年(1588年)頃とされています。現在、八王子城跡は国の史跡に指定され、日本100名城の一つとしても知られています。 正廣が属した武州下原派は、室町時代末期から江戸時代末期にかけて繁栄した一派で、山本周重を祖と伝えています。下原鍛冶はもともと、室町・安土桃山時代に北関東で強大な勢力を誇った後北条氏に仕えました。その作風は実戦本位で堅牢であり、戦乱の世における武士の需要を反映した実用性の高さで重用されました。 安土桃山時代に豊臣氏によって北条氏が滅ぼされた後、下原鍛冶は徳川氏のお抱え鍛冶として仕えることとなります。下原鍛冶の多くは「山本」を本姓とし、室町末期から江戸初期にかけて最も隆盛を極めました。その後も幕末に至るまで徳川家に仕え、作刀を続けました。本作の作者である正廣の活躍時期は安土桃山時代から江戸初期にあたり、まさに下原派の全盛期に打たれた一振りと言えます。その出来映えからは、当時の優れた職人技を垣間見ることができます。 ※刀身には僅かに鍛え傷が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):48.1 cm 反り(Sori):1.0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造。 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、柄内部の赤錆を防ぐために茎に黒錆を残しました。この茎の錆色は長い年月を経て形成されるものであり、専門家が制作年代を推定する際の重要な指標となります。 【附 拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた外装一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護する一対の金具。 本作の縁頭には「桔梗」と「蜻蛉(とんぼ)」が施されています。秋風に揺れる優雅な桔梗と、その傍らを舞う蜻蛉が、洗練された季節の情景を描き出しています。この構図は江戸時代の絵師・葛飾北斎も描いており、日本の美術様式において非常に親しまれた意匠です。 古来、日本では蜻蛉は「勝利と勇気」の象徴とされてきました。前にのみ進み、決して後ろに退かないその習性から「勝ち虫」と呼ばれ、戦場での不退転の決意を象徴するものとして武士に深く愛好されました。 柄・目貫(Tsuka / Menuki): 目貫の図案は「秋草」と思われます。日本の美術において、秋草は自然の美しさと移ろいゆく情緒を象徴する伝統的な季節のモチーフです。 鍔・鎺(Tsuba / Habaki): 鍔は手を保護するための意匠を凝らした護拳。鎺は刀身を鞘に固定するための金具です。


























新刀 · 肥前
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肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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日本刀 脇差:銘 伝武州下原正廣(NTHK鑑定書付) 【解説】 概要 本作は、NTHK(日本刀剣保存会)の鑑定書により、安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)頃に制作された「伝 武州下原正廣」と極められた一振りです。 「武州下原」とは、現在の東京都八王子市にあたる地域を指します。刀剣の記録によれば、下原鍛冶がこの地に定住したのは、八王子城の築城直後である天正16年(1588年)頃とされています。現在、八王子城跡は国の史跡に指定され、日本100名城の一つとしても知られています。 正廣が属した武州下原派は、室町時代末期から江戸時代末期にかけて繁栄した一派で、山本周重を祖と伝えています。下原鍛冶はもともと、室町・安土桃山時代に北関東で強大な勢力を誇った後北条氏に仕えました。その作風は実戦本位で堅牢であり、戦乱の世における武士の需要を反映した実用性の高さで重用されました。 安土桃山時代に豊臣氏によって北条氏が滅ぼされた後、下原鍛冶は徳川氏のお抱え鍛冶として仕えることとなります。下原鍛冶の多くは「山本」を本姓とし、室町末期から江戸初期にかけて最も隆盛を極めました。その後も幕末に至るまで徳川家に仕え、作刀を続けました。本作の作者である正廣の活躍時期は安土桃山時代から江戸初期にあたり、まさに下原派の全盛期に打たれた一振りと言えます。その出来映えからは、当時の優れた職人技を垣間見ることができます。 ※刀身には僅かに鍛え傷が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):48.1 cm 反り(Sori):1.0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造。 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、柄内部の赤錆を防ぐために茎に黒錆を残しました。この茎の錆色は長い年月を経て形成されるものであり、専門家が制作年代を推定する際の重要な指標となります。 【附 拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた外装一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護する一対の金具。 本作の縁頭には「桔梗」と「蜻蛉(とんぼ)」が施されています。秋風に揺れる優雅な桔梗と、その傍らを舞う蜻蛉が、洗練された季節の情景を描き出しています。この構図は江戸時代の絵師・葛飾北斎も描いており、日本の美術様式において非常に親しまれた意匠です。 古来、日本では蜻蛉は「勝利と勇気」の象徴とされてきました。前にのみ進み、決して後ろに退かないその習性から「勝ち虫」と呼ばれ、戦場での不退転の決意を象徴するものとして武士に深く愛好されました。 柄・目貫(Tsuka / Menuki): 目貫の図案は「秋草」と思われます。日本の美術において、秋草は自然の美しさと移ろいゆく情緒を象徴する伝統的な季節のモチーフです。 鍔・鎺(Tsuba / Habaki): 鍔は手を保護するための意匠を凝らした護拳。鎺は刀身を鞘に固定するための金具です。


























新刀 · 肥前
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肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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