大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
刃渡り(長さ) 68.9センチ 反り 0.4センチ 元鎬厚 7.1ミリ 元重ね6.6ミリ 先鎬厚 4.3ミリ 先重ね4.0ミリ 元幅 31.5ミリ 先幅 20.0ミリ 刀身重量710g ハバキ 銀一重 目釘穴 2個 刃文 互の目乱れに尖り刃、玉焼き交り 小沸出来 地沸付き 足太く入り、砂流し、金線、銀線、稲妻働く 帽子 乱れ込み火焔心尖り深く返る 鍛え 板目流れ詰む 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 越後守包貞 初代包貞の評価額 580万円 説明 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 2/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 3/3 委託販売お預かり品 身幅三糎超え 初代越後守包貞 初代包貞は名を山田平太夫という。 大和の手掻派の後代にて、大和より大阪に出て陸奥守包保門下で伊賀守包道に刀鍛を学ぶ。 寛文四年に越後守を受領。 二代包貞は延宝七年に坂倉言之進照包と改名し、初代の実子が三代目越後守包貞を襲名する。 日本刀は日本の有形文化財でございます。 私たちが後世に残すべき大切な文化財です。 後世にかけて大切にしてくださる方のみご所有ください。 次の主が見つかるまでの間、一時的に弊社にてお預かりし、お世話をさせていただいております。 刀剣のお買取り、下取販売、仲介 も承っております。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・目立った刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れ・匂い切れ・駆け出しなどございません。 *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。
在銘 · 新刀 · 長さ 68.9cm · 反り 0.4cm




Osaka Shinto (Echigo no Kami Kanesada line) · 摂津 · 1648-1652頃
刀剣大鑑 上位37%
現在5点販売中
寛文四年八月の年紀を負う一刀が、指定の記録が一つの銘の下にまとめる十口の越後守包貞のなかにあり、その名を負う二つの手を読み分けるよすがとなる。越後守包貞は二代にわたる大坂の名跡である。初代は生国大和の山田平太夫で、説明が左陸奥と呼ばれた初代陸奥守包保の系、伊賀守包道に承けた文殊系の工とする。始め摂州藤原包貞と銘し、受領して越後守包貞と銘し、製作は慶安から寛文始め頃に及ぶ。二代はその弟子にして養子の坂倉言之進照包で、名跡を継ぎ、初代の実子岩松が成人するに及んでその名を譲り、延宝八年頃より照包と銘した。大坂新刀のうちにあって津田助広と並び、二代はその濤瀾を我がものとし、説明は彼を屈指の名工とする。
この家の最も見やすい作風は、二代の津田助広に倣った濤瀾乱れである。大互の目を基調に刃が波濤のごとくうねり、足長く入り、匂深く小沸よくつき、刃中に砂流しかかり、元にやや長い焼出しが刃をひらく。記録の半ばがこの作風を負い、確かな二代の作はことごとくこれを示して、第二十回の一刀は大互の目のうねりを存分に見せる。説明はこれを範に対して直に読み、ある一刀はその濤瀾を焼いて「津田助広に迫る」とし、二代は初代よりさらに助広に近いとする。波のみなれば範に紛れもしようが、説明はその個性を、大互の目が矢筈風をおびる点、刃中に目立つ砂流し、頑健な造込みに見いだし、第二十七回の脇指を「彼の見どころをよく示した」[[c:1]]一口とする。
地鉄は両代とも小板目肌よくつみ地沸つき、地色明るく冴え、時に地景細かに入って大坂物らしい潤いを帯びる。その上の匂口こそ家の恒常で、匂深く明るく、刃縁は冴えて締まり、説明の言う冴えを示す。帽子は直ぐに小丸となり、先は掃きかけごころとなることが多く、時に長く返る。初代の手は二代より作域が広い。元に短く直ぐの焼出しを置き、その上に直刃・丁子・互の目乱れに丁子を交えて焼き、匂深く砂流しがかかり沸がよくつく。第五十二回の平造脇指はこの作風を存分に示し、身幅広く寸延びごころの体配に頭の丸い互の目を交え、砂流し・金筋目立ち、表裏の物打上に玉を一個づつ焼き、立不動と梵字を彫る。説明はこの玉を焼くところを「後の二代包貞の刃文のさきがけ」[[c:2]]と見る。
両代を、説明は三つの筋で読み分ける。第一は刃文で、焼出しの上に丁子がかった互の目を焼く初代に対し、二代は助広に倣う濤瀾乱れを焼く。その本領を説明は「本領は助広に倣った濤瀾乱れ」[[c:3]]と記す。第二は銘で、初代の銘は直線的で角ばり、一門の祖左陸奥に通じる書風とされ、二代の銘は丸味を帯び、しばしば太鏨で大振りの五字銘をきる。第三は襲名で、設定が最もしばしば立ち返る点である。弟子にして養子の二代は越後守包貞を継ぎ、後に岩松が成人するに及んでその名を譲り、坂倉言之進照包に復した。説明はその改名を、初代隠居と記す延宝八年銘の現存作から延宝八年頃とする。初代の現存品は比較的少なく、寛文四年の年紀を負うこの一刀はそれだけ貴重で、しかも出来が二代をしのばせ、その代作かとも説かれる。
この家の作風は終始、大坂の鍛えを改めた津田助広に対して読まれ、その近似は初代より始まる。すでに初代が、深い匂口と丁子ごころを帯びた互の目をもって助広に近く、ある説明は「津田助広と近似」と記す。二代はその濤瀾乱れをかくも忠実に、かくも整然と倣って、説明は彼を範と並べ、大坂新刀の前列に置く。その個性は範を離れることによってではなく、右に挙げた精確な変り、矢筈の互の目・目立つ砂流し・頑健な造込みによって引かれ、鑑定は借り物の波ではなく彼自身の見どころに拠る。第十七回の脇指を説明は「典型的且つ代表作」[[c:4]]と呼び、地刃の出来を優れたものとする。
包貞の名は記録上十口の重要刀剣に伝わり、刀七口・脇指三口、いずれも在銘で無銘はなく、譲られた名の絡む系にしては悉く銘を負う一群である。国宝も重要文化財もなく、十口のいずれにも伝来の記録はないため、この家は名だたる蔵伝ではなく指定の重要刀剣を通して出会われる。そのなかで二代がより求められ、その濤瀾乱れが収集家の見る作風であり、出来は代々斉しく、説明はその作品に叢がないと評して、これをもって屈指の名工に数える。在銘の越後守包貞は両代いずれも稀に市に現れ、重要刀剣の刀か脇指がその現実の出会いであり、より得難いのは年紀作や平造、あるいは角ばる初期銘と焼出し主導の丁子によって初代の手と知れる一口である。
包貞の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 摂津
現在77点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。 詳しく見る →
大坂 町人の都の刀
大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト¥600,000
刃渡り(長さ) 68.9センチ 反り 0.4センチ 元鎬厚 7.1ミリ 元重ね6.6ミリ 先鎬厚 4.3ミリ 先重ね4.0ミリ 元幅 31.5ミリ 先幅 20.0ミリ 刀身重量710g ハバキ 銀一重 目釘穴 2個 刃文 互の目乱れに尖り刃、玉焼き交り 小沸出来 地沸付き 足太く入り、砂流し、金線、銀線、稲妻働く 帽子 乱れ込み火焔心尖り深く返る 鍛え 板目流れ詰む 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 越後守包貞 初代包貞の評価額 580万円 説明 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 2/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 3/3 委託販売お預かり品 身幅三糎超え 初代越後守包貞 初代包貞は名を山田平太夫という。 大和の手掻派の後代にて、大和より大阪に出て陸奥守包保門下で伊賀守包道に刀鍛を学ぶ。 寛文四年に越後守を受領。 二代包貞は延宝七年に坂倉言之進照包と改名し、初代の実子が三代目越後守包貞を襲名する。 日本刀は日本の有形文化財でございます。 私たちが後世に残すべき大切な文化財です。 後世にかけて大切にしてくださる方のみご所有ください。 次の主が見つかるまでの間、一時的に弊社にてお預かりし、お世話をさせていただいております。 刀剣のお買取り、下取販売、仲介 も承っております。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・目立った刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れ・匂い切れ・駆け出しなどございません。 *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。
在銘 · 新刀 · 長さ 68.9cm · 反り 0.4cm




Osaka Shinto (Echigo no Kami Kanesada line) · 摂津 · 1648-1652頃
刀剣大鑑 上位37%
現在5点販売中
寛文四年八月の年紀を負う一刀が、指定の記録が一つの銘の下にまとめる十口の越後守包貞のなかにあり、その名を負う二つの手を読み分けるよすがとなる。越後守包貞は二代にわたる大坂の名跡である。初代は生国大和の山田平太夫で、説明が左陸奥と呼ばれた初代陸奥守包保の系、伊賀守包道に承けた文殊系の工とする。始め摂州藤原包貞と銘し、受領して越後守包貞と銘し、製作は慶安から寛文始め頃に及ぶ。二代はその弟子にして養子の坂倉言之進照包で、名跡を継ぎ、初代の実子岩松が成人するに及んでその名を譲り、延宝八年頃より照包と銘した。大坂新刀のうちにあって津田助広と並び、二代はその濤瀾を我がものとし、説明は彼を屈指の名工とする。
この家の最も見やすい作風は、二代の津田助広に倣った濤瀾乱れである。大互の目を基調に刃が波濤のごとくうねり、足長く入り、匂深く小沸よくつき、刃中に砂流しかかり、元にやや長い焼出しが刃をひらく。記録の半ばがこの作風を負い、確かな二代の作はことごとくこれを示して、第二十回の一刀は大互の目のうねりを存分に見せる。説明はこれを範に対して直に読み、ある一刀はその濤瀾を焼いて「津田助広に迫る」とし、二代は初代よりさらに助広に近いとする。波のみなれば範に紛れもしようが、説明はその個性を、大互の目が矢筈風をおびる点、刃中に目立つ砂流し、頑健な造込みに見いだし、第二十七回の脇指を「彼の見どころをよく示した」[[c:1]]一口とする。
地鉄は両代とも小板目肌よくつみ地沸つき、地色明るく冴え、時に地景細かに入って大坂物らしい潤いを帯びる。その上の匂口こそ家の恒常で、匂深く明るく、刃縁は冴えて締まり、説明の言う冴えを示す。帽子は直ぐに小丸となり、先は掃きかけごころとなることが多く、時に長く返る。初代の手は二代より作域が広い。元に短く直ぐの焼出しを置き、その上に直刃・丁子・互の目乱れに丁子を交えて焼き、匂深く砂流しがかかり沸がよくつく。第五十二回の平造脇指はこの作風を存分に示し、身幅広く寸延びごころの体配に頭の丸い互の目を交え、砂流し・金筋目立ち、表裏の物打上に玉を一個づつ焼き、立不動と梵字を彫る。説明はこの玉を焼くところを「後の二代包貞の刃文のさきがけ」[[c:2]]と見る。
両代を、説明は三つの筋で読み分ける。第一は刃文で、焼出しの上に丁子がかった互の目を焼く初代に対し、二代は助広に倣う濤瀾乱れを焼く。その本領を説明は「本領は助広に倣った濤瀾乱れ」[[c:3]]と記す。第二は銘で、初代の銘は直線的で角ばり、一門の祖左陸奥に通じる書風とされ、二代の銘は丸味を帯び、しばしば太鏨で大振りの五字銘をきる。第三は襲名で、設定が最もしばしば立ち返る点である。弟子にして養子の二代は越後守包貞を継ぎ、後に岩松が成人するに及んでその名を譲り、坂倉言之進照包に復した。説明はその改名を、初代隠居と記す延宝八年銘の現存作から延宝八年頃とする。初代の現存品は比較的少なく、寛文四年の年紀を負うこの一刀はそれだけ貴重で、しかも出来が二代をしのばせ、その代作かとも説かれる。
この家の作風は終始、大坂の鍛えを改めた津田助広に対して読まれ、その近似は初代より始まる。すでに初代が、深い匂口と丁子ごころを帯びた互の目をもって助広に近く、ある説明は「津田助広と近似」と記す。二代はその濤瀾乱れをかくも忠実に、かくも整然と倣って、説明は彼を範と並べ、大坂新刀の前列に置く。その個性は範を離れることによってではなく、右に挙げた精確な変り、矢筈の互の目・目立つ砂流し・頑健な造込みによって引かれ、鑑定は借り物の波ではなく彼自身の見どころに拠る。第十七回の脇指を説明は「典型的且つ代表作」[[c:4]]と呼び、地刃の出来を優れたものとする。
包貞の名は記録上十口の重要刀剣に伝わり、刀七口・脇指三口、いずれも在銘で無銘はなく、譲られた名の絡む系にしては悉く銘を負う一群である。国宝も重要文化財もなく、十口のいずれにも伝来の記録はないため、この家は名だたる蔵伝ではなく指定の重要刀剣を通して出会われる。そのなかで二代がより求められ、その濤瀾乱れが収集家の見る作風であり、出来は代々斉しく、説明はその作品に叢がないと評して、これをもって屈指の名工に数える。在銘の越後守包貞は両代いずれも稀に市に現れ、重要刀剣の刀か脇指がその現実の出会いであり、より得難いのは年紀作や平造、あるいは角ばる初期銘と焼出し主導の丁子によって初代の手と知れる一口である。
包貞の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 摂津
現在77点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。 詳しく見る →
大坂 町人の都の刀
大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト¥600,000