初代越後守包貞は大坂に住し、通称を山田平太夫と伝える。説明は生国を大和とし、左陸奥と呼ばれた初代陸奥守包保の弟子伊賀守包道の門に学んだ文殊系の刀工とし、製作年代を慶安から寛文始め頃とする。銘は始め摂州藤原包貞ときり、越後守を受領して越後守包貞と銘した。寛文四年八月紀の刀は、比較的少ない初代の現存品の中で唯一の年紀作として貴重とされる。
説明は彼の作風を「互の目丁子を得意とした」とする。小板目肌よくつむ地に地沸つき、互の目丁子に足よく入り、匂深く匂口冴え、砂流しがかかって沸がよくつき、帽子は小丸となる。この点で津田助広と近似していると説明は記す。
説明は「初代作の現存するものは比較的に少ない」とし、その中のある有銘の刀を同作中の代表作として、「殆ど津田越前守助広の若打を見るが如き感があり」と評する。身幅広い平造の脇指は元に直ぐに短く焼出し、その上に頭の丸い互の目を交えた互の目乱れを焼き、地刃の沸強く砂流し目立ち、表裏の物打上に玉を焼き、彫物も珍しい。
一部の作は次代に近く立ち、説明自身がその線を引く。ある刀は「濤欄乱を焼いて津田助広に迫るものがある」とされ、互の目丁子に砂流しがしきりにかかった一口は「殆んど二代包貞を思わせるような冴えた作」とされる。寛文四年紀の刀は常と異なる大互の目に小のたれを交え、説明は「二代のおもかげが偲ばれて、恐らくはその代作であろうか」とする。平造脇指の玉焼もまた「後の二代包貞の刃文のさきがけを見る想いがする」と読まれる。
二代は弟子の坂倉言之進照包で、養子となって二代越後守包貞を襲名し、初代の子が成人するに及んで越後守包貞の名を譲り、言之進照包と名乗った。説明は両代を主に銘字で分かち、二代が丸味を持つ銘振りであるのに対し、「初代は直線的で角ばり、一門の祖の左陸奥に通じる書風である」とする。
初代は指定の記録に重要刀剣六口を数え、いずれも在銘で、伝来の記録はない。現存作が少なく、包貞の名は弟子の濤瀾乱れが代表するため、初代の確かな一口に出会うことは稀であり、角ばった銘字と丁子がかった互の目がその見どころとなる。