出ました出ました山形上山藩松平家2万7千石に伝わったと言われる志津の刀が出ました、当時の江戸時代の鞘書きには篠霰志津(しのあられしず)「細かい霰(あられ)が激しく勢いよく降るさま」の志津の刀、寸法2尺1寸と書かれており、志津の名刀として大切に伝わった刀です。志津とは元来美濃の地名ですが、この地に大和手掻派出身で相州正宗の門人である兼氏が住み、志津三郎兼氏と称した事による兼氏を示す通称です。兼氏の作風は正宗十哲中最も正宗を現していますが、地刃に大和風、美濃風を現しているところに特色が有り古来刀剣界愛好家の垂涎の的の刀です。本刀は身幅広く切っ先が延びた豪壮な姿を現し、地金は板目肌に流れ肌が交じり地沸が付き、刃紋は匂い口しまりごごろに奔放に互の目にこのたれ、尖り刃交じり、帽子は大胆に乱れ込んでいます。しかしながら現在の協会の極めでは刀剣界で素晴らしく有名な名門京山城伊賀守金道家初代となっています。初代金道は関兼道の長男で文禄2年(1593年)(433年前)二条関白下向の時父兼道と共に兄弟4人がお供にて上京。文禄三年(1594年)伊賀守を受領して禁裏御用を承ります。関ヶ原合戦の直前徳川家康より太刀千腰の注文を受けた際、在京の鍛冶を金道の支配下に入れる事を条件に注文を引き受け、戦後家康の取次にて日本鍛冶惣匠の勅許を受けその後刀匠が官位を朝廷より受領する時は全て金道家の弟子として受けなければならない巨大な権限を賜り名実ともに刀匠の棟梁となりました。本刀は南北朝期の長大な刀をすり上げ、刃紋は志津を写してのたれ乱れ刃の刃縁に働きが有り素晴らしく良く焼かれて見事です。初代金道の刀は出来素晴らしく本刀の様に上手な為に江戸期に正宗や貞宗や志津の刀に直され大名家に多くは伝わった為に初代伊賀守金道の在銘の刀が現存作少なく大変貴重な刀です。本刀に付いている昭和26年の山形の大名登録と葵紋の付いたはばきも貴重です。さて皆様のご判断は志津の刀が良いのか初代伊賀守金道の刀が良いのか是非お手に取ってお確かめ下さい。
無銘 · 新刀 · 長さ 63.9cm · 反り 0.5cm
























Mishina (Sanpin) school, Kyoto Shinto · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位18%
現在5点販売中
初代伊賀守金道は美濃関の兼道の四子の長兄で、父および和泉守(来)金道・丹波守吉道・越中守正俊の三弟と共に上京し、西洞院夷川に住した。説明書はその働きを「三品派の名を大いに高めた」[[c:1]]と記す。彼は京新刀三品派の祖であり、いわゆる京五鍛冶の頭領であって、その磨上の太刀を載せる重要美術品の説明は、本工を「日本鍛冶宗匠として活躍」[[c:2]]した日本の名工と称える。二代以下は刀匠の受領を朝廷に推薦する権を世襲し、銘に「日本鍛冶宗匠」と添えた。名は同銘相継いで幕末に及ぶが、説明書は初代を一派中最も優れた手とする。
その作は受領を境に読まれ、この区分が鑑定の背骨をなす。伊賀守受領前、天正頃の作を説明書は本質的な末関とし、「その作域は末関そのもの」[[c:3]]と評する。白気風のある鍛えに尖り互の目を焼いたもの、あるいは互の目丁子やのたれ刃を焼き、匂口が締まりごころに小沸つき、いわゆる三品帽子も未だ形成されていない。この前期の在銘には四兄弟の本国の作風に近いものが数口あり、兼定・氏房に見る互の目丁子や、室町期の打刀を彷彿とさせる小のたれに互の目を交えたものがあって、極めは本工を、美濃の継承を最も真面目に伝えた兄と読む。
受領後、作柄は一新し、その典型の記録の大半はここにある。説明書はこれを「作域は一新して志津風」[[c:4]]と述べ、本工の最も得意とした手とする。板目に杢を交え棟寄りに強く流れた肌を交えて肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景のよく入る地に、小のたれを基調とした大乱れを焼く。大互の目・角がかった刃・尖り刃を交え、沸が強く時に荒く、むら立ち、砂流しさかんに金筋長く入り、湯走り・小さな飛焼を交えて匂口沈みごころとなる。美濃の根に相州・志津の働きを接いだ手であり、剣書は本工を志津・関・大和・相州の各伝に通達した上手と記す。
地鉄は前後両期を貫く常である。棟寄りに流れて流れ肌となり肌立つ板目に、地沸厚く地景頻りに入り、美濃関の継承を京の作にまで伝え、最上手の作では区上より水影が立つ。その上の後期の刃は静かというより落ち着かず、沸がむらに凝って処々崩れ、砂流しはしばしば金筋を伴って縞をなす。帽子は最も明快な見どころで、のたれ・乱れ込みに先尖って掃きかけさかんな三品帽子は、前期には明確に欠け後期に顕現する。志津風の刃では中程に強い沸が凝り、簾刃の萌芽を見せる――この種こそ、後代の三品派を特徴づける見どころである。
本工を分かつのは、まさに極めの言うところである。前期の美濃の過去とは、強い沸・金筋・砂流し、そして前期末関作の欠く簾刃の萌芽と三品帽子によって分かたれる。典型をなす志津風は末弟越中守正俊と共有した得意の作であり、大磨上無銘の志津を写したかと思わせる作もある。銘は「金道作」の三字銘、五字銘、「藤原」を冠した七字銘があって年紀作は稀であり、銘振りもまた作風と共に作を一派に位置づける。彼は三品派が京新刀の大家の一つに育つ根である。
収集の観点では、新刀の礎をなす名である。藤代は初代を上々作とする。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は戦前の重要美術品と現代の級を通じ、特別重要刀剣に四口、重要刀剣に十八口を数え、説明書はその最上手を傑作・「初代金道の白眉」とし、覇気に溢れ地刃ともに健体の作と称える。記録に残る伝来は乏しいが確かで、ある特別重要刀剣の刀は谷干城の愛刀のうちにあり、重要美術品の作は佐竹家に伝来した。特別重要刀剣・重要刀剣の級に凡そ二十数口が立ち、そのうち市に出るものは僅かであるから、在銘の初代伊賀守金道が世に現れるのは折々のことで、根気をもって相対し得る一口は、三品派いかに始まったかを語る証である。
金道の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在59点販売中
三品派は、美濃国関の兼道を源流とし、その子らが京へ上って興した新刀の一門である。説明書は、兼道の四子すなわち長兄伊賀守金道、来金道、丹波守吉道、末弟越中守正俊が父と共に美濃より上京し、西洞院夷川に住して三品派の名を大いに高めたと記す。長兄金道は京五鍛冶の頭領にして、その家は刀工の受領を朝廷に推薦する権を世襲し、銘に「日本鍛冶宗匠」と添えて幕末に及んだ。やがて一門は京にとどまらず大坂へも枝を張り、京初代丹波守吉道の子が大坂に移って大坂丹波の祖となり、その周囲に大和守吉道が連なり、丹後守兼道のごとく大坂に住して元禄頃に活躍した工も出た。末関の量産地に発しながら、堀川派と並ぶ京新刀の一大勢力に育ち、さらに大坂へと展開した点に、この一門の歩みがある。 作風を貫くのは、工と世代の差を越えて繰り返される三品の共通語法である。地鉄は板目に杢や流れ肌を交えて棟寄りに強く流れ、刃寄りで柾がかって肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景のよく入るもので、美濃関の継承を京の作にまで伝える。京の古い手が肌立つ板目を見せるのに対し、大坂の系では小板目をよくつめ清く澄んだ地に転ずる差がある。刃文は美濃由来の互の目と尖り刃を基調に、これを京風に洗練して小のたれの大乱れに展開し、沸が強く時に荒くむら立ち、砂流しさかんに金筋長く入る。最も明快な見どころは帽子で、のたれ込みに先尖って掃きかける三品帽子は一門の標識をなし、末弟正俊にことに顕著である。いま一つの標識が丹波守吉道の創案した簾刃で、湯走り・飛焼・砂流しが幾重にも縞がかって簾の如く焼かれる。金道と正俊が志津風を共に得意として作域広く、吉道はこの簾刃の一手に己を結び、大坂の系はその簾刃を最もよく継いだ。同じ語法のうちに、各工の手が読み分けられる。 収集の観点では、三品派は新刀草創の格と明快な鑑定の勘所をあわせ持つ一門である。先尖って掃きかける三品帽子と、縞がかって平行に焼かれる簾刃の二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、大坂の直ぐで均一の焼出しは京の手と分かつ目印となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、初代伊賀守金道は一派中最も優れた手とされ、初代丹波守吉道は初期新刀屈指の名工に数えられ、末弟正俊は器用さ兄弟中第一と評される。一門の作はおおむね在銘で、銘そのものが時の標識となり、由緒の確かさをもって賞翫される。来歴の知られる作は谷干城の愛刀、佐竹家、織田有楽斎、北野天満宮、皇室、大坂城代青山家の蔵を経て伝わり、一口は京都国立博物館に納まる。最上手の在銘作が市に現れるのは折々のことで容易ではないが、一たび相見えれば、三品派が美濃関より京・大坂へいかに展開したかを語る確かな証となる。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
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無銘 · 新刀 · 長さ 63.9cm · 反り 0.5cm
























Mishina (Sanpin) school, Kyoto Shinto · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位18%
現在5点販売中
初代伊賀守金道は美濃関の兼道の四子の長兄で、父および和泉守(来)金道・丹波守吉道・越中守正俊の三弟と共に上京し、西洞院夷川に住した。説明書はその働きを「三品派の名を大いに高めた」[[c:1]]と記す。彼は京新刀三品派の祖であり、いわゆる京五鍛冶の頭領であって、その磨上の太刀を載せる重要美術品の説明は、本工を「日本鍛冶宗匠として活躍」[[c:2]]した日本の名工と称える。二代以下は刀匠の受領を朝廷に推薦する権を世襲し、銘に「日本鍛冶宗匠」と添えた。名は同銘相継いで幕末に及ぶが、説明書は初代を一派中最も優れた手とする。
その作は受領を境に読まれ、この区分が鑑定の背骨をなす。伊賀守受領前、天正頃の作を説明書は本質的な末関とし、「その作域は末関そのもの」[[c:3]]と評する。白気風のある鍛えに尖り互の目を焼いたもの、あるいは互の目丁子やのたれ刃を焼き、匂口が締まりごころに小沸つき、いわゆる三品帽子も未だ形成されていない。この前期の在銘には四兄弟の本国の作風に近いものが数口あり、兼定・氏房に見る互の目丁子や、室町期の打刀を彷彿とさせる小のたれに互の目を交えたものがあって、極めは本工を、美濃の継承を最も真面目に伝えた兄と読む。
受領後、作柄は一新し、その典型の記録の大半はここにある。説明書はこれを「作域は一新して志津風」[[c:4]]と述べ、本工の最も得意とした手とする。板目に杢を交え棟寄りに強く流れた肌を交えて肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景のよく入る地に、小のたれを基調とした大乱れを焼く。大互の目・角がかった刃・尖り刃を交え、沸が強く時に荒く、むら立ち、砂流しさかんに金筋長く入り、湯走り・小さな飛焼を交えて匂口沈みごころとなる。美濃の根に相州・志津の働きを接いだ手であり、剣書は本工を志津・関・大和・相州の各伝に通達した上手と記す。
地鉄は前後両期を貫く常である。棟寄りに流れて流れ肌となり肌立つ板目に、地沸厚く地景頻りに入り、美濃関の継承を京の作にまで伝え、最上手の作では区上より水影が立つ。その上の後期の刃は静かというより落ち着かず、沸がむらに凝って処々崩れ、砂流しはしばしば金筋を伴って縞をなす。帽子は最も明快な見どころで、のたれ・乱れ込みに先尖って掃きかけさかんな三品帽子は、前期には明確に欠け後期に顕現する。志津風の刃では中程に強い沸が凝り、簾刃の萌芽を見せる――この種こそ、後代の三品派を特徴づける見どころである。
本工を分かつのは、まさに極めの言うところである。前期の美濃の過去とは、強い沸・金筋・砂流し、そして前期末関作の欠く簾刃の萌芽と三品帽子によって分かたれる。典型をなす志津風は末弟越中守正俊と共有した得意の作であり、大磨上無銘の志津を写したかと思わせる作もある。銘は「金道作」の三字銘、五字銘、「藤原」を冠した七字銘があって年紀作は稀であり、銘振りもまた作風と共に作を一派に位置づける。彼は三品派が京新刀の大家の一つに育つ根である。
収集の観点では、新刀の礎をなす名である。藤代は初代を上々作とする。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は戦前の重要美術品と現代の級を通じ、特別重要刀剣に四口、重要刀剣に十八口を数え、説明書はその最上手を傑作・「初代金道の白眉」とし、覇気に溢れ地刃ともに健体の作と称える。記録に残る伝来は乏しいが確かで、ある特別重要刀剣の刀は谷干城の愛刀のうちにあり、重要美術品の作は佐竹家に伝来した。特別重要刀剣・重要刀剣の級に凡そ二十数口が立ち、そのうち市に出るものは僅かであるから、在銘の初代伊賀守金道が世に現れるのは折々のことで、根気をもって相対し得る一口は、三品派いかに始まったかを語る証である。
金道の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在59点販売中
三品派は、美濃国関の兼道を源流とし、その子らが京へ上って興した新刀の一門である。説明書は、兼道の四子すなわち長兄伊賀守金道、来金道、丹波守吉道、末弟越中守正俊が父と共に美濃より上京し、西洞院夷川に住して三品派の名を大いに高めたと記す。長兄金道は京五鍛冶の頭領にして、その家は刀工の受領を朝廷に推薦する権を世襲し、銘に「日本鍛冶宗匠」と添えて幕末に及んだ。やがて一門は京にとどまらず大坂へも枝を張り、京初代丹波守吉道の子が大坂に移って大坂丹波の祖となり、その周囲に大和守吉道が連なり、丹後守兼道のごとく大坂に住して元禄頃に活躍した工も出た。末関の量産地に発しながら、堀川派と並ぶ京新刀の一大勢力に育ち、さらに大坂へと展開した点に、この一門の歩みがある。 作風を貫くのは、工と世代の差を越えて繰り返される三品の共通語法である。地鉄は板目に杢や流れ肌を交えて棟寄りに強く流れ、刃寄りで柾がかって肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景のよく入るもので、美濃関の継承を京の作にまで伝える。京の古い手が肌立つ板目を見せるのに対し、大坂の系では小板目をよくつめ清く澄んだ地に転ずる差がある。刃文は美濃由来の互の目と尖り刃を基調に、これを京風に洗練して小のたれの大乱れに展開し、沸が強く時に荒くむら立ち、砂流しさかんに金筋長く入る。最も明快な見どころは帽子で、のたれ込みに先尖って掃きかける三品帽子は一門の標識をなし、末弟正俊にことに顕著である。いま一つの標識が丹波守吉道の創案した簾刃で、湯走り・飛焼・砂流しが幾重にも縞がかって簾の如く焼かれる。金道と正俊が志津風を共に得意として作域広く、吉道はこの簾刃の一手に己を結び、大坂の系はその簾刃を最もよく継いだ。同じ語法のうちに、各工の手が読み分けられる。 収集の観点では、三品派は新刀草創の格と明快な鑑定の勘所をあわせ持つ一門である。先尖って掃きかける三品帽子と、縞がかって平行に焼かれる簾刃の二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、大坂の直ぐで均一の焼出しは京の手と分かつ目印となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、初代伊賀守金道は一派中最も優れた手とされ、初代丹波守吉道は初期新刀屈指の名工に数えられ、末弟正俊は器用さ兄弟中第一と評される。一門の作はおおむね在銘で、銘そのものが時の標識となり、由緒の確かさをもって賞翫される。来歴の知られる作は谷干城の愛刀、佐竹家、織田有楽斎、北野天満宮、皇室、大坂城代青山家の蔵を経て伝わり、一口は京都国立博物館に納まる。最上手の在銘作が市に現れるのは折々のことで容易ではないが、一たび相見えれば、三品派が美濃関より京・大坂へいかに展開したかを語る確かな証となる。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。