初代康継・親国貞 大小(100325) Nihonto.comでは、新刀期の最重要工である初代康継、および初代国貞(親国貞)による、見事な大小一腰をご紹介いたします。両工ともに藤代義雄氏の評価において「上々作」に列せられており、これは最上位に次ぐ極めて高い格付けであり、名実ともにトップクラスの刀工であることを示しています。 【初代康継】 康継家(越前康継)の歴史は、天文年間(16世紀半ば)に生まれたとされる初代・市左衛門に始まります。出生地は近江国滋賀郡下坂(現在の滋賀県、琵琶湖周辺)と伝えられています。康継は、大和国千手院の末裔と称される広長を父に持つ、由緒ある作刀の家に生まれました。父・広長は近江の工でしたが、その作風は美濃伝を基礎としていました。 康継の初期の修行は、家伝である大和千手院伝および美濃伝から始まりました。当初は「越前住下坂」と銘を切っていましたが、後に相州伝の研究にも打ち込み、これら三伝を自在にこなす技量を習得しました。文禄年間(1592-1596年)には「肥後大掾」を受領。この頃、あるいは慶長元年の初め頃に越前国福井へ移住したと考えられています。 日本の刀剣史において、多くの名工たちが時の有力な大名や諸侯の庇護を受けて隆盛を極めましたが、康継もまたその一人でした。彼は徳川家康の三男であり、越前福井藩の初代藩主となった結城(松平)秀康に見出され、その厚い知遇を得ることとなります。歴史が証明するように、優れた才能が世に出るためには、その実力もさることながら、誰に見出されるかという機運もまた極めて重要な要素となります。








































Echizen Shimosaka (Yasutsugu) · 武蔵 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位5%
現在4点販売中
初代康継は近江国坂田郡下坂郷の出身で下坂市左衛門と称し、越前に移住して結城秀康に仕え、初期には「肥後大掾下坂」と銘した。慶長十年の末から十一年の初めにかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀し、その褒賞として「康」の一字と葵紋を茎に切ることを許されて康継と改名した。説明書はこの経歴をほぼ同文で繰り返し、「世に康継を「葵下坂」[[c:6]]「御紋康継」と称するのはこれに因る」と記す。以後、将軍家の御抱工として越前と江戸を一年おきに勤務し、元和七年(一六二一)に歿した。
その茎は当代に類がない。葵紋は銘の上に切られる下賜の紋であって銘そのものではなく、これに材料の添銘が併う。説明書に「彼は南蛮鉄の処理法にだけ、当時唯一人、堂々と以南蛮鉄と切添えている」[[c:7]]という。隔年勤務もそのまま銘に残り、「本国打には「越前住」[[c:8]]と切り、江戸打には「於武州江戸」と切添えている」。大御所家康の駿府滞在中の鍛刀は「駿州打」と称して珍重され、現存は数口、刀は長大のものが多く、地鉄が精美で焼刃の穏やかなものと、地鉄が荒びて焼刃のさかんに乱れたものの二様に分かれると説かれる。その一口は「駿府御分物之一」、すなわち家康が秀忠・義直・頼宜・頼房にかたみ分けした内の一口で、紀州徳川家に伝来した。指定七十四口のうち七十二口が在銘、無銘は一口に過ぎず、慶長の年紀や金象嵌の截断銘が優品の銘に併う。
作風はまず地鉄に立つ。鍛えは板目に杢が目立って交じって肌立ちごころとなり、地沸厚く、地景細かに入り、かねが黒みをおびる。説明書はこれを「越前がねの特色」と名指す。刃文は浅いのたれ・中直刃調を基調に小互の目が連れて交じり、小足頻りに入り、葉を交え、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、金筋・砂流しかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先が尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて返りを長く焼く。姿は身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。説明書はこの出来口を「初代康継の典型的な作域」[[c:5]]と呼ぶ。彫物は彫口深く力強く、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・素剣などが多く、記内ら越前彫物師の手と読まれる。
作域は時期と目的とで分かれる。下賜以前の作は稀で、「肥後大掾下坂銘の刀は現存が少なく数口を数えるに過ぎない」[[c:9]]とされ、いずれも比較的おだやかによく整った穏やかな作風を示す。初期銘は同国の貞国・兼法と非常に似通い、その極めは銘振りによる。他方の極が写し物である。大坂落城の折に焼失した太閤御物の多くを再刃したことから様々な名物写しを試み、「中でも貞宗写しを最も得意としている」[[c:10]]。切刃・安宅・梅竹・獅子の各貞宗写しのほか、本阿弥光徳の刀絵図にのみ遺る若江正宗、宗近の海老名小鍛冶(再刃の本歌は今日徳川美術館に現存)、吉光の鯰尾藤四郎・親子藤四郎の写し、長谷部写しと思われる皆焼の作が遺る。その評価は明快で、「地、刃の出来は、彼独自の作風を示しており、徒らに模倣していないところに特色がある」[[c:11]]。本科の焼失した今日、写しそのものが特に貴重とされる。表裏の出来が極端に異なる「児の手柏」も他の越前新刀にまま見られるが、彼の作はそのお手本というべき出来と評される。
短刀は稀で、「初二代通しても短刀の製作は極めて少ない」[[c:12]]。その一口は地刃が古作則重をほうふつさせ、龍乗不動の彫は同工中この一口のみという。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、「継」の字形以外では殆ど区別し難いと評され、永く江戸三代とされてきた著名な脇指は「二代康継の代銘による初代康継の作であるという説が有力視されている」[[c:13]]。二代の後、家は江戸・越前の両下坂家に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。
藤代の極めは上々作。指定は七十四口、内訳は重要文化財二口・重要美術品十三口・特別重要刀剣十二口・重要刀剣四十七口である。伝来は三十口に録され、後援者本多飛騨守成重の所持銘が優品に多く、特重の獅子貞宗写しには本多家定紋付きの生ぶの拵が附属する。結城秀康の次男松平忠昌が大坂夏の陣の初陣に帯びた号「風雷神」の刀は久しく越前松平家に伝来し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、その他は尾張徳川黎明会・三井高公・榎本武揚らの手を経た。中川清秀の孫中川左平太の金象嵌截断銘も特重二口に残る。国宝はなく重要文化財も僅かであり、市場に現れ得るのは在銘の特重・重刀級の刀・脇指で、折々見かけ得るが、名物写しや駿州打、本多家所持銘の優品が現れることは稀で、現れれば刮目すべき一口となる。
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトThree-day inspection period and seven-day return period; buyer notifies by email within three days of receipt, no reason needed; full refund once item returned undamaged and unaltered.
初代康継・親国貞 大小(100325) Nihonto.comでは、新刀期の最重要工である初代康継、および初代国貞(親国貞)による、見事な大小一腰をご紹介いたします。両工ともに藤代義雄氏の評価において「上々作」に列せられており、これは最上位に次ぐ極めて高い格付けであり、名実ともにトップクラスの刀工であることを示しています。 【初代康継】 康継家(越前康継)の歴史は、天文年間(16世紀半ば)に生まれたとされる初代・市左衛門に始まります。出生地は近江国滋賀郡下坂(現在の滋賀県、琵琶湖周辺)と伝えられています。康継は、大和国千手院の末裔と称される広長を父に持つ、由緒ある作刀の家に生まれました。父・広長は近江の工でしたが、その作風は美濃伝を基礎としていました。 康継の初期の修行は、家伝である大和千手院伝および美濃伝から始まりました。当初は「越前住下坂」と銘を切っていましたが、後に相州伝の研究にも打ち込み、これら三伝を自在にこなす技量を習得しました。文禄年間(1592-1596年)には「肥後大掾」を受領。この頃、あるいは慶長元年の初め頃に越前国福井へ移住したと考えられています。 日本の刀剣史において、多くの名工たちが時の有力な大名や諸侯の庇護を受けて隆盛を極めましたが、康継もまたその一人でした。彼は徳川家康の三男であり、越前福井藩の初代藩主となった結城(松平)秀康に見出され、その厚い知遇を得ることとなります。歴史が証明するように、優れた才能が世に出るためには、その実力もさることながら、誰に見出されるかという機運もまた極めて重要な要素となります。








































Echizen Shimosaka (Yasutsugu) · 武蔵 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位5%
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初代康継は近江国坂田郡下坂郷の出身で下坂市左衛門と称し、越前に移住して結城秀康に仕え、初期には「肥後大掾下坂」と銘した。慶長十年の末から十一年の初めにかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀し、その褒賞として「康」の一字と葵紋を茎に切ることを許されて康継と改名した。説明書はこの経歴をほぼ同文で繰り返し、「世に康継を「葵下坂」[[c:6]]「御紋康継」と称するのはこれに因る」と記す。以後、将軍家の御抱工として越前と江戸を一年おきに勤務し、元和七年(一六二一)に歿した。
その茎は当代に類がない。葵紋は銘の上に切られる下賜の紋であって銘そのものではなく、これに材料の添銘が併う。説明書に「彼は南蛮鉄の処理法にだけ、当時唯一人、堂々と以南蛮鉄と切添えている」[[c:7]]という。隔年勤務もそのまま銘に残り、「本国打には「越前住」[[c:8]]と切り、江戸打には「於武州江戸」と切添えている」。大御所家康の駿府滞在中の鍛刀は「駿州打」と称して珍重され、現存は数口、刀は長大のものが多く、地鉄が精美で焼刃の穏やかなものと、地鉄が荒びて焼刃のさかんに乱れたものの二様に分かれると説かれる。その一口は「駿府御分物之一」、すなわち家康が秀忠・義直・頼宜・頼房にかたみ分けした内の一口で、紀州徳川家に伝来した。指定七十四口のうち七十二口が在銘、無銘は一口に過ぎず、慶長の年紀や金象嵌の截断銘が優品の銘に併う。
作風はまず地鉄に立つ。鍛えは板目に杢が目立って交じって肌立ちごころとなり、地沸厚く、地景細かに入り、かねが黒みをおびる。説明書はこれを「越前がねの特色」と名指す。刃文は浅いのたれ・中直刃調を基調に小互の目が連れて交じり、小足頻りに入り、葉を交え、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、金筋・砂流しかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先が尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて返りを長く焼く。姿は身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。説明書はこの出来口を「初代康継の典型的な作域」[[c:5]]と呼ぶ。彫物は彫口深く力強く、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・素剣などが多く、記内ら越前彫物師の手と読まれる。
作域は時期と目的とで分かれる。下賜以前の作は稀で、「肥後大掾下坂銘の刀は現存が少なく数口を数えるに過ぎない」[[c:9]]とされ、いずれも比較的おだやかによく整った穏やかな作風を示す。初期銘は同国の貞国・兼法と非常に似通い、その極めは銘振りによる。他方の極が写し物である。大坂落城の折に焼失した太閤御物の多くを再刃したことから様々な名物写しを試み、「中でも貞宗写しを最も得意としている」[[c:10]]。切刃・安宅・梅竹・獅子の各貞宗写しのほか、本阿弥光徳の刀絵図にのみ遺る若江正宗、宗近の海老名小鍛冶(再刃の本歌は今日徳川美術館に現存)、吉光の鯰尾藤四郎・親子藤四郎の写し、長谷部写しと思われる皆焼の作が遺る。その評価は明快で、「地、刃の出来は、彼独自の作風を示しており、徒らに模倣していないところに特色がある」[[c:11]]。本科の焼失した今日、写しそのものが特に貴重とされる。表裏の出来が極端に異なる「児の手柏」も他の越前新刀にまま見られるが、彼の作はそのお手本というべき出来と評される。
短刀は稀で、「初二代通しても短刀の製作は極めて少ない」[[c:12]]。その一口は地刃が古作則重をほうふつさせ、龍乗不動の彫は同工中この一口のみという。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、「継」の字形以外では殆ど区別し難いと評され、永く江戸三代とされてきた著名な脇指は「二代康継の代銘による初代康継の作であるという説が有力視されている」[[c:13]]。二代の後、家は江戸・越前の両下坂家に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。
藤代の極めは上々作。指定は七十四口、内訳は重要文化財二口・重要美術品十三口・特別重要刀剣十二口・重要刀剣四十七口である。伝来は三十口に録され、後援者本多飛騨守成重の所持銘が優品に多く、特重の獅子貞宗写しには本多家定紋付きの生ぶの拵が附属する。結城秀康の次男松平忠昌が大坂夏の陣の初陣に帯びた号「風雷神」の刀は久しく越前松平家に伝来し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、その他は尾張徳川黎明会・三井高公・榎本武揚らの手を経た。中川清秀の孫中川左平太の金象嵌截断銘も特重二口に残る。国宝はなく重要文化財も僅かであり、市場に現れ得るのは在銘の特重・重刀級の刀・脇指で、折々見かけ得るが、名物写しや駿州打、本多家所持銘の優品が現れることは稀で、現れれば刮目すべき一口となる。
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
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茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトThree-day inspection period and seven-day return period; buyer notifies by email within three days of receipt, no reason needed; full refund once item returned undamaged and unaltered.