説明

越前康継は、徳川将軍家及び越前松平家に抱えられた刀工で、通称葵下坂と呼ばれ、初二代ともに新刀最上作に列する。古上作の写しを得意とし、大名家伝来の正宗、貞宗、信国には康継の作と思われるものが多くあるという。初代康継は、近江国坂田郡下坂郷の出身で、美濃赤坂千手院広長の子と伝え、名を下坂市左衛門と称し、文禄年間に肥後大掾を受領、慶長六年(1601年)に越前入りした結城秀康より四十石の扶持を受けた。初期は越前下坂と銘し、慶長十一年頃に徳川家康及び秀忠により召し出され、鍛刀した際にその技量を認められ、家康の康の一字と葵紋を切ることを許され康継と改め、将軍家御用鍛治となり五十人扶を受ける。以後二代までは、隔年江戸と越前にて打つという。江戸三代康継は、二代康継の嫡子で、名を右馬助という。彼が十七歳の時に父が没し、初代康継の三男である四郎右衛門との間に相続争いが起こったが、江戸を右馬助が、叔父四郎右衛門が越前を相続することで決着し、以後下坂家は江戸と越前に分かれて作刀している。この刀は、反りやや浅く鋒詰まりごころとなる寛文新刀の姿で、地沸微塵に厚くつき、地景よく入り、肌立った地鉄に、互の目に、玉焼き・箱形の刃・小互の目・丁子刃交じるなど変化に富み、足・葉太くよく入り、沸よくつき、金筋砂流し掛り、匂口明るく冴える。地刃冴え、頗る健全な名品である。

康継 脇差 特別保存刀剣
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Tokuho売切れ

康継 脇差 特別保存刀剣

脇差

売却済

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仕様

長さ

45.8 cm

反り

0.9 cm

元幅

3 cm

先幅

2.2 cm

作者について

Shimosaka Yasutsugu康繼

2 重要文化財13 重要美術品12 特別重要刀剣47 重要刀剣

初代康継は近江国坂田郡下坂郷の出身で下坂市左衛門と称し、越前に移住して結城秀康に仕え、初期には「肥後大掾下坂」と銘した。慶長十年の末から十一年の初めにかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀し、その褒賞として「康」の一字と葵紋を茎に切ることを許されて康継と改名した。説明書はこの経歴をほぼ同文で繰り返し、「世に康継を「葵下坂」「御紋康継」と称するのはこれに因る」と記す。以後、将軍家の御抱工として越前と江戸を一年おきに勤務し、元和七年(一六二一)に歿した。 その茎は当代に類がない。葵紋は銘の上に切られる下賜の紋であって銘そのものではなく、これに材料の添銘が併う。説明書に「彼は南蛮鉄の処理法にだけ、当時唯一人、堂々と以南蛮鉄と切添えている」という。隔年勤務もそのまま銘に残り、「本国打には「越前住」と切り、江戸打には「於武州江戸」と切添えている」。大御所家康の駿府滞在中の鍛刀は「駿州打」と称して珍重され、現存は数口、刀は長大のものが多く、地鉄が精美で焼刃の穏やかなものと、地鉄が荒びて焼刃のさかんに乱れたものの二様に分かれると説かれる。その一口は「駿府御分物之一」、すなわち家康が秀忠・義直・頼宜・頼房にかたみ分けした内の一口で、紀州徳川家に伝来した。指定七十四口のうち七十二口が在銘、無銘は一口に過ぎず、慶長の年紀や金象嵌の截断銘が優品の銘に併う。 作風はまず地鉄に立つ。鍛えは板目に杢が目立って交じって肌立ちごころとなり、地沸厚く、地景細かに入り、かねが黒みをおびる。説明書はこれを「越前がねの特色」と名指す。刃文は浅いのたれ・中直刃調を基調に小互の目が連れて交じり、小足頻りに入り、葉を交え、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、金筋・砂流しかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先が尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて返りを長く焼く。姿は身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。説明書はこの出来口を「初代康継の典型的な作域」と呼ぶ。彫物は彫口深く力強く、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・素剣などが多く、記内ら越前彫物師の手と読まれる。 作域は時期と目的とで分かれる。下賜以前の作は稀で、「肥後大掾下坂銘の刀は現存が少なく数口を数えるに過ぎない」とされ、いずれも比較的おだやかによく整った穏やかな作風を示す。初期銘は同国の貞国・兼法と非常に似通い、その極めは銘振りによる。他方の極が写し物である。大坂落城の折に焼失した太閤御物の多くを再刃したことから様々な名物写しを試み、「中でも貞宗写しを最も得意としている」。切刃・安宅・梅竹・獅子の各貞宗写しのほか、本阿弥光徳の刀絵図にのみ遺る若江正宗、宗近の海老名小鍛冶(再刃の本歌は今日徳川美術館に現存)、吉光の鯰尾藤四郎・親子藤四郎の写し、長谷部写しと思われる皆焼の作が遺る。その評価は明快で、「地、刃の出来は、彼独自の作風を示しており、徒らに模倣していないところに特色がある」。本科の焼失した今日、写しそのものが特に貴重とされる。表裏の出来が極端に異なる「児の手柏」も他の越前新刀にまま見られるが、彼の作はそのお手本というべき出来と評される。 短刀は稀で、「初二代通しても短刀の製作は極めて少ない」。その一口は地刃が古作則重をほうふつさせ、龍乗不動の彫は同工中この一口のみという。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、「継」の字形以外では殆ど区別し難いと評され、永く江戸三代とされてきた著名な脇指は「二代康継の代銘による初代康継の作であるという説が有力視されている」。二代の後、家は江戸・越前の両下坂家に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。 藤代の極めは上々作。指定は七十四口、内訳は重要文化財二口・重要美術品十三口・特別重要刀剣十二口・重要刀剣四十七口である。伝来は三十口に録され、後援者本多飛騨守成重の所持銘が優品に多く、特重の獅子貞宗写しには本多家定紋付きの生ぶの拵が附属する。結城秀康の次男松平忠昌が大坂夏の陣の初陣に帯びた号「風雷神」の刀は久しく越前松平家に伝来し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、その他は尾張徳川黎明会・三井高公・榎本武揚らの手を経た。中川清秀の孫中川左平太の金象嵌截断銘も特重二口に残る。国宝はなく重要文化財も僅かであり、市場に現れ得るのは在銘の特重・重刀級の刀・脇指で、折々見かけ得るが、名物写しや駿州打、本多家所持銘の優品が現れることは稀で、現れれば刮目すべき一口となる。

刀剣商

永楽堂

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