大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
This is a Beautifully mounted long wakizashi which is signed Awataguchi Omi No Kami Tadatsuna with a dating inscribed on the tang of Kanbun Juichi Nen Ni Gatsu Hi - the eleventh year of the kanbun era second month ( Feb 1671) NBTHK Tokubetsu Hozon certificate It also has a NBTHK Tokubetsu Koshu Certificate. illustrated in Token Bijutsu magazine. and is the earliest dated piece for this smith. This sword not only has an attractive koshirae but has a Honoki wood Shirasaya with a Tanobe Michihiro sayagaki. The temper is a large impressive Choji on both sides of the blade. It has a bonji ( engraving) of kanji and ken horimono. The habaki is a very well made gold kin kise niju one. The koshirae is a fine bengara colored lacquer with 8 string two toned jabara maki handle wrap. The tsuba is an unusual Yagyu with the spokes cross hatched with gold. The fuchi kashira and menuki are shakudo and gold shishi motif. Below from Mark Seskos: Swordsmiths of Japan A - Z book. TADATSUNA (忠綱), 2nd gen., Genroku (元禄, 1688-1704), Settsu – “Awataguchi Ōmi no Kami Tadatsuna-chakushi Settsu-jū Fujiwara Tadakuni jūkyūsai kore o saku” (粟田口近江守忠綱嫡子摂津住藤原忠国十九歳作之, “made by Fujiwara Tadakuni from Settsu at the age of 19, legitimate son of Awataguchi Ōmi no Kami Tadatsuna”), “Ikkanshi Tadatsuna” (一竿子忠綱), “Awataguchi Ōmi no Kami Tadatsuna” (粟田口近江守忠綱), “Awataguchi Ikkanshi Tadatsuna” (粟田口一竿子忠綱), “Gōshōken Tadatsuna” (合勝軒忠綱), real name Asai Mantayū (浅井万太夫), gō Ikkanshi (一竿子) and Gōshōken (合勝軒), he received the honorary title Ōmi no Kami during the Enpō era (延宝, 1673-1681), he was an excellent horimono engraver and inscribed also hori-dōsaku (彫同作) to this tangs, we know date – 1067 – signatures from the twelfth year of Kanbun (寛文, 1672) to the twelfth year of Kyōhō (享保, 1727), it is said that all blades dated from the Kyōhō era onwards are daisaku works of his successor Munetsuna (宗綱), there are mainly katana and wakizashi and hardly any tantō extant, the blades have more hira-niku than those of the 1st gen., only little tapering, a relative deep sori and an elongated chū-kissaki, the jigane is beautifully forged but the ko-itame is not that visible and tends sometimes even to a nashiji-hada, in his early years he hardened a hamon with long chōji-ashi like the 1st gen. but later the yakigashira of the chōji become successively more irregular and in later years he also hardened an ō-notare-midare with tama that reminds of Sukehiro (助広), there are many nie and the nioiguchi is wide, the clearest jigane of Ikkanshi Tadatsuna appears with a suguha, the bōshi is sugu with a ko-maru-kaeri, as mentioned, we know many excellent horimono, like for example ken-maki-ryū on the omote side and bonji over a sankozuka-ken or ken with tsume which are in perfect harmony with the other elements of the blade, we also know hai-ryū (這龍, creeping dragon), koi no taki nobori (鯉の滝登り, carp which swims/jumps up a waterfall), or bōhi with soebi and maru-dome above the horimono, regarding the signature, he signed in early years mostly with “Awataguchi Ōmi no Kami Tadatsuna” and later more and more with the supplement “Ikkanshi,” during his early years he signed the right radical (岡) of the character for “tsuna” (綱) in the variant (岊), after Inoue Shinkai (井上真改) and Tsuda Sukehiro he is regarded as the most representative Ōsaka-shintō smith, ryōwazamono – A tradition says that Sano Masanobu (佐野政言, 1757-1784) wore an ō-wakizashi of Ikkanshi Tadatsuna in Edo Castle when he killed Tanuma Okitomo (田沼意知, 1749-1784), the son of the rōju elder (老中) Tanuma Okitsugu (田沼意次, 1719-1788). Because of his reforms for the financially stressed bakufu and corruption, Okitsugu was not that popular among many daimyō at that time, so the assassination of his son was welcomed by some of them and blades by Ikkanshi Tadatsuna became even more popular after this incident. rank of jōjō-saku




















(翻訳なし)
Awataguchi (Ikkanshi) Tadatsuna, Osaka Shinto (Settsu) · 摂津 · 1673-1717頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位8%
現在4点販売中
一竿子忠綱は二代粟田口近江守忠綱、初代近江守忠綱の子で、元禄期を代表する大坂の刀工の一人である。説明書は、通称を万太夫といい、父を継いで二代目の近江守を受領し、粟田口国綱の後裔と称して銘に粟田口を冠し、元禄二年頃より一竿子と号し始めたと記す。当時の大坂を代表する工の一人で、その作はまさに「地刃の華麗と彫刻の装飾美を以て名高い」[[c:1]]。初期の作風は父に近く、その記録の中心は、自らの彫の場を兼ねた身幅広い在銘年紀の刀にある。
本工の特色はまず刃文に読まれる。よくつんだ小板目に、元を直ぐの焼出しに起こし、相関わる二様を焼く。古く受け継いだものは、焼頭のよく揃った足の長い丁子で、初代の得意とした作域そのものであり、長い丁子の足が入り、その足を砂流し・金筋が切って入る。説明書は本工を「父に優る名手で」と評し、その違いを的確に指す。初代の丁子が揃って堂々たるのに対し、二代は匂深く、匂口明るく、小沸のよくつくところで、これを出藍すなわち藍より出でて藍より青しと呼ぶ。
円熟の最も個性的な手は濤瀾乱れ、すなわち収集家のいう簾刃である。説明書はこれを津田助広の系に結びつけ、ある脇指において「得意の津田風の濤欄刃をやき」[[c:3]]と記す。よくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき地景細かに入る地に、浅いのたれを基調として互の目・丁子風を交え、これが大きく波打って濤瀾となり、なお長い丁子の足が入り、匂深く小沸厚くつき、砂流し・金筋頻りにかかり、匂口明るく冴える。帽子は浅くのたれ込んで小丸、掃きかける。穏やかな直刃も数口に残り、三つの面のうち最も静かで稀なもので、同じ明るい小板目の地に焼かれる。
その地鉄は三様すべての底に変わらず通う。鍛えはよくつみ細かによくつんだ小板目で、地沸が厚く、最上手には微塵につき、細かな地景が地を走り、地鉄は明るく冴える。素朴な地ではなく、よく出来た大坂の地であり、刃も彫もこの地の上に置かれる。剣書は本工の作域を、初代に倣う揃った丁子、濤瀾、そして稀な直刃とし、いずれも大坂の長い直ぐの焼出しより起こすとする。
地刃のいずれの特徴にもまして本工を分かつのは彫である。説明書はその刀身彫刻を一竿子彫として賞玩し、「出藍の誉高く」、また「殊に刀身彫刻は巧みで一竿子彫として賞玩されている」[[c:5]]と記す。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、梅倶利迦羅、玉追龍、そして鯉の滝上りを彫った。鯉の滝上りは本工が初めて試みたものと思われ、説明書は「同作中でも本刀以外には未見である」[[c:6]]とする。彼は大坂の彫物師藤田通意と関係が深く、「彫同作」と添銘して彫を自身の手と示した。これは初代には全く見られないところで、新刀彫刻に一種の型をつくったものである。
収集の観点では、一竿子忠綱は大坂新刀の主要な名跡で、その作はなお求め得るが、最上のものは商われるより蔵される。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要刀剣に数多く、特別重要刀剣に数口が及び、長銘の大太刀は重要文化財に達する。説明書はある特別重要刀剣の刀を、最も油ののった時代の代表作で地刃の出来に優れるとし、その一竿子彫を一段と見事とする。特別重要刀剣・重要刀剣の級にはおよそ五十二口が立ち、京都国立博物館に蔵される一口があり、浅井家に伝来した記録のある一口がある。在銘年紀で数も相応に残るため、忠綱は同格の大坂の名手のうちでは比較的世に出やすいが、自らの一竿子彫を帯びた年紀の刀は出れば見ものであり、鯉と倶利迦羅を本工自身が彫った最上のものは、大坂彫刻の極盛を語る証である。
忠綱の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 摂津
現在61点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。 詳しく見る →
大坂 町人の都の刀
大坂は町人の都であり、刀も金の流れに従った。脇差一腰しか許されぬ町人のための贅沢な作、助広の濤瀾乱れ、大坂正宗と呼ばれた真改。率直に言えば、見られるために作られた刀である。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト