説明

日本刀 刀 無銘(島田) 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は島田派と極められた一振りです。島田派は室町時代中期の義助を始祖とし、江戸時代後期まで連綿と続いた流派です。日本美術刀剣保存協会の鑑定によれば、本作は安土桃山時代から江戸時代中期にわたる「新刀期」に制作されたものとされています。 島田鍛冶は駿河国島田(現在の静岡県島田市)を拠点に活動しました。義助のほか、助宗、広次、貞広などの名工を輩出しています。 初代義助は康正年間(1455-57年)頃に活躍し、一説には日本刀史上極めて著名な備前一文字助宗の末裔とも伝えられています。初代義助は駿河の有力大名である今川氏に仕え、その銘にある「義」の字は今川義忠より下賜されたものと言い伝えられています。 島田派は相模国小田原の相州鍛冶とも交流がありました。戦国時代の駿河国は、武田氏、徳川氏、北条氏といった有力大名が覇を競った要衝であり、島田鍛冶はこれら諸家から多くの注文を受けました。初代義助が確立した優れた技術は、代々の島田鍛冶へと受け継がれていきました。 【相州伝について】 島田派の助宗らは、相州伝の伝法を深く習得したことで知られています。相州伝は鎌倉時代中期に誕生しました。当時、大和伝や山城伝は既に高い完成度を誇っていましたが、関東(相模国)における作刀技術は未だ発展途上にありました。 1185年に幕府を開いた源頼朝は、政治的安定を優先したため、当初は自領内で鍛冶を育成する余裕がなく、武器の調達は大和や山城の鍛冶に依存していました。 しかし、幕府の確立とともに武士からの需要が急増したため、五代執権・北条時頼は諸国から名工を招致しました。山城国の粟田口国綱、備前国の備前三郎国宗らがこれに応じ、さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招きました。 これら名工たちが相州伝の基礎を築き、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光によってその技術は確立されました。国光の弟子である行光、そして日本刀史上最も著名な名工の一人である正宗へと技術は継承されます。正宗は相州伝を全国的なものへと押し上げ、その作風は後世の鍛冶の模範となりました。相州伝の影響は古刀期から新刀期に至るまで広く及び、大坂の井上真改や江戸の水心子正秀といった名工たちにも多大な影響を与えています。 本作は日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」に認定されています。この鑑定書は、美術的価値が高く、保存状態の良い正真の日本刀にのみ与えられるものです。 ※刀身には数箇所の鍛え傷および微細な割れがございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):68.0 cm 反り(Sori):1.4 cm 元幅(Motohaba):3.05 cm 先幅(Sakihaba):2.1 cm 元重(Motokasane):0.7 cm 先重(Sakikasane):0.5 cm 銘(Mei):無銘(Mumei) 時代(Era):新刀期(Shinto period) 産地(Province):駿河国(Suruga province) 【拵】 拵全長:99.0 cm 柄長:24.0 cm 鍔(Tsuba):丸形 鉄地 縁頭(Fuchi Kashira):波の図 赤銅地 目貫(Menuki):龍の図 四分一地(推定)

Antique Japanese Sword Katana Attributed to Shimada NBTHK Hozon Certificate for the blade and Tokubetsu Kicho for the Koshirae
Tokubetsu Kichō歴史的認定(1982年以前)

Antique Japanese Sword Katana Attributed to Shimada NBTHK Hozon Certificate for the blade and Tokubetsu Kicho for the Koshirae

$8,061

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刀工

Shimada

流派

Shimada

時代

Shinto

仕様

長さ

68 cm

反り

1.2 cm

流派について

Shimada School島田派

駿河国島田の地に興ったこの一派は、室町期を通じて東海道の一隅に栄えた相州系の鍛冶群である。その主たる名は義助と助宗の二大名跡にあり、説明は義助を島田物の主流をなすものとし、助宗をその弟として室町中期に置く。銘鑑は両家の代を丁寧に並べ、義助の初代を康正の頃とし、助宗を古く文安・文亀より天文に至る連なりに据え、以後同名相継ぎて江戸期に及ぶと記す。されどこの整然たる図式は答えではなく難所であり、現存最古の有年紀作は永正二年の短刀にして、永正より古い年紀の作は遺らず、銘振りもまた各代を分かたぬゆえ、在銘の作は代を付すより一口ごとの出来によって見られる。NBTHKがその年代を量るのは、銘鑑の編年よりは茎に切る年紀によってであり、この一国の鍛冶場は、隣国相模の鍛えに強く影響され、美濃の関や千手派とも縁を結んで、その間に座した。 本派の作風はまず末相州風の沸の乱れにある。肌立ちごころに地沸つき地景の入る、流れて柾に寄る板目の地に、互の目を交えたのたれを焼き、小丁子・尖り刃を交え、沸厚く飛焼・金筋・砂流しをかける。説明は島田の作風が末相州鍛冶と深い関連があって互いに影響しあうと記す。助宗の手には一門自身のものと呼ぶ連れた互の目があり、腰の辺で箱がかったのたれとなり、匂口明るく金筋・砂流しのよく現われたものを、その特色のよく現われた作と読む。帽子は乱れに従い、小乱れあるいは尖りごころの乱れ込みより小丸に返り、ときに焼詰め、ときに掃きかけかかる。この典型に対し別貌が立ち、義助には少ない細直刃や、助宗が志津の風をねらった直刃のごとく、流れる板目に小互の目を交えた静かなる手をも焼く。地鉄は締まった備前地ではなく、流れてやや肌立ち、ときに白け立つこの板目こそが目に島田の手を告げ、刃中の沸の働きを載せる地となる。造込みは多彩にして、鎬造の刀より平造の脇指、内反りの短刀、大身槍に及び、説明は島田一門には比較的に槍が多いと記す。彫物は一門の特色を巧みに伝え、幅広の樋中に梵字と摩利支天を浮彫にし、表裏に倶利迦羅を、短刀に素剣・護摩箸を掻き、ときに珍しく透し彫をなす。 鑑定の勘所は、対比によるよりその自らの確かな見どころから引くにある。すなわち末相州の影響を受けた沸の互の目交じり湾れに砂流し・金筋を交え、流れてやや肌立つ板目に焼く駿州の手であり、直刃はその意図された例外、目立つ彫物と槍は周囲の島田工房の印である。代の判定が成らぬところで、説明はやはり作そのものに向かう。助宗においては大阪の一刀を地刃健全にして助宗の最高作と思われるものとし、永正二年の系譜に連なる十二回の刀を、現存作中最も地刃の冴えて明るく出来優れた一口とする。義助においては二十回の生ぶ茎・平造内反りの短刀を同名中の出色の一口と称え、大永の刀に見る年紀を初期諸代の編年がこれに拠るがゆえ極めて貴重とする。主要工たる義助・助宗が一派の中核をなし、広助らこれに次いで群を支える。茎は生ぶに切り、二字あるいは三字に銘し、年紀は遺るところでは銘に成し得ぬことを成して、長き連なりの中に一手を据える縁となる。物打辺の棟に打たれた切込みは、これらが室町の一国の実用刀であったことを思わせる。伝来としては、義助・助宗ともに皇室の所持にかかる一口を遺し、さような所持から島田の作が市に還ることは稀である。一名のもとに分かたれぬ数代の中で、最上の刀・短刀に説明書が称えるあの冴えと健全をそなえた確かな一口こそ待つに値し、現われればそれは末相州の伝に近き、堅実な一地方の名門の佳き代表となる。

刀剣商

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