肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
日本刀 銘 正広(備後) NBTHK保存刀剣鑑定書付 【説明】 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)の鑑定により、幕末の安政年間(1854年〜1860年)に備後国(現在の広島県東部)で打たれた正広の作と認められた一振りです。 正広は江戸時代末期に活動した地方刀工です。安政年間は明治維新へと向かう激動の時代であり、武士階級の間で実戦的な刀剣への需要が急速に高まった時期でした。正広は、この時代の要請に応え、実戦に適した剛健な刀を精鍛したものと考えられます。 古来、備後国には大和(現在の奈良県)の有力寺院の荘園が多く存在しました。それらの土地を守るために僧兵や武士団が組織され、彼らの需要に応じるべく大和伝の刀工たちが備後へ移住し、作刀に励んだという歴史的背景があります。 幕末期について 幕末(1853年〜1868年)は、江戸時代の終焉を指す時代区分です。ペリー提督率いる黒船来航により、日本は開国を迫られ、歴史の大きな転換期を迎えました。西洋技術の流入とともに、日本の進むべき道を巡って国中が揺れ動いた時代です。 当時、幕府を支持する保守派と、近代化と王政復古を目指す革新派の間で対立が深まり、やがて戊辰戦争へと発展、武家政治は終焉を迎えました。このような社会不安の中でも、武士にとって刀は単なる武器ではなく、名誉と規律、そして武士道の精神を象徴する極めて重要な存在であり続けました。 本刀は、日本美術刀剣保存協会より「保存刀剣」に認定されています。これは、美術的価値が高く、保存状態が良好な真作の日本刀であることを証明するものです。 ※棟(むね)にわずかな鍛え傷がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):68.5 cm 反り(Sori):1.0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造の模様です。 地文(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様です。 切先(Kissaki):刀身の先端部分です。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分です。 日本の刀工は、柄の中での赤錆を防ぐために、あえて「黒錆」を茎に残します。この経年による錆色は、専門家が製作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などで構成される刀の外装です。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられる一対の金具です。 この縁頭には「猪と稲穂」が意匠されています。十二支の「亥」である猪は、厄除けや無病息災の象徴とされる縁起の良い動物です。一方で、農村部では稲作を荒らす存在としても知られていました。 日本において「稲」は古来より主食として生活の根幹を支えてきただけでなく、文化的・象徴的にも極めて重要な意味を持っています。
























新刀 · 肥前 · 1848-1854頃
刀剣大鑑 上位91%
現在1点販売中
新刀 · 肥前
現在136点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 銘 正広(備後) NBTHK保存刀剣鑑定書付 【説明】 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)の鑑定により、幕末の安政年間(1854年〜1860年)に備後国(現在の広島県東部)で打たれた正広の作と認められた一振りです。 正広は江戸時代末期に活動した地方刀工です。安政年間は明治維新へと向かう激動の時代であり、武士階級の間で実戦的な刀剣への需要が急速に高まった時期でした。正広は、この時代の要請に応え、実戦に適した剛健な刀を精鍛したものと考えられます。 古来、備後国には大和(現在の奈良県)の有力寺院の荘園が多く存在しました。それらの土地を守るために僧兵や武士団が組織され、彼らの需要に応じるべく大和伝の刀工たちが備後へ移住し、作刀に励んだという歴史的背景があります。 幕末期について 幕末(1853年〜1868年)は、江戸時代の終焉を指す時代区分です。ペリー提督率いる黒船来航により、日本は開国を迫られ、歴史の大きな転換期を迎えました。西洋技術の流入とともに、日本の進むべき道を巡って国中が揺れ動いた時代です。 当時、幕府を支持する保守派と、近代化と王政復古を目指す革新派の間で対立が深まり、やがて戊辰戦争へと発展、武家政治は終焉を迎えました。このような社会不安の中でも、武士にとって刀は単なる武器ではなく、名誉と規律、そして武士道の精神を象徴する極めて重要な存在であり続けました。 本刀は、日本美術刀剣保存協会より「保存刀剣」に認定されています。これは、美術的価値が高く、保存状態が良好な真作の日本刀であることを証明するものです。 ※棟(むね)にわずかな鍛え傷がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):68.5 cm 反り(Sori):1.0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造の模様です。 地文(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様です。 切先(Kissaki):刀身の先端部分です。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分です。 日本の刀工は、柄の中での赤錆を防ぐために、あえて「黒錆」を茎に残します。この経年による錆色は、専門家が製作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などで構成される刀の外装です。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられる一対の金具です。 この縁頭には「猪と稲穂」が意匠されています。十二支の「亥」である猪は、厄除けや無病息災の象徴とされる縁起の良い動物です。一方で、農村部では稲作を荒らす存在としても知られていました。 日本において「稲」は古来より主食として生活の根幹を支えてきただけでなく、文化的・象徴的にも極めて重要な意味を持っています。
























新刀 · 肥前 · 1848-1854頃
刀剣大鑑 上位91%
現在1点販売中
新刀 · 肥前
現在136点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.