1876年の廃刀令は帯刀を終わらせ、工芸そのものを死の淵に追った。軍の需要と皇室の庇護が命脈を保ち、1906年には月山貞一と宮本包則が帝室技芸員に任じられている。
Stock No:KA-040226Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)・Period(Jidai):Mutsu(Fukushima)・Meiji era 1869Blade length(Cutting edge): 71.0cmCurve(SORI): 1.4cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.10cmThickness at the Moto-Kasane: 0.80cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.40cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmHabaki: Two parts, Gold foil HabakiSword tang(Nakago): Kesho-Sujikai file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada):KoitameTemper patterns(Hamon):Choji, KogunomeTemper patterns in the point(Bohshi):Registration Card: Tokyo【Additional Information】慶心斎直正は、江戸時代後期に活躍した陸奥国の刀工で、現在の福島県、「相馬野馬追」で知られる相馬の出身です。水心子正秀の高弟である大慶直胤の門人にあたり、その系譜を受け継ぐ優れた技量を備え、同国相馬中村藩工として作刀に従事しました。明治十二年(1879)没。ほかに「中村臣慶心斎直正作之」、「宮崎越前守直正作之」、「慶心斎直正造之」、「越前守直正」、「日本五鍛冶越前守直正」などと銘を切ります。本刀体配は刃長が二尺三寸四分、身幅尋常、元先で幅差付き、反りやや浅めで、中切っ先となります。鍛は綺麗に整った小板目肌に地沸よく付き、澄んだ肌合いを示します。刃文は丁子を主調に小互の目、尖り刃交じり、処々高低が付き、刃中には足よく入り、砂流し、金線などが掛かって盛んに働きます。帽子はそのまま乱れて返ります。茎は化粧鑢が掛かり、刀工銘と年紀を刻します。相馬中村藩工 慶心斎直正の一口。精緻な地鉄に、匂口明るく冴えた焼刃が勢いに溢れ、大変見応えのある出来栄えです。白鞘、金着二重はばき、特別保存刀剣鑑定書。
Certificate reading — 銘 越前守直正造之(慶心斎) 明治二年二月日


















新々刀 · 陸奥 · 1864-1865頃
刀剣大鑑 上位95%
現在4点販売中
新々刀 · 武蔵
現在78点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
1876年の廃刀令は帯刀を終わらせ、工芸そのものを死の淵に追った。軍の需要と皇室の庇護が命脈を保ち、1906年には月山貞一と宮本包則が帝室技芸員に任じられている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
Stock No:KA-040226Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)・Period(Jidai):Mutsu(Fukushima)・Meiji era 1869Blade length(Cutting edge): 71.0cmCurve(SORI): 1.4cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.10cmThickness at the Moto-Kasane: 0.80cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.40cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmHabaki: Two parts, Gold foil HabakiSword tang(Nakago): Kesho-Sujikai file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada):KoitameTemper patterns(Hamon):Choji, KogunomeTemper patterns in the point(Bohshi):Registration Card: Tokyo【Additional Information】慶心斎直正は、江戸時代後期に活躍した陸奥国の刀工で、現在の福島県、「相馬野馬追」で知られる相馬の出身です。水心子正秀の高弟である大慶直胤の門人にあたり、その系譜を受け継ぐ優れた技量を備え、同国相馬中村藩工として作刀に従事しました。明治十二年(1879)没。ほかに「中村臣慶心斎直正作之」、「宮崎越前守直正作之」、「慶心斎直正造之」、「越前守直正」、「日本五鍛冶越前守直正」などと銘を切ります。本刀体配は刃長が二尺三寸四分、身幅尋常、元先で幅差付き、反りやや浅めで、中切っ先となります。鍛は綺麗に整った小板目肌に地沸よく付き、澄んだ肌合いを示します。刃文は丁子を主調に小互の目、尖り刃交じり、処々高低が付き、刃中には足よく入り、砂流し、金線などが掛かって盛んに働きます。帽子はそのまま乱れて返ります。茎は化粧鑢が掛かり、刀工銘と年紀を刻します。相馬中村藩工 慶心斎直正の一口。精緻な地鉄に、匂口明るく冴えた焼刃が勢いに溢れ、大変見応えのある出来栄えです。白鞘、金着二重はばき、特別保存刀剣鑑定書。
Certificate reading — 銘 越前守直正造之(慶心斎) 明治二年二月日


















新々刀 · 陸奥 · 1864-1865頃
刀剣大鑑 上位95%
現在4点販売中
新々刀 · 武蔵
現在78点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
1876年の廃刀令は帯刀を終わらせ、工芸そのものを死の淵に追った。軍の需要と皇室の庇護が命脈を保ち、1906年には月山貞一と宮本包則が帝室技芸員に任じられている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).