葵美術刀剣目録番号:25067 刀:白鞘入り(第45回重要刀剣指定品) 銘文: 長曽祢興里入道虎徹 (金象嵌裁断銘) 寛文五年極月十日 両車雁両度切落 山野勘十郎久英(花押) 当社では刀工の出来映えを最上作、上々作、上作、普通作に分類しております。 本作は虎徹の作品の中でも「最上作」にランクされる名品です。 ハバキ:金着二重(無垢の可能性あり) 長さ:74.9 cm (2.47尺) 反り:1.1 cm (0.36寸) 目釘穴:1個 元幅:3.19 cm 先幅:2.14 cm 重ね:0.64 cm 刀身重量:790 g 時代:江戸時代初期、寛文五年頃(1665年) 体配:長寸で身幅尋常、反り浅く先にかけて細身となり、小切先となる。典型的な寛文新刀の姿。 地鉄:小板目肌よく詰み、地沸がつき、細かな地景が入る。 刃文:小沸出来、匂口明るく冴えた直刃調に小互の目、小足が混じる。 特徴:長曽祢興里(虎徹)は、もと近江または越前で甲冑師として活躍していましたが、明暦二年(1656年)頃、五十歳を過ぎてから江戸へ出て刀工に転じたと伝えられています。 その斬れ味の凄まじさは当時から知れ渡り、寛政九年(1797年)に刊行された『懐宝剣尺』では「最上大業物」の筆頭に列せられています。 当時から絶大な人気を誇り、幕府要職者などの需要も高かったことから、当時すでに多くの偽物が出回るほどでした。 銘振りは当初「虎徹」を用いていましたが、寛文四年(1664年)頃から「乕徹(はねとら)」を用いるようになります。 本作の裁断銘は寛文五年(1665年)であり、作刀時期もその頃と推測されます。 葵美術評価鑑定: 裁断銘にある「両車(もろぐるま)」とは、人体の中で最も硬い部位の一つである骨盤(股関節)付近を指します。本作は、その両車と雁金(胸部付近)を二度までも切り落としたという驚異的な斬れ味を証明する金象嵌が施されています。
長曽祢徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時、江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称三之丞と称したといわれ、興 里と名乗ったが、 入道して「こてつ入道」といい、 その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは 「馬徹」の字を使用している。 年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴え るのが特色で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がった刃を交え、後期には、焼きの出入 りにあまり変化が見られず、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼いている。さらにそれらとは別に、 本作の如き直刃の作域もあり、その技量は高く評価されている。 この刀は、身幅が尋常で、元先に幅差がつき、反り浅く、中鋒のつまった造込みで、寛文新刀の特徴的な姿恰好を呈している。鍛えは板目 に杢と流れ肌を交え、常々よりも肌目が細かに立った肌合いに、地沸が微塵に厚くつき、地景も細かによく入っている。刃文は中直刃調に上 半小互の目ごころが交じり、小足入り、匂口しまりごころに小沸がつき、帽子は直ぐに小丸にやや長く返るなどの出来口をあらわしている。 上記の如く、彼としては比較的珍しい直刃の作例である。同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるものであるが、本 刀も正にその通りの態を見せており、しかも小沸がむらなく均等についている点が特筆される。徹の直刃の優品であり、就中、地刃の冴え には抜群のものがある。 年紀はないが銘振りから推して、おそらく寛文五年の初め頃の作と鑑せられる。






長曽祢徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時、江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称三之丞と称したといわれ、興 里と名乗ったが、 入道して「こてつ入道」といい、 その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは 「馬徹」の字を使用している。 年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴え るのが特色で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がった刃を交え、後期には、焼きの出入 りにあまり変化が見られず、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼いている。さらにそれらとは別に、 本作の如き直刃の作域もあり、その技量は高く評価されている。 この刀は、身幅が尋常で、元先に幅差がつき、反り浅く、中鋒のつまった造込みで、寛文新刀の特徴的な姿恰好を呈している。鍛えは板目 に杢と流れ肌を交え、常々よりも肌目が細かに立った肌合いに、地沸が微塵に厚くつき、地景も細かによく入っている。刃文は中直刃調に上 半小互の目ごころが交じり、小足入り、匂口しまりごころに小沸がつき、帽子は直ぐに小丸にやや長く返るなどの出来口をあらわしている。 上記の如く、彼としては比較的珍しい直刃の作例である。同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるものであるが、本 刀も正にその通りの態を見せており、しかも小沸がむらなく均等についている点が特筆される。徹の直刃の優品であり、就中、地刃の冴え には抜群のものがある。 年紀はないが銘振りから推して、おそらく寛文五年の初め頃の作と鑑せられる。
Kotetsu school (Edo Shinto) · 武蔵 · 1644-1677頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
現在3点販売中
「長曽祢虎徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた」[[c:23]]。説明書がほぼ一口ごとに誦するこの一文が伝記の背骨である。通称は三之丞と伝え、興里と名乗り、入道して虎徹入道と号した。年紀作は明暦二年(一六五六)に始まり、歿する前年の延宝五年(一六七七)に終わる。名声の由来も説明は具体的に記す。「甲冑師としての鉄処理の巧みさがあり、彫刻を得意として、数珠刃という斬新な刃文を創意工夫したことから名声をはせた」[[c:24]]。現代の説明はこれを「新刀随一の人気工」[[c:3]]と呼ぶ。
作風の定位は一文に尽きる。「彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴えるのが特色」[[c:4]]であり、「その作刀の多くに焼出しがあり」[[c:5]]、後期には「数珠刃と呼ばれる独得の互の目乱れ」[[c:25]]、すなわち焼頭の丸い互の目がほぼ一直線に連れる刃文を本領とした。足太く頻りに入り、匂深く、小沸が厚くつき、金筋・砂流しが細かにかかり、匂口は明るく冴える。帽子は直ぐに小丸を常とし、後期にはしばしば「横手を互の目で焼き込む乕徹独特の所作が看て取れる」[[c:26]]。
地鉄は甲冑師の遺産である。明暦二、三年頃の初期作について説明は「地鉄の鍛は同作中でもよく、よくねれて極めて強い」[[c:9]]と記し、中程に大肌が現われ、いわゆるテコ鉄が地に交じる。大成期には小板目肌が最もよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、かねが冴え、処々に地斑が残る。彫物は自身彫で、倶利迦羅を見事な欄間透にあらわした初期作には記内彫の特色が読まれ、「同作彫之」の添銘は後に「彫物同作」となり、選ばれた作には「真鍛作」が加わる。
編年はほぼ銘振りそのものである。初め「古鉄」の字を用い、後に虎徹の文字をあて、寛文四年(一六六四)八月からは乕徹の字を使用し、同月には両様が併存する。前期には「瓢箪刃と称される浅い互の目が二つずつ連れた刃」[[c:10]]を焼き、それは「万治の末年乃至寛文初年頃に多くみられる刃文」[[c:11]]と編年される。後期の数珠刃は「いわゆる寛文新刀の典型的な姿」[[c:12]]の上に載る。「虎徹は寛文十年以後、延宝二、三年頃までがその大成期である」[[c:13]]が、寛文八年頃の作も「多く匂口の締つたものであり、華麗さは乏しくとも堅実なものが多い」[[c:27]]とされ、延宝三・四年頃の最晩年作は「全く円熟の作である」[[c:28]]と評される。直刃は稀で、「同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるのが通例」[[c:29]]とされ、短刀は「極めて少なく恐らく十口に及ばない」[[c:30]]。短刀では地斑が目立ち、相州伝が強く感じられ、その狙いは江辺かと読まれる。
截断銘はいま一つの銘である。指定品の多くに山野加右衛門永久・山野勘十郎久英の金象嵌截断銘が入り、貳ツ胴・三ツ胴の試しが日付まで刻まれる。これは銘ではなく利刃の証明であって、自身の銘と並んで茎に共存する。刀より脇指が多いのは「武士の注文よりも富商の注文が多かったが為であろう」[[c:20]]と読まれる。重要美術品の解説には本間順治の定位が残る。「東の虎徹と西の助広並びに真改とともに第一人者であることは無論である」[[c:21]]。同文は「その市価が古名刀を凌駕する」[[c:22]]現状を不当とも断ずる。門下には養子で二代虎徹を継いだ興正のほか興直・興久があり、興直は師の存命中の代作の手と読まれる。
藤代の格付は最上作。指定を受けた作は一二九口、うち重要文化財五口、特別重要刀剣十口、重要刀剣百二口(特重・重要で計一一二口)、戦前の重要美術品十口を数える。在銘一一五口に対し無銘は僅か一口で、銘の編年がそのまま鑑定の地図となる。伝来は肥前鍋島家・島津家・小田原大久保家・宇和島伊達家・加賀前田家・皇室を貫き、山田朝右衛門家所持の一口があり、戦前に宰相を務めた犬養木堂は延宝五年頃の風神雷神彫の脇指を所持し、寛文元年紀の一口は塚本美術館に蔵される。重要文化財は文化財として市場の外に保たれ、その余の大半は特重・重要の指定の下に永く私蔵される。真の虎徹が市に現れることは稀であり、現れれば市場の頂点に立つ。寛文新刀の姿に数珠刃、強く明るい地鉄とくれば、銘を見る前に虎徹と読まれる。
虎徹の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 武蔵
現在4点販売中
長曽祢虎徹興里は元々越前の甲冑師であり、明暦二年頃、五十歳ばかりの頃に江戸へ出て刀鍛冶へ転じたと伝える。通称を三之丞と称し、興里と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」、さらに寛文四年八月からは「乕徹」「馬徹」の字を使用している。年紀のある作では明暦二年が最初期、延宝五年がその下限とされ、武蔵国江戸の東叡山忍岡辺に住したことが住居地銘にうかがえる。その系では、通説に虎徹の門に学んで後に養子となり二代目を継承したと伝える長曽祢興正があり、経眼される年紀は寛文十三年から元禄三年に及ぶ。興正の技倆は師に次いで巧みで、虎徹晩年の作のうちには興正の代作が含まれていると考えられている。江戸中期、寛文を中心とする新刀の只中に立ち、甲冑師の出という異色の経歴から鍛刀の名門が興った。 作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴えるのを特色とし、作刀の多くに焼出しを伴う。鍛えは小板目肌がよくつんで杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、腰元には梃子鉄と称する大肌や地斑状の肌合を交えることがあり、かねが冴える。刃文は前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がって出入りのある乱れを焼き、後期には焼の出入りに変化の少ない、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼く。これに伴い銘も前期の「はね虎」から寛文四年に「はこ虎」へ改まり、作域の推移と対応する。足が太く頻りに入り、匂深く小沸が厚くつき、金筋・砂流しのかかるものが多い。帽子は直ぐに小丸とし、横手を互の目で跨ぐいわゆる乕徹帽子を見せるのが見分けの要となる。姿は元先の幅差がつき反り浅く中鋒のつまる寛文新刀の体配で、手持ちの重い頑健なものが多く、梵字・三鈷剣・倶利迦羅などの彫物を自身彫として添えた作も知られる。興正は師ゆずりの数珠刃を継ぎつつ、匂深く沸の覇気ある刃を焼き、互の目丁子を交えるなど独自を追った持ち味を示す。 虎徹が収集家に重んじられるのは、地刃の冴えと数珠刃の見どころに加え、記録された截断の評による。寛文五年三月の貳ツ胴切落、同年十一月の両車切落、寛文元年の三ツ胴截断など、山野勘十郎久英・山野加右衛門永久らによる金象嵌截断銘が遺り、その切れ味の高さを今に伝える。截断は必ずしも直ちに象嵌されたものではなく、後日まとめて施された例もこれらの銘から知られる。伝来の確かな作も尊ばれ、肥前国鍋島家に伝わって佐藤寒山博士の鞘書に鍋島虎徹の異名を記すものがある。鑑定の要点は、明るく冴える地刃、前期の瓢箪刃と後期の数珠刃という時期による作域の違い、乕徹帽子の所作、銘振りの推移にあり、年紀を欠く作でも銘と作域から制作期を推し量ることができる。短刀は作例が極めて少なく、相州伝の趣を強く感じさせるものが知られる。甲冑師から転じて一代で名を成し、後継の興正へと技を伝えたこの系は、江戸新刀を代表する一門として確固たる位置を占めている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。
葵美術刀剣目録番号:25067 刀:白鞘入り(第45回重要刀剣指定品) 銘文: 長曽祢興里入道虎徹 (金象嵌裁断銘) 寛文五年極月十日 両車雁両度切落 山野勘十郎久英(花押) 当社では刀工の出来映えを最上作、上々作、上作、普通作に分類しております。 本作は虎徹の作品の中でも「最上作」にランクされる名品です。 ハバキ:金着二重(無垢の可能性あり) 長さ:74.9 cm (2.47尺) 反り:1.1 cm (0.36寸) 目釘穴:1個 元幅:3.19 cm 先幅:2.14 cm 重ね:0.64 cm 刀身重量:790 g 時代:江戸時代初期、寛文五年頃(1665年) 体配:長寸で身幅尋常、反り浅く先にかけて細身となり、小切先となる。典型的な寛文新刀の姿。 地鉄:小板目肌よく詰み、地沸がつき、細かな地景が入る。 刃文:小沸出来、匂口明るく冴えた直刃調に小互の目、小足が混じる。 特徴:長曽祢興里(虎徹)は、もと近江または越前で甲冑師として活躍していましたが、明暦二年(1656年)頃、五十歳を過ぎてから江戸へ出て刀工に転じたと伝えられています。 その斬れ味の凄まじさは当時から知れ渡り、寛政九年(1797年)に刊行された『懐宝剣尺』では「最上大業物」の筆頭に列せられています。 当時から絶大な人気を誇り、幕府要職者などの需要も高かったことから、当時すでに多くの偽物が出回るほどでした。 銘振りは当初「虎徹」を用いていましたが、寛文四年(1664年)頃から「乕徹(はねとら)」を用いるようになります。 本作の裁断銘は寛文五年(1665年)であり、作刀時期もその頃と推測されます。 葵美術評価鑑定: 裁断銘にある「両車(もろぐるま)」とは、人体の中で最も硬い部位の一つである骨盤(股関節)付近を指します。本作は、その両車と雁金(胸部付近)を二度までも切り落としたという驚異的な斬れ味を証明する金象嵌が施されています。
長曽祢徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時、江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称三之丞と称したといわれ、興 里と名乗ったが、 入道して「こてつ入道」といい、 その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは 「馬徹」の字を使用している。 年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴え るのが特色で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がった刃を交え、後期には、焼きの出入 りにあまり変化が見られず、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼いている。さらにそれらとは別に、 本作の如き直刃の作域もあり、その技量は高く評価されている。 この刀は、身幅が尋常で、元先に幅差がつき、反り浅く、中鋒のつまった造込みで、寛文新刀の特徴的な姿恰好を呈している。鍛えは板目 に杢と流れ肌を交え、常々よりも肌目が細かに立った肌合いに、地沸が微塵に厚くつき、地景も細かによく入っている。刃文は中直刃調に上 半小互の目ごころが交じり、小足入り、匂口しまりごころに小沸がつき、帽子は直ぐに小丸にやや長く返るなどの出来口をあらわしている。 上記の如く、彼としては比較的珍しい直刃の作例である。同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるものであるが、本 刀も正にその通りの態を見せており、しかも小沸がむらなく均等についている点が特筆される。徹の直刃の優品であり、就中、地刃の冴え には抜群のものがある。 年紀はないが銘振りから推して、おそらく寛文五年の初め頃の作と鑑せられる。






長曽祢徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時、江戸に出て刀鍛冶に転じた。通称三之丞と称したといわれ、興 里と名乗ったが、 入道して「こてつ入道」といい、 その初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」の文字をあて、さらに寛文四年八月からは 「馬徹」の字を使用している。 年紀作では明暦二年が最初期であり、その最終は延宝五年である。彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴え るのが特色で、その作刀の多くに焼出しがあり、作風も前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がった刃を交え、後期には、焼きの出入 りにあまり変化が見られず、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼いている。さらにそれらとは別に、 本作の如き直刃の作域もあり、その技量は高く評価されている。 この刀は、身幅が尋常で、元先に幅差がつき、反り浅く、中鋒のつまった造込みで、寛文新刀の特徴的な姿恰好を呈している。鍛えは板目 に杢と流れ肌を交え、常々よりも肌目が細かに立った肌合いに、地沸が微塵に厚くつき、地景も細かによく入っている。刃文は中直刃調に上 半小互の目ごころが交じり、小足入り、匂口しまりごころに小沸がつき、帽子は直ぐに小丸にやや長く返るなどの出来口をあらわしている。 上記の如く、彼としては比較的珍しい直刃の作例である。同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるものであるが、本 刀も正にその通りの態を見せており、しかも小沸がむらなく均等についている点が特筆される。徹の直刃の優品であり、就中、地刃の冴え には抜群のものがある。 年紀はないが銘振りから推して、おそらく寛文五年の初め頃の作と鑑せられる。
Kotetsu school (Edo Shinto) · 武蔵 · 1644-1677頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
現在3点販売中
「長曽祢虎徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた」[[c:23]]。説明書がほぼ一口ごとに誦するこの一文が伝記の背骨である。通称は三之丞と伝え、興里と名乗り、入道して虎徹入道と号した。年紀作は明暦二年(一六五六)に始まり、歿する前年の延宝五年(一六七七)に終わる。名声の由来も説明は具体的に記す。「甲冑師としての鉄処理の巧みさがあり、彫刻を得意として、数珠刃という斬新な刃文を創意工夫したことから名声をはせた」[[c:24]]。現代の説明はこれを「新刀随一の人気工」[[c:3]]と呼ぶ。
作風の定位は一文に尽きる。「彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴えるのが特色」[[c:4]]であり、「その作刀の多くに焼出しがあり」[[c:5]]、後期には「数珠刃と呼ばれる独得の互の目乱れ」[[c:25]]、すなわち焼頭の丸い互の目がほぼ一直線に連れる刃文を本領とした。足太く頻りに入り、匂深く、小沸が厚くつき、金筋・砂流しが細かにかかり、匂口は明るく冴える。帽子は直ぐに小丸を常とし、後期にはしばしば「横手を互の目で焼き込む乕徹独特の所作が看て取れる」[[c:26]]。
地鉄は甲冑師の遺産である。明暦二、三年頃の初期作について説明は「地鉄の鍛は同作中でもよく、よくねれて極めて強い」[[c:9]]と記し、中程に大肌が現われ、いわゆるテコ鉄が地に交じる。大成期には小板目肌が最もよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、かねが冴え、処々に地斑が残る。彫物は自身彫で、倶利迦羅を見事な欄間透にあらわした初期作には記内彫の特色が読まれ、「同作彫之」の添銘は後に「彫物同作」となり、選ばれた作には「真鍛作」が加わる。
編年はほぼ銘振りそのものである。初め「古鉄」の字を用い、後に虎徹の文字をあて、寛文四年(一六六四)八月からは乕徹の字を使用し、同月には両様が併存する。前期には「瓢箪刃と称される浅い互の目が二つずつ連れた刃」[[c:10]]を焼き、それは「万治の末年乃至寛文初年頃に多くみられる刃文」[[c:11]]と編年される。後期の数珠刃は「いわゆる寛文新刀の典型的な姿」[[c:12]]の上に載る。「虎徹は寛文十年以後、延宝二、三年頃までがその大成期である」[[c:13]]が、寛文八年頃の作も「多く匂口の締つたものであり、華麗さは乏しくとも堅実なものが多い」[[c:27]]とされ、延宝三・四年頃の最晩年作は「全く円熟の作である」[[c:28]]と評される。直刃は稀で、「同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるのが通例」[[c:29]]とされ、短刀は「極めて少なく恐らく十口に及ばない」[[c:30]]。短刀では地斑が目立ち、相州伝が強く感じられ、その狙いは江辺かと読まれる。
截断銘はいま一つの銘である。指定品の多くに山野加右衛門永久・山野勘十郎久英の金象嵌截断銘が入り、貳ツ胴・三ツ胴の試しが日付まで刻まれる。これは銘ではなく利刃の証明であって、自身の銘と並んで茎に共存する。刀より脇指が多いのは「武士の注文よりも富商の注文が多かったが為であろう」[[c:20]]と読まれる。重要美術品の解説には本間順治の定位が残る。「東の虎徹と西の助広並びに真改とともに第一人者であることは無論である」[[c:21]]。同文は「その市価が古名刀を凌駕する」[[c:22]]現状を不当とも断ずる。門下には養子で二代虎徹を継いだ興正のほか興直・興久があり、興直は師の存命中の代作の手と読まれる。
藤代の格付は最上作。指定を受けた作は一二九口、うち重要文化財五口、特別重要刀剣十口、重要刀剣百二口(特重・重要で計一一二口)、戦前の重要美術品十口を数える。在銘一一五口に対し無銘は僅か一口で、銘の編年がそのまま鑑定の地図となる。伝来は肥前鍋島家・島津家・小田原大久保家・宇和島伊達家・加賀前田家・皇室を貫き、山田朝右衛門家所持の一口があり、戦前に宰相を務めた犬養木堂は延宝五年頃の風神雷神彫の脇指を所持し、寛文元年紀の一口は塚本美術館に蔵される。重要文化財は文化財として市場の外に保たれ、その余の大半は特重・重要の指定の下に永く私蔵される。真の虎徹が市に現れることは稀であり、現れれば市場の頂点に立つ。寛文新刀の姿に数珠刃、強く明るい地鉄とくれば、銘を見る前に虎徹と読まれる。
虎徹の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 武蔵
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長曽祢虎徹興里は元々越前の甲冑師であり、明暦二年頃、五十歳ばかりの頃に江戸へ出て刀鍛冶へ転じたと伝える。通称を三之丞と称し、興里と名乗ったが、入道して「こてつ入道」といい、初めは「古鉄」の字を用い、後に「虎徹」、さらに寛文四年八月からは「乕徹」「馬徹」の字を使用している。年紀のある作では明暦二年が最初期、延宝五年がその下限とされ、武蔵国江戸の東叡山忍岡辺に住したことが住居地銘にうかがえる。その系では、通説に虎徹の門に学んで後に養子となり二代目を継承したと伝える長曽祢興正があり、経眼される年紀は寛文十三年から元禄三年に及ぶ。興正の技倆は師に次いで巧みで、虎徹晩年の作のうちには興正の代作が含まれていると考えられている。江戸中期、寛文を中心とする新刀の只中に立ち、甲冑師の出という異色の経歴から鍛刀の名門が興った。 作風は地鉄が強く、地刃の匂口が明るく冴えるのを特色とし、作刀の多くに焼出しを伴う。鍛えは小板目肌がよくつんで杢を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、腰元には梃子鉄と称する大肌や地斑状の肌合を交えることがあり、かねが冴える。刃文は前期には瓢箪刃と称される大小の互の目が繋がって出入りのある乱れを焼き、後期には焼の出入りに変化の少ない、頭の丸い互の目の連れた、いわゆる数珠刃と呼ばれる独特の互の目乱れを焼く。これに伴い銘も前期の「はね虎」から寛文四年に「はこ虎」へ改まり、作域の推移と対応する。足が太く頻りに入り、匂深く小沸が厚くつき、金筋・砂流しのかかるものが多い。帽子は直ぐに小丸とし、横手を互の目で跨ぐいわゆる乕徹帽子を見せるのが見分けの要となる。姿は元先の幅差がつき反り浅く中鋒のつまる寛文新刀の体配で、手持ちの重い頑健なものが多く、梵字・三鈷剣・倶利迦羅などの彫物を自身彫として添えた作も知られる。興正は師ゆずりの数珠刃を継ぎつつ、匂深く沸の覇気ある刃を焼き、互の目丁子を交えるなど独自を追った持ち味を示す。 虎徹が収集家に重んじられるのは、地刃の冴えと数珠刃の見どころに加え、記録された截断の評による。寛文五年三月の貳ツ胴切落、同年十一月の両車切落、寛文元年の三ツ胴截断など、山野勘十郎久英・山野加右衛門永久らによる金象嵌截断銘が遺り、その切れ味の高さを今に伝える。截断は必ずしも直ちに象嵌されたものではなく、後日まとめて施された例もこれらの銘から知られる。伝来の確かな作も尊ばれ、肥前国鍋島家に伝わって佐藤寒山博士の鞘書に鍋島虎徹の異名を記すものがある。鑑定の要点は、明るく冴える地刃、前期の瓢箪刃と後期の数珠刃という時期による作域の違い、乕徹帽子の所作、銘振りの推移にあり、年紀を欠く作でも銘と作域から制作期を推し量ることができる。短刀は作例が極めて少なく、相州伝の趣を強く感じさせるものが知られる。甲冑師から転じて一代で名を成し、後継の興正へと技を伝えたこの系は、江戸新刀を代表する一門として確固たる位置を占めている。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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