「長曽祢虎徹は元、越前の甲冑師であり、明暦二年頃、彼が五十歳位の時江戸に出て刀鍛冶に転じた」。説明書がほぼ一口ごとに誦するこの一文が伝記の背骨である。通称は三之丞と伝え、興里と名乗り、入道して虎徹入道と号した。年紀作は明暦二年(一六五六)に始まり、歿する前年の延宝五年(一六七七)に終わる。名声の由来も説明は具体的に記す。「甲冑師としての鉄処理の巧みさがあり、彫刻を得意として、数珠刃という斬新な刃文を創意工夫したことから名声をはせた」。現代の説明はこれを「新刀随一の人気工」と呼ぶ。
作風の定位は一文に尽きる。「彼の作風は地鉄が強く、地刃が明るく冴えるのが特色」であり、「その作刀の多くに焼出しがあり」、後期には「数珠刃と呼ばれる独得の互の目乱れ」、すなわち焼頭の丸い互の目がほぼ一直線に連れる刃文を本領とした。足太く頻りに入り、匂深く、小沸が厚くつき、金筋・砂流しが細かにかかり、匂口は明るく冴える。帽子は直ぐに小丸を常とし、後期にはしばしば「横手を互の目で焼き込む乕徹独特の所作が看て取れる」。
地鉄は甲冑師の遺産である。明暦二、三年頃の初期作について説明は「地鉄の鍛は同作中でもよく、よくねれて極めて強い」と記し、中程に大肌が現われ、いわゆるテコ鉄が地に交じる。大成期には小板目肌が最もよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、かねが冴え、処々に地斑が残る。彫物は自身彫で、倶利迦羅を見事な欄間透にあらわした初期作には記内彫の特色が読まれ、「同作彫之」の添銘は後に「彫物同作」となり、選ばれた作には「真鍛作」が加わる。
編年はほぼ銘振りそのものである。初め「古鉄」の字を用い、後に虎徹の文字をあて、寛文四年(一六六四)八月からは乕徹の字を使用し、同月には両様が併存する。前期には「瓢箪刃と称される浅い互の目が二つずつ連れた刃」を焼き、それは「万治の末年乃至寛文初年頃に多くみられる刃文」と編年される。後期の数珠刃は「いわゆる寛文新刀の典型的な姿」の上に載る。「虎徹は寛文十年以後、延宝二、三年頃までがその大成期である」が、寛文八年頃の作も「多く匂口の締つたものであり、華麗さは乏しくとも堅実なものが多い」とされ、延宝三・四年頃の最晩年作は「全く円熟の作である」と評される。直刃は稀で、「同工がこの種の作柄を手懸けた場合、匂口がしまりごころとなるのが通例」とされ、短刀は「極めて少なく恐らく十口に及ばない」。短刀では地斑が目立ち、相州伝が強く感じられ、その狙いは江辺かと読まれる。
截断銘はいま一つの銘である。指定品の多くに山野加右衛門永久・山野勘十郎久英の金象嵌截断銘が入り、貳ツ胴・三ツ胴の試しが日付まで刻まれる。これは銘ではなく利刃の証明であって、自身の銘と並んで茎に共存する。刀より脇指が多いのは「武士の注文よりも富商の注文が多かったが為であろう」と読まれる。重要美術品の解説には本間順治の定位が残る。「東の虎徹と西の助広並びに真改とともに第一人者であることは無論である」。同文は「その市価が古名刀を凌駕する」現状を不当とも断ずる。門下には養子で二代虎徹を継いだ興正のほか興直・興久があり、興直は師の存命中の代作の手と読まれる。
藤代の格付は最上作。指定を受けた作は一二九口、うち重要文化財五口、特別重要刀剣十口、重要刀剣百二口(特重・重要で計一一二口)、戦前の重要美術品十口を数える。在銘一一五口に対し無銘は僅か一口で、銘の編年がそのまま鑑定の地図となる。伝来は肥前鍋島家・島津家・小田原大久保家・宇和島伊達家・加賀前田家・皇室を貫き、山田朝右衛門家所持の一口があり、戦前に宰相を務めた犬養木堂は延宝五年頃の風神雷神彫の脇指を所持し、寛文元年紀の一口は塚本美術館に蔵される。重要文化財は文化財として市場の外に保たれ、その余の大半は特重・重要の指定の下に永く私蔵される。真の虎徹が市に現れることは稀であり、現れれば市場の頂点に立つ。寛文新刀の姿に数珠刃、強く明るい地鉄とくれば、銘を見る前に虎徹と読まれる。