二代河内守国助、俗に「中河内」と呼ばれるこの工は、大坂新刀初期を代表する丁子の名手であり、一門にその最も見分けやすい刃を与えた人である。初代河内守国助の子で、初代は堀川国広の末弟子に数えられ、慶長十九年師の没後、国貞と共に大坂へ移住した。然るに国助家は元来勢州石堂の出であり、その血脈が二代を決定づけた。父の堀川風を離れて純然たる石堂風の丁子を焼いた。説明書はこれを端的に、「全く石堂風の丁子を焼いて堀川系の作風は見られない」と記す。説明書は大坂竜海寺過去帖に初代が正保四年五月に歿したとあることから、二代の作刀を「正保四年八月吉日」紀の刀に始まるとし、万治四年紀・寛文三年紀の作がこれに続く。
その手は華やかな丁子乱れに、彼独得の握り拳形の丁子を交えるもので、「世に「拳形丁子」と称せられる彼独特の握り拳形の丁子」と説明される。これがこの工最大の見どころであり、何よりもまず彼を識別させる特色である。刃は匂勝ちに小沸がつき、足長くよく入って葉を交え、匂口は明るく冴える。作の約束は元にある。如何に乱れた出来であっても、元に直ぐの長い焼出しがあり、これを彼は概ね約束として守る。帽子はこれに応じて直ぐに小丸に返り、先しばしば掃きかける。
地鉄は彼の標識の後半であり、極めが最も賞でた半ばである。小板目肌のよくつんだ細かな鍛えに地沸つき、処々細かな地景が入って、大坂らしい精美にして明るい地となる。或る一刀の説明はこれを「大坂新刀らしい精美且つ明るいかね」と評する。典型作についてはただ「地がねはよく整って美しい点が見どころ」と記し、よく整った地鉄の美しさそのものを見どころとする。これこそ綺麗に詰った大坂の地であり、説明書は父の地を時に堀川風のザングリ肌と記すが、子についてはこの語を一度も用いない。
この一個の明確な作風の中に、説明書は変化を記している。典型作は代表作と読まれ、焼幅を広く取って拳形丁子を基に華やかに乱れる中に本領が遺憾なく発揮される。数少ない作はこれを離れ、拳形丁子があまり見られず、刃が沸づいて金筋・砂流しが目立ち、砂流しが長い足の途中にかかって「恰も丁子足を砂流しが切っているかのような態」を見せる。或る一刀ではこれに「同国の一竿子忠綱を想わせるもの」があるとし、同工としては比較的珍しいが破綻なく整然と焼かれた華やかな出来と評する。また別の作では常の品より沸が強く、刃文に変化があり、中河内としては珍しいと記される。一門に通じる態として、腰の上に富士をおもわせる刃がまま見られ、彼及び後代の作に時折現れると注される。「河内守藤原国助」銘のものは初代歿直後の初期作とされ、説明書は「作風の殆どが、初代作に見える」と記す。また表裏で拳形丁子と直刃を焼き分けた「児手柏」の刃文を意識した一刀もあり、他国では越前・肥前に作例を見るという。
その作を分かつものは、他派に何が無いかではなく、彼自身の特色から読み取られる。明るく詰った大坂の小板目、直ぐの長い焼出し、その上に彼独りの握り拳形の頭を戴く華やかな丁子であり、近年の指定説明はこれを端的に「本工の創始となる拳形丁子」と名指す。忠綱を想わせる態は借り物ではなく、沸づいた珍しき作にのみ引かれる比較で、常に彼自身の整然たる作域へ立ち返る。一門に置けば、彼は数代続いた国助の名の頂点として著名であり、大坂新刀初期の丁子の中心的存在で、石堂の丁子が大坂において確たる形を得たのはこの工を通じてである。横手下より焼きを低くして帽子を直ぐに焼く態は、大坂物によく見受けられると説明書が添える通り、その手はこの地方の文法の只中にある。
重要刀剣に二十五口が列する。多くは反り浅く中鋒の詰まった寛文新刀体配の刀であるが、身幅広く鋒の延びた脇指は説明書に「二代国助の鎬造脇指として最高峰の傑作」と称され、反り深く太刀銘にきる一刀は元来太刀として製作されたものとみられる。国光との合作一口は説明書に経眼この作のみとされる。藤代の位列は上作。国宝・重要文化財はなく、来歴も記録に伝わらない。名物の重宝というより多作の大坂の名工のよく出来た刀であり、蒐集家にとっては最上の名ほど手の届かぬものではない。指定作は折々世に現れ、直ぐの長い焼出しから拳形丁子へと開き、明るい大坂の地鉄を備えた在銘の刀は、大坂新刀初期の最も満ち足りた一口の一つである。