奥元平、通称奥孝左衛門は、奥元直の嫡男として延享元年に生まれた。父に鍛刀を学んで夙に出藍の誉があり、明和年間より作刀を見、安永八・九年頃より急に作刀が多くなる。説明書は本工を一つの繰り返される併称で位置づける。「伯耆守正幸と並んで薩摩新々刀の双璧」と称えられ、正幸より十一歳の後輩である。銘そのものがその経歴を写し、安永・天明初めは「薩陽士元平」、天明五年以後は「薩藩臣奥元平」、寛政元年に大和守を受領して後は「奥大和守平朝臣元平」と切るものが多い。年紀は干支と「春」あるいは「秋」の季節のみを切る簡略なものが多く、説明書は「殆んどが太刀銘にきることも注意すべき」とする。作歴は長く、歿年の文政九年、八十三歳の年紀と行年を切る作さえある。
本領は、説明書が本工得意の相州伝と称する身幅広く堂々たる刀である。体配は身幅広く平肉豊かに中鋒延び、刃文は浅いのたれ調の互の目乱れに尖りごころの刃を交え、時に腰開きの尖り刃となり、あるいは大互の目に広がる。匂深く、沸厚く強くつき荒沸を交え、これに頻りな砂流しと長い金筋がかかる。これが薩摩で芋蔓と称される沸の流れ筋であり、ある一口について説明書は、金筋が太く入って「芋蔓状の沸筋」を見せると記す。尖り刃と流れる蔓とが、丁子にあらず荒い沸に読む相州伝であり、本工を認める背骨である。
下地の地鉄は終始変らぬところである。よく練れた板目、多くは小板目つみて流れ肌を交え、地沸厚く地景入り、最上の作では明るく冴える。その上で帽子は乱れ込みあるいは直ぐに小丸に返り、先を掃きかけて最も覇気のある作では火焰風となる。説明書が茎そのものに鑑定点として挙げる一つの見どころがある。茎は殆んど生ぶで、舟形風に先を細くし剣形に近い茎先となり、その仕立が終生変らないと記し、太鏨の大振りの長銘を切り行年を添えるものが多い。
記録には二つの作風があり、穏やかな方は若年に限られない。最も早い安永から天明初めの作は、相州伝の手が現れる前の穏やかな作風を示す。浅いのたれ調の刃、時に広直刃が浅いのたれに湾れ、匂深く沸よくつき匂口明るく冴える。説明書は天明五年の作を前期作に見る真改風の浅いのたれ調とし、天明二年の作を「同工の前期作に見られる大阪新刀の真改風の出来」とする。この作風は大和守受領の後にも繰り返される。寛政八年紀の刀は直刃調に浅くのたれ、砂流し・金筋かかり匂口冴え、説明書はこれを「彼の得意とする一作風である直刃調」とし、恐らく大坂の井上真改などに倣ったもので、どこかに尖り刃風の焼のあるのが見どころの一つとする。寛政六年・寛政九年紀の作も直刃を基調とする。寛政五年紀の一口は別格で、板目流れて殆ど柾がかる地に細直刃を焼き、説明書は「柾目に直刃の大和伝」とする。本間による御物台帳に所載の寛政八年紀、五十八歳の太刀も同じ方向にあり、板目殆ど柾がかる地に中直刃調の湾れを焼き、説明書はこれを彼の作としては頗るおとなしい出来で、いわゆる大和伝の太刀を摸したものとし、鞘書に「摸包永」とあると記す。この二口が、匂口の深い互の目に荒沸のつく常の作に対する例外である。この二口を除けば、下地の地沸厚い板目は本領に持ち込む鉄と同じで、直刃は同じ手を静かに保ったもの、別の伝ではない。またしばしば弟の元武・元安と合作し、彼らの単独銘は極めて少なく技も長兄に及ばないと説明書は記すが、二人・三人の合作銘が残りそれ自体貴重とされ、その出来は単独銘のものと変るところがない。
同国の中で本工を位置づけるのは、まさに極めの言う併称と説明書の立ち返る手である。まず年長の同郷の工正幸に対して読まれ、両者は薩摩新々刀の双璧として併べられる。そして説明書は同じ描写に立ち返る。その作刀は一般に「身幅が広く、堂々とした」ものが多く、互の目乱れを得意として荒沸を交え華やかであり、そして「相州伝を得意」とされる工である。明るく匂深い互の目に尖り刃を交え、流れる芋蔓と火焰風の帽子とが、他と分かつ本工自身の描かれた見どころであり、借りものの比較ではない。本工は奥家の筆頭に立ち、この系の薩摩新々刀を読む手である。
収集の観点では、本工は薩摩末期の屈指の名であり、藤代の極めは上々作である。国宝はなく、重要文化財もない。現代の指定は重要刀剣の級を通じ、三十八口がこの級にあり、安永から歿年に及ぶ作歴にわたって殆んど生ぶ・在銘で、一口は松江松平家の伝来を持つ。指定を受けた作の多くは、私蔵のものを含めて取引されず保たれており、本工得意の相州伝の在銘の良品が市に出るのは時に、そして忍んで初めてであり、出た際には収集家にとって相応のものである。本工の作は、古伝の固く保たれた遺産に比べては、一流の新々刀の名工の中では比較的見出しやすいが、年紀と行年を切った覇気のある相州伝の刀はなお節目の収集であり、薩摩の学が末期の頂に至った証である。