第十五回重要刀剣の在銘短刀は「国広」の二字を負い、その鞘書に「文昭院様より云々、代金五拾枚」と古い本阿弥の極めを記す。その説明はいまなお本工を律する一節から始まる。すなわち新藤五国広は古来国光の子と伝え、「国光よりも帽子の返りが長い」と古伝書にあるという。国広は相模にあって鎌倉時代の最末期に作刀し、文保二年(一三一八)・元亨四年(一三二四)紀の在銘作がその時代を定める。説明書は、新藤五国光に国広・国重・国泰の三子があり、いずれも後に父同様国光を銘したと伝えるが、三工のうち確かな作が実存するは国広のみで、他の二工に確実な有銘作を見ないと記す。記録される作はことごとく短刀と一口の脇指で、太刀は一口も極められていない。
本工はまず何より、父より受け継いだ新藤五の手である。上手な造込みの短刀を得意とし直刃を焼き、説明書は「上手な造込みの短刀を得意とし、直刃を焼く」と端的に評する。刃文は細直刃あるいは中直刃を沸出来に焼いて匂口明るく冴え、刃中に細かな金筋・砂流しを交え、処々喰違刃・二重刃・沸ほつれを刃縁に見せ、ときに僅かな小互の目・小のたれが交じるが、総じては静かな直刃に終始する。この抑制の上に、もう一つの相反する見どころが立つ。彫物である。短刀の茎元に梵字・素剣・護摩箸を彫り、第十五回の作には二筋樋を見せる新藤五の宗教的彫物の手であり、簡素な作は刀樋に添樋を掻流すのみのものもある。
地鉄こそ最も国光に結びつくところである。板目、処々小板目を、よくつんで地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入り、多くの作に沸映りが立つ。第六十六回の短刀では棟寄りに沸映り、刃寄りに直ぐ状の映りを説明書が読み取る。晩い一口は板目に杢・流れ肌を交え地斑ごころに肌立つが、総じては明るくよく錬れた新藤五の地鉄である。この映り、すなわち備前の乱れ映りならぬ、つんだ地の穏やかな沸映りと、沸出来の直刃とが、一見してその作を父の一派に置き、優品の出来は「父国光に遜色ない」とされる。
記録は一つの体配の二様にきれいに分かれる。僅かな生ぶ茎・二字在銘の短刀が工と年紀を支え、多くは新藤五と鑑し、さらに国広と極めた生ぶ茎無銘の短刀で、その数口は古い本阿弥折紙を、一口は元禄八年(一六九五)本阿弥光常の折紙を伴う。姿は内反り尋常の平造、茎は振袖ごころとなり、しばしば身幅やや広く、ときに寸延びる。国広とその兄弟が後に国光を銘し父の代作・代銘を勤めたと伝えることは、確かな国広銘が極めて少ない理由であると同時に、国広紀の一部が国光の年紀作と同時期に当たるため、今一つ研究の余地を残すと説明書はいう。
地刃が国光にきわめて近いゆえ、父との見分けは鉄ではなく姿、就中帽子で決まる。説明書はその極め手を明示する。国広の短刀は師に見ぬ程に幅広となり得、「帽子の返りが国光に見ない程広い」とし、「返りがやや倒れごころになる手癖」があるとする。第二十回に極められた一口では小丸の形がやや劣り返りやや長く、一見新藤五国光と見える作も、まさに裏の帽子の返りの広さが国広と決める。無銘の一口についてはずばり「国広以外には鑑られない」と記す。本工は相州開祖の一代下に立ち、父の系は行光を経て正宗へと開けるゆえ、その沸出来の直刃短刀は来るべき伝統の入口に座る。
藤代の格付けは上々作。重要文化財に二口、文保二年紀で佐賀の社に蔵される脇指と、元亨四年紀で鎌倉住人と添銘する短刀があり、十三口の短刀が重要刀剣に列する。残る伝来はその数の少なさに比して際立つ。地刃健全で出来のよい身幅広い無銘の短刀の一口は「秀吉の指料」と伝え、他の一口は「大徳川家の旧蔵品」である。蒐集家にとってその大半は求め得ぬところにある。重要文化財二口は市場の外の文化財であり、所在の知られる一口は東京国立博物館に収まる。現実に出会いうるのは重要刀剣の列、すなわち十三口の短刀で、その多くは本阿弥の極めを拠り所とする生ぶ茎無銘の作、いずれも新藤五風の小振りで静かな直刃の短刀である。かかる一口が市場に現れることは稀で、僅かしか存しない在銘年紀の国広短刀であれば、現れたとき出色の機会となる。