参勤交代が集めた日本最大の帯刀人口が江戸にあった。御用鍛冶康継は茎に葵紋を許され、虎徹の刀は截断銘の金象嵌を帯びる。この町では、証こそが物を言った。
Q886. Wakizashi signed Tsushima no Kami Tachibana Ippo. Nagasa: 19 1/4″ 48.8 cm. slightly suriage (shortened) Sori: .9 cm. Moto haba: 2.9 cm. Moto kasane: .6 cm. Saki haba: 1.9 cm. Saki kasane: .4 cm. Nakago nagasa: 6 1/4″ 16 cm. Overall in shirasaya: 28 7/8″ 73.5 cm. Shinogi zukuri, koshi sori, iore mune, chu kissaki. The hada is itame mokume and, with the exception of one short tate ware’ a couple inches above the habaki on the ura and a pinprick or 2, it is flawless. The hamon is gunome choji with sunagashi, hotsure, yo, and other hataraki, in a bright and consistent nioi guchi covered (slathered) in ko nie. The boshi is shallow undulations ending in ko maru on the ura, chu maru on the omote, and a short kaeri. This is in a well done, professional polish and mounted with a silver foil habaki and in a well made shirasaya. There is a kesho paper from the NBTHK, dated 1971 and attesting to the signature, condition, and work. There is a nicely written sayagaki by Hitoshi Sato of the Japanese Art Sword Museum of Kurashiki, who used the art name Bizan (備山). The sayagaki has been translated: Tsushima-no-kami Tachibana Ippō “Art name” of Chikyū Priestly name of Tsushima-no-kami Tsunemitsu Genroku era Gunome chōji, Fine work Nagasa of 1 shaku, 6 sun, 1 bu an auspicious day in August, Reiwa 6 (2024). Tsushima no Kami Tachibana Ippo is better known from his other signature: Tsushima no Kami Tachibana Tsunemitsu. He was the younger brother of Heki Mitsuhira and, together with a third brother, they were important in the Edo Ishido School. The smiths of the Ishido School worked, quite successfully, in old style Bizen. Ippo/Tsunemitsu was born early in the 17th century and enjoyed a long life (one of his swords is signed with a note stating 73 years of age). He is rated Jo Saku in Fujishiro. A fine blade in polish and in great condition, signed with paper and sayagaki. What more could you ask? How about the price. 2 pounds.









新刀 · 武蔵
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江戸石堂は、近江・京を経て武蔵江戸に根を下ろした石堂一門の分派であり、その本領は新刀の地に古一文字の丁子を再び挙げることにあった。石堂派はもともと近江に出て、福岡一文字の華麗な丁子乱れを範とした一統であるが、その一部の工が近江から京都へ、さらに江戸へと移って一派をなした。赤坂に残る銘がこの経路を示すとおり、これは近江からの直接移住ではなく、京を中継した段階的な江戸移住であった。江戸石堂を代表する工としては、日置光平、対馬守常光、越前守宗弘、そして運寿是一に至る石堂是一の系がある。彼らは寛永正保のころより筆を起こし、幕末新々刀期の是一に至るまで、都にあって備前丁子の伝統を一貫して保った。古作の写しを志向しつつ、その地刃は当代の明るい新刀のものであり、慶長新刀より寛文新刀へ移る過渡の体配を負う作も少なくない。 作風を貫くのは、意図して焼かれた備前丁子の乱れである。光平にあっては匂出来を主とし、互の目・小互の目・頭の丸い丁子・小丁子・尖りごころの刃を一線に交えて焼に高低をつけ、足・葉さかんに入り、匂口は明るく冴える。これを支えるのが、杢や流れ肌を交えた小板目をよく詰め、地沸を微塵につけた地の上に立つ乱れ映りであって、新刀の明るさのうちに古備前の趣を再び挙げたこの地こそ、一文字再興を最も徴づける見どころである。是一に至っては、同じ御家芸の丁子を匂出来ではなく沸出来で焼くところに独創を見せ、よく詰んだ小板目に丁子を主として互の目・小丁子・尖りごころの刃を交え、匂深く沸厚く、刃中を砂流しと長い金筋が走る。これは相州の地に運ばれた備前の刃であり、群がる新々刀の備前伝再興のなかで別格をなした。重花丁子の華やぎ、映りを伴う明るい地、沸づく丁子という三つの手は諸工に通じつつ、光平が映りの上の匂の丁子に最もよく成り、是一が沸の丁子に踏み出したように、同じ家の手が工ごとに分かれて働く。なお大和守安定のごとく、この一統に系を引きながらも、角張るのたれに互の目を交えて虎徹の傍らに立つ頑健な刀を本領とし、丁子の華麗には拠らぬ工も同じ江戸石堂の名のうちに数えられる。 鑑定の勘所は、新刀の明るい地に焼かれた復興丁子という一点に帰する。すなわち、よく詰んで地沸のついた小板目、ものによっては乱れ映りの立つ地の上に、足・葉のさかんに入る多種の丁子乱れが焼かれ、匂口が明るく冴えるところを見れば、まず江戸石堂を疑うべきである。匂出来か沸出来か、映りの有無、互の目の角張りの度合いによって工が分かれ、映りの上の冴えた丁子に光平を、沸出来の丁子に是一を読む。主要工のうち光平は江戸石堂を代表する最も技量の卓抜した工の一人とされて常光と双璧をなし、是一は幕末の上手の列に立って次郎太郎直勝・細川正義と肩を並べる。作はおおむね在銘で、銘より経歴と続柄を読み取れる開かれた記録をなし、無銘の極めに頼らぬ点も一派の特色である。伝来は概して私蔵・公蔵に静かに伝わるものが多く、なかには本間による御物台帳に所載の是一の一口も知られる。在銘の江戸石堂は折々市場に現れるに過ぎず、古備前の映りの上に立つ明るい丁子乱れを一見で知る者にとって、現れれば一事である。 詳しく見る →
江戸 将軍の御膝元
参勤交代が集めた日本最大の帯刀人口が江戸にあった。御用鍛冶康継は茎に葵紋を許され、虎徹の刀は截断銘の金象嵌を帯びる。この町では、証こそが物を言った。
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