出ました出ました日本が世界に輝いていた時代の刀が出ました。昭和12年に日本と中国との戦いが始まり翌年の昭和13年(1938年)(87年前)の広東攻略戦の勝ち戦を記念した刀です。熊本県出身古荘幹郎(ふるしょうもとお)第21軍司令官陸軍中将指揮のもと昭和13年(1938年)9月広東攻略戦に出動、海軍の第五艦隊と共同して、10月12日バイアス湾に上陸し瞬く間に10月21日広東(香港やマカオの近く)(深センは特区として有名)広州に攻め入り入城しその勝ち戦を記念した刀です。第21軍の各部隊は、大連、青島、上海の各港から輸送船にて馬公要港部の置かれていた澎湖島馬公に集結、主力の第18師団、第104師団、第5師団は10月12日バイアス湾に奇襲上陸を敢行、上陸した各部隊は、一挙に内陸部まで兵を進め、10月15日には恵州を陥とし、10月19日には増城を占領、10月21日に広州に入城し第21軍主力と合流し作戦は勝ち戦で終了本刀はその勝ち戦を記念した歴史的にも貴重な刀です。本刀の作者は名工近江守継平の四代目藤田与四郎。江戸時代明和頃(1764年頃)(260年前)の江戸の刀工です。初代継平は初代越前康継の高弟として名高く本刀は四代目の有名な草書銘です。黄金鍛等の添え銘を切ったものもあり当時は非常に有名な独創的な刀工でした。本刀は元身幅と先身幅の差の有る反りの有る上品な刀姿を現し、地金は小板目肌良く詰み杢目肌が交じった地金を鍛え、刃紋は匂い出来に小沸の付いた大のたれ乱れ刃に頂きに小互の目刃を交え足を入れ覇気有る刃を焼き上手です。この度家に大切に伝わった刀ですが手入れも充分に出来なくなったので今後大切にしていただける方にお安くお譲り下しとお預かりした為に当時の風雪の錆も有りますので特別に格安にてご提供いたします、日本が世界に輝いていた時の藤田近江守藤原継平の戦勝記念の刀を是非お楽しみ下さいませ。
江戸 · 長さ 73.1cm · 反り 1.9cm























新刀 · 武蔵 · 1661-1673頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位49%
現在2点販売中
繼平の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
お客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
出ました出ました日本が世界に輝いていた時代の刀が出ました。昭和12年に日本と中国との戦いが始まり翌年の昭和13年(1938年)(87年前)の広東攻略戦の勝ち戦を記念した刀です。熊本県出身古荘幹郎(ふるしょうもとお)第21軍司令官陸軍中将指揮のもと昭和13年(1938年)9月広東攻略戦に出動、海軍の第五艦隊と共同して、10月12日バイアス湾に上陸し瞬く間に10月21日広東(香港やマカオの近く)(深センは特区として有名)広州に攻め入り入城しその勝ち戦を記念した刀です。第21軍の各部隊は、大連、青島、上海の各港から輸送船にて馬公要港部の置かれていた澎湖島馬公に集結、主力の第18師団、第104師団、第5師団は10月12日バイアス湾に奇襲上陸を敢行、上陸した各部隊は、一挙に内陸部まで兵を進め、10月15日には恵州を陥とし、10月19日には増城を占領、10月21日に広州に入城し第21軍主力と合流し作戦は勝ち戦で終了本刀はその勝ち戦を記念した歴史的にも貴重な刀です。本刀の作者は名工近江守継平の四代目藤田与四郎。江戸時代明和頃(1764年頃)(260年前)の江戸の刀工です。初代継平は初代越前康継の高弟として名高く本刀は四代目の有名な草書銘です。黄金鍛等の添え銘を切ったものもあり当時は非常に有名な独創的な刀工でした。本刀は元身幅と先身幅の差の有る反りの有る上品な刀姿を現し、地金は小板目肌良く詰み杢目肌が交じった地金を鍛え、刃紋は匂い出来に小沸の付いた大のたれ乱れ刃に頂きに小互の目刃を交え足を入れ覇気有る刃を焼き上手です。この度家に大切に伝わった刀ですが手入れも充分に出来なくなったので今後大切にしていただける方にお安くお譲り下しとお預かりした為に当時の風雪の錆も有りますので特別に格安にてご提供いたします、日本が世界に輝いていた時の藤田近江守藤原継平の戦勝記念の刀を是非お楽しみ下さいませ。
江戸 · 長さ 73.1cm · 反り 1.9cm























新刀 · 武蔵 · 1661-1673頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位49%
現在2点販売中
繼平の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
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