肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
刃長54.78センチ 反り1.11センチ 元幅30.6ミリ 元重ね7.2ミリ 物打幅25.4ミリ 物打重ね5.9ミリ 横手位置幅22.6ミリ 松葉先重ね4.8ミリ 裸身重量575グラム。 江戸前期 The early period of Edo era 昭和41年7月15日 愛知県登録 附属 特別保存刀剣鑑定書、銀二重はばき、白鞘 忠國は初代忠吉の弟・吉家の子で、本名を橋本六郎左衛門と称しました。初銘は廣則、寛永十一年(1634)に播磨大掾を受領して忠國と改名し、当初は「磨」を「摩」と刻銘した作もあり、寛永から寛文期にかけて多くの作品を残しています。 晩年には播磨入道休鉄と号し、「播磨大掾藤原忠國」「肥前住播磨大掾藤原忠國」「肥前住播磨入道藤原休鉄」といった銘を切りました。 肥前国に於いて「脇肥前」と称される一派の中でも群を抜く存在であり、とりわけ「虻の目」と呼ばれる独特の互の目刃で名高い刀工です。 本脇指は、身幅・重ね共に尋常で、元先の幅差は程好く開き、切先が延びごころ。地鉄は小板目よく詰み、地沸付いて小糠肌となり、細かな地景が微塵に入り、元の方には淡い映りが立っています。刃文は匂口明るい直刃で、小沸出来にて匂深く、刃先に向かうにつれて煙み込まず、プツリと切れたような匂口の様は、まさに忠吉や忠廣を彷彿とさせます。更に刃縁には繊細な働きが顕著に見られ、肥前刀らしい冴えが存分に感じられます。鋩子は表裏共に焼きたっぷりとして丸く返り、端正な出来映えを誇り、肥前刀工の中でも位高き忠國による、鑑賞刀として申し分ない優品です。
Certificate reading — 銘 播磨大掾藤原忠國









新刀 · 肥前
現在137点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。
¥440,000
刃長54.78センチ 反り1.11センチ 元幅30.6ミリ 元重ね7.2ミリ 物打幅25.4ミリ 物打重ね5.9ミリ 横手位置幅22.6ミリ 松葉先重ね4.8ミリ 裸身重量575グラム。 江戸前期 The early period of Edo era 昭和41年7月15日 愛知県登録 附属 特別保存刀剣鑑定書、銀二重はばき、白鞘 忠國は初代忠吉の弟・吉家の子で、本名を橋本六郎左衛門と称しました。初銘は廣則、寛永十一年(1634)に播磨大掾を受領して忠國と改名し、当初は「磨」を「摩」と刻銘した作もあり、寛永から寛文期にかけて多くの作品を残しています。 晩年には播磨入道休鉄と号し、「播磨大掾藤原忠國」「肥前住播磨大掾藤原忠國」「肥前住播磨入道藤原休鉄」といった銘を切りました。 肥前国に於いて「脇肥前」と称される一派の中でも群を抜く存在であり、とりわけ「虻の目」と呼ばれる独特の互の目刃で名高い刀工です。 本脇指は、身幅・重ね共に尋常で、元先の幅差は程好く開き、切先が延びごころ。地鉄は小板目よく詰み、地沸付いて小糠肌となり、細かな地景が微塵に入り、元の方には淡い映りが立っています。刃文は匂口明るい直刃で、小沸出来にて匂深く、刃先に向かうにつれて煙み込まず、プツリと切れたような匂口の様は、まさに忠吉や忠廣を彷彿とさせます。更に刃縁には繊細な働きが顕著に見られ、肥前刀らしい冴えが存分に感じられます。鋩子は表裏共に焼きたっぷりとして丸く返り、端正な出来映えを誇り、肥前刀工の中でも位高き忠國による、鑑賞刀として申し分ない優品です。
Certificate reading — 銘 播磨大掾藤原忠國









新刀 · 肥前
現在137点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。
¥440,000