鑑定書内容:文部省 重要美術品 Agency for Cultural Affairs Art treasures 平安時代、後鳥羽上皇自らの手によって鍛刀されたと伝わる名宝。後鳥羽上皇は高倉天皇の第四子で治承四年(1180)に誕生せられ、土御門天皇、のち順徳、仲恭の三天皇の御代に院政を執られた。英名であらせられた後鳥羽院は刀剣に関しても御造詣が深かった事で広く知られており、月番を決めて全国から名工を召集し、作刀の御相手をなさしめたといい、この間自らも焼刃せられたものを菊作または菊御作と称している。菊作と言われる所以はハバキ元に16葉や24葉の菊花紋の毛彫りがあるからであり、ちなみに皇室で菊紋を用いるようになったのは後鳥羽院からである。その作風はその折を務めた鍛冶によって異なり、古一文字に類するもの、古青江風の物、ならびに粟田口の作風に近い物などがあり、概して焼落としが見られ、そこから水影風のたつものが多い。この太刀は延宝元年本阿弥光常代百五十貫の折紙が付せられており、上記の特色が顕著であり、一の字が残されているとおり、相手は古一文字の作者であろう、御物、島津家伝来品、松平家伝来品、林原所有品(共に重要文化財)等数点が残されているが「一」の字を添えられたものは他に例がない、まさに名刀である。本作は慶安4年、4代将軍徳川家綱の将軍宣下の儀が江戸城にて執り行われ、その謝使として、9月21日、酒井河内守忠清が高家の吉良若狭守義冬と共に上洛した折、忠清が本太刀を拝領し、帰還後、雅楽頭に任ぜられた。ながらく同家の伝家の宝刀として秘蔵されたこの太刀は、農林大臣、貴族院副議長も務め、明治の政界に大きく貢献した13代当主忠正の時、国の重要美術品に認定され、戦後、山内家に入り、同家の財宝を管理する東京、九段の遊就館にて保存されていた。平成に入り公益財団法人 日本美術刀剣保存協会の特別重要刀剣にも指定されている。

Goban-kaji (the imperial rotation smiths) · 山城 · 1207-1211頃
刀剣大鑑 上位2%
後鳥羽院は通常の意味での刀工ではなく、鎌倉時代初期の後鳥羽上皇その人であり、鍛冶を帝王の営みとした。所載解説は伝えを一貫して記す。上皇は番鍛冶を選定して院の御所に結番を作り、刀を打たせられたと伝え、この間鍛冶に造らせた刀身のうち「上皇自ら焼刃せられたものを菊作または御作と称している」[[c:3]]。その記録は古く、御所への名工の召し抱えと自らの焼入れは『銘盡』(観智院本)をはじめ古来の刀剣書に見え、『後鳥羽院番鍛冶考』に所載の作も知られる。
何よりの目印は菊である。菊作と言われる所以は、生ぶ茎の研溜に十六葉や二十四葉の菊花紋の毛彫があるからであり、茎が生ぶに残る作では磨耗した毛彫がなお看取される。一方、作風は院一人のものではない。解説は、その折の相手を務めた鍛冶によって作風が異なり、古一文字の作に類したもの、古青江風のもの、粟田口の作域に近いものなどがあると繰り返し説く。群を貫くのは焼刃の型であり、「概して焼落しが見られ、そこから水影風の立つものが多い」[[c:4]]。焼落しの部分は「匂口が弱く一見再刃の如くみえるがそうではない」[[c:5]]と明記される。現存する数口には京風と備前風があるという。
穏やかな側を担うのは山内家伝来の太刀で、菊花紋の下に斜めに符牒の如き「一」の字を刻す。細身で腰反り高く、踏張りがつき、先に行って伏しごころがあって小鋒となる。鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて総体にやや肌立ち、地沸がつき地景が入り、元の方には斜めに水影状の映りが立つ。刃文は区上を焼落して腰刃風を見せ、その上は直刃調に浅くのたれ、小乱れに小互の目・小丁子ごころを交える。小足が入り、刃に近く飛焼がかかり、よく沸づいて砂流し・金筋がかかる。帽子は直ぐに小丸で、沸が強い。解説はこの作を備前古一文字派の作風に近いとし、特色の焼落しと元の水影風の映りを挙げる。菊花紋の毛彫に「一」の字を添えた作例は「他に類がなく、貴重な資料である」[[c:6]]と評され、延宝元年の本阿弥光常折紙(代百五拾貫)が附く。
華やかな側は旗本黒田家伝来の太刀で、解説は備前の鍛冶が相手を務めたとみる。身幅ほぼ尋常で元先の幅差があり、平肉よくつき、反り高く腰反り・踏張りがついて堂々とし、中鋒となる。小板目肌はよく錬れて地沸が微塵につき、乱れ映りが鮮明に立つ。焼は高く、丁子乱れ華やかに足・葉が入り、匂勝ちに小沸がつき、総じて逆がかる気味がある。焼頭の近くに飛焼を交え、匂口は締まって明るく冴える。腰樋・添樋の上に梵字、裏腰元には護摩箸を刻す。地刃は一見新味が感じられるほど頗る健体であり、「総じて見事な出来映えで菊御作の所伝は首肯し得る」[[c:7]]と結ばれ、『土屋押形』の注記には「神君拝領黒田氏蔵」[[c:8]]とある。大磨上無銘で菊御作に極められた刀もこの備前風に連なり、丁子に小乱れを交え、匂深く、湯走り・砂流し・金筋がかかり、帽子は乱れ込んで先小丸となる。ただし磨上のため焼落しや水影風は見られず、極めは地刃の古調さに拠る。松平家伝来の一口について本間は、極めは適切で「地刃の古調さに加えて出来もよい」[[c:9]]と記した。
門流は残さない。菊御作の系譜は横へ、すなわちその折に院に侍した鍛冶の流派(古一文字・古青江・粟田口)へと遡り、その見極めが菊花紋・焼落し・水影とあいまって、この群の鑑定を定める。所載解説はまた、これらの作の指定の連なりを記す。菊御作には御物一口のほか、旧越前松平家・尾張徳川家・林原家伝来の重要文化財指定品があり、いずれも茎に菊紋を刻すという。
指定を受けた作は十一口を数える。重要文化財四口、皇室ゆかりの二口、重要美術品二口、特別重要刀剣二口、重要刀剣一口である。うち九口に伝来が記録され、その連なりは帝王の手に相応しい。黒田家の太刀は慶長十九年(1614)に徳川家康より黒田直綱が拝領し、江戸時代を通じて毎年、将軍家御腰物方の手入れを受けた。厳島神社の太刀は社伝に大内義隆旧蔵、毛利元就奉納と伝え、明治二十年の火災に遭った。ほかに山内家・松平家・越前松平家・九条家・皇室を経た作があり、上杉景勝由来の一口もある。所在の知られるものは厳島神社、東京・京都の両国立博物館、黒川古文化研究所などに納まる。重要文化財と皇室ゆかりの品は国の重宝として動くことがなく、私人の手に渡り得るのは特別重要刀剣・重要刀剣の三口にとどまる。後鳥羽院御自らの焼刃になる菊御作が市に現れることは、この分野で最も稀な出会いのひとつである。
後鳥羽院の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝
御番鍛冶は、鎌倉時代初期に後鳥羽上皇が院の御所に結番を設け、当時の名工を月ごとに召して鍛刀せしめた制度に由来する。説示は、上皇が番鍛冶を選定して刀を打たせ、その刀樸に上皇自ら焼刃を加えたものを菊作または御作と称すると伝え、その出典として『銘盡』観智院本をはじめとする古来の刀剣書を挙げる。したがって本群は単一の系統や流派を成すものではなく、上皇のもとに番を勤めた諸国の工を歴史的に括る名であり、収録される諸作の説示が示す作域からは、備前の古一文字に類する工、古青江風を示す工、ならびに山城粟田口の作域に近い工が相手を務めたことが看取される。茎元に施された十六葉あるいは二十四葉の菊花紋の毛彫を菊作と呼ぶ所以とする。 作風は、その折の相手を務めた鍛冶が誰であったかによって異なり、説示はこれを一様に論じない。備前の工が相手を務めたとみられる黒田家伝来の太刀は、小板目肌がよく錬れて乱れ映りが鮮明に立ち、丁子乱れが華やかで足葉を交え、総じて逆がかる気味があって随所に飛焼を交える。同じく備前古一文字派の作風を示す持田家の太刀は、区上を焼き落として腰刃風を見せ、その上は直刃調に小乱れ・小丁子ごころの刃を交え、元の方に斜めの水影状の映りが立つ。大磨上無銘の作では焼落しや水影風が磨上のため看取されぬものもあり、京風と備前風の別が説かれる。すなわち焼落しと、そこから立つ水影風の映りが諸作に通じて挙げられる一方、地刃の調子そのものは相手の伝統に従って異にする。 鑑定上の要点は、茎元に残る菊花紋の毛彫の有無と、焼落しおよび水影風の映りの看取にある。持田家の太刀のごとく菊花紋の下に符牒の「一」の字を添える例は他に類がなく、貴重な資料とされる。伝来は厳島神社に伝わり大内義隆旧蔵を毛利元就が奉納したと社伝に伝える焼身の太刀、寛政重修諸家譜に慶長十九年黒田直綱が家康より拝領したと載り土屋押形にも所収される黒田家の太刀、本阿弥光常の折紙を附する山内家旧蔵の太刀、御物・越前松平家・尾張徳川家・林原家の重要文化財など、由緒の確かなものが多く、後鳥羽院番鍛冶考にも所載される。院政期の宮廷を背景とする希少な遺品として位置づけられる。
| 刀工 | 時代 | 指定 |
|---|---|---|
| 後鳥羽院 | 1207-1211 | 11 |
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鑑定書内容:文部省 重要美術品 Agency for Cultural Affairs Art treasures 平安時代、後鳥羽上皇自らの手によって鍛刀されたと伝わる名宝。後鳥羽上皇は高倉天皇の第四子で治承四年(1180)に誕生せられ、土御門天皇、のち順徳、仲恭の三天皇の御代に院政を執られた。英名であらせられた後鳥羽院は刀剣に関しても御造詣が深かった事で広く知られており、月番を決めて全国から名工を召集し、作刀の御相手をなさしめたといい、この間自らも焼刃せられたものを菊作または菊御作と称している。菊作と言われる所以はハバキ元に16葉や24葉の菊花紋の毛彫りがあるからであり、ちなみに皇室で菊紋を用いるようになったのは後鳥羽院からである。その作風はその折を務めた鍛冶によって異なり、古一文字に類するもの、古青江風の物、ならびに粟田口の作風に近い物などがあり、概して焼落としが見られ、そこから水影風のたつものが多い。この太刀は延宝元年本阿弥光常代百五十貫の折紙が付せられており、上記の特色が顕著であり、一の字が残されているとおり、相手は古一文字の作者であろう、御物、島津家伝来品、松平家伝来品、林原所有品(共に重要文化財)等数点が残されているが「一」の字を添えられたものは他に例がない、まさに名刀である。本作は慶安4年、4代将軍徳川家綱の将軍宣下の儀が江戸城にて執り行われ、その謝使として、9月21日、酒井河内守忠清が高家の吉良若狭守義冬と共に上洛した折、忠清が本太刀を拝領し、帰還後、雅楽頭に任ぜられた。ながらく同家の伝家の宝刀として秘蔵されたこの太刀は、農林大臣、貴族院副議長も務め、明治の政界に大きく貢献した13代当主忠正の時、国の重要美術品に認定され、戦後、山内家に入り、同家の財宝を管理する東京、九段の遊就館にて保存されていた。平成に入り公益財団法人 日本美術刀剣保存協会の特別重要刀剣にも指定されている。

Goban-kaji (the imperial rotation smiths) · 山城 · 1207-1211頃
刀剣大鑑 上位2%
後鳥羽院は通常の意味での刀工ではなく、鎌倉時代初期の後鳥羽上皇その人であり、鍛冶を帝王の営みとした。所載解説は伝えを一貫して記す。上皇は番鍛冶を選定して院の御所に結番を作り、刀を打たせられたと伝え、この間鍛冶に造らせた刀身のうち「上皇自ら焼刃せられたものを菊作または御作と称している」[[c:3]]。その記録は古く、御所への名工の召し抱えと自らの焼入れは『銘盡』(観智院本)をはじめ古来の刀剣書に見え、『後鳥羽院番鍛冶考』に所載の作も知られる。
何よりの目印は菊である。菊作と言われる所以は、生ぶ茎の研溜に十六葉や二十四葉の菊花紋の毛彫があるからであり、茎が生ぶに残る作では磨耗した毛彫がなお看取される。一方、作風は院一人のものではない。解説は、その折の相手を務めた鍛冶によって作風が異なり、古一文字の作に類したもの、古青江風のもの、粟田口の作域に近いものなどがあると繰り返し説く。群を貫くのは焼刃の型であり、「概して焼落しが見られ、そこから水影風の立つものが多い」[[c:4]]。焼落しの部分は「匂口が弱く一見再刃の如くみえるがそうではない」[[c:5]]と明記される。現存する数口には京風と備前風があるという。
穏やかな側を担うのは山内家伝来の太刀で、菊花紋の下に斜めに符牒の如き「一」の字を刻す。細身で腰反り高く、踏張りがつき、先に行って伏しごころがあって小鋒となる。鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて総体にやや肌立ち、地沸がつき地景が入り、元の方には斜めに水影状の映りが立つ。刃文は区上を焼落して腰刃風を見せ、その上は直刃調に浅くのたれ、小乱れに小互の目・小丁子ごころを交える。小足が入り、刃に近く飛焼がかかり、よく沸づいて砂流し・金筋がかかる。帽子は直ぐに小丸で、沸が強い。解説はこの作を備前古一文字派の作風に近いとし、特色の焼落しと元の水影風の映りを挙げる。菊花紋の毛彫に「一」の字を添えた作例は「他に類がなく、貴重な資料である」[[c:6]]と評され、延宝元年の本阿弥光常折紙(代百五拾貫)が附く。
華やかな側は旗本黒田家伝来の太刀で、解説は備前の鍛冶が相手を務めたとみる。身幅ほぼ尋常で元先の幅差があり、平肉よくつき、反り高く腰反り・踏張りがついて堂々とし、中鋒となる。小板目肌はよく錬れて地沸が微塵につき、乱れ映りが鮮明に立つ。焼は高く、丁子乱れ華やかに足・葉が入り、匂勝ちに小沸がつき、総じて逆がかる気味がある。焼頭の近くに飛焼を交え、匂口は締まって明るく冴える。腰樋・添樋の上に梵字、裏腰元には護摩箸を刻す。地刃は一見新味が感じられるほど頗る健体であり、「総じて見事な出来映えで菊御作の所伝は首肯し得る」[[c:7]]と結ばれ、『土屋押形』の注記には「神君拝領黒田氏蔵」[[c:8]]とある。大磨上無銘で菊御作に極められた刀もこの備前風に連なり、丁子に小乱れを交え、匂深く、湯走り・砂流し・金筋がかかり、帽子は乱れ込んで先小丸となる。ただし磨上のため焼落しや水影風は見られず、極めは地刃の古調さに拠る。松平家伝来の一口について本間は、極めは適切で「地刃の古調さに加えて出来もよい」[[c:9]]と記した。
門流は残さない。菊御作の系譜は横へ、すなわちその折に院に侍した鍛冶の流派(古一文字・古青江・粟田口)へと遡り、その見極めが菊花紋・焼落し・水影とあいまって、この群の鑑定を定める。所載解説はまた、これらの作の指定の連なりを記す。菊御作には御物一口のほか、旧越前松平家・尾張徳川家・林原家伝来の重要文化財指定品があり、いずれも茎に菊紋を刻すという。
指定を受けた作は十一口を数える。重要文化財四口、皇室ゆかりの二口、重要美術品二口、特別重要刀剣二口、重要刀剣一口である。うち九口に伝来が記録され、その連なりは帝王の手に相応しい。黒田家の太刀は慶長十九年(1614)に徳川家康より黒田直綱が拝領し、江戸時代を通じて毎年、将軍家御腰物方の手入れを受けた。厳島神社の太刀は社伝に大内義隆旧蔵、毛利元就奉納と伝え、明治二十年の火災に遭った。ほかに山内家・松平家・越前松平家・九条家・皇室を経た作があり、上杉景勝由来の一口もある。所在の知られるものは厳島神社、東京・京都の両国立博物館、黒川古文化研究所などに納まる。重要文化財と皇室ゆかりの品は国の重宝として動くことがなく、私人の手に渡り得るのは特別重要刀剣・重要刀剣の三口にとどまる。後鳥羽院御自らの焼刃になる菊御作が市に現れることは、この分野で最も稀な出会いのひとつである。
後鳥羽院の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝
御番鍛冶は、鎌倉時代初期に後鳥羽上皇が院の御所に結番を設け、当時の名工を月ごとに召して鍛刀せしめた制度に由来する。説示は、上皇が番鍛冶を選定して刀を打たせ、その刀樸に上皇自ら焼刃を加えたものを菊作または御作と称すると伝え、その出典として『銘盡』観智院本をはじめとする古来の刀剣書を挙げる。したがって本群は単一の系統や流派を成すものではなく、上皇のもとに番を勤めた諸国の工を歴史的に括る名であり、収録される諸作の説示が示す作域からは、備前の古一文字に類する工、古青江風を示す工、ならびに山城粟田口の作域に近い工が相手を務めたことが看取される。茎元に施された十六葉あるいは二十四葉の菊花紋の毛彫を菊作と呼ぶ所以とする。 作風は、その折の相手を務めた鍛冶が誰であったかによって異なり、説示はこれを一様に論じない。備前の工が相手を務めたとみられる黒田家伝来の太刀は、小板目肌がよく錬れて乱れ映りが鮮明に立ち、丁子乱れが華やかで足葉を交え、総じて逆がかる気味があって随所に飛焼を交える。同じく備前古一文字派の作風を示す持田家の太刀は、区上を焼き落として腰刃風を見せ、その上は直刃調に小乱れ・小丁子ごころの刃を交え、元の方に斜めの水影状の映りが立つ。大磨上無銘の作では焼落しや水影風が磨上のため看取されぬものもあり、京風と備前風の別が説かれる。すなわち焼落しと、そこから立つ水影風の映りが諸作に通じて挙げられる一方、地刃の調子そのものは相手の伝統に従って異にする。 鑑定上の要点は、茎元に残る菊花紋の毛彫の有無と、焼落しおよび水影風の映りの看取にある。持田家の太刀のごとく菊花紋の下に符牒の「一」の字を添える例は他に類がなく、貴重な資料とされる。伝来は厳島神社に伝わり大内義隆旧蔵を毛利元就が奉納したと社伝に伝える焼身の太刀、寛政重修諸家譜に慶長十九年黒田直綱が家康より拝領したと載り土屋押形にも所収される黒田家の太刀、本阿弥光常の折紙を附する山内家旧蔵の太刀、御物・越前松平家・尾張徳川家・林原家の重要文化財など、由緒の確かなものが多く、後鳥羽院番鍛冶考にも所載される。院政期の宮廷を背景とする希少な遺品として位置づけられる。
| 刀工 | 時代 | 指定 |
|---|---|---|
| 後鳥羽院 | 1207-1211 | 11 |
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