肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別保存刀剣鑑定書付 肥前国忠吉(八代) 【概要】 本作は「肥前国忠吉」と銘が切られた一振りです。江戸時代を通じて九代まで続いた忠吉家の中でも、日本美術刀剣保存協会(日美工)の鑑定により、天保年間(1830-1844)に活躍した八代忠吉の作と極められています。八代忠吉は歴代の中でも名工として知られ、先代から受け継いだ高度な技術を完成させた人物です。忠吉家は代々、佐賀藩(現在の佐賀県)を治めた鍋島家の御用鍛冶を務めました。 八代忠吉は享和元年(1801年)、佐賀藩士・古川家の次男として生まれ、後に七代忠吉の養子となり、名を橋本新左衛門と改めました。文化13年(1816年)に七代の跡を継ぎ、忠吉家を継承します。 その技量は藩からも高く評価され、幕末の佐賀藩における軍制近代化においても重要な役割を果たしました。嘉永3年(1850年)には、その精緻な鍛鉄技術を買われ、藩の大砲鋳造の責任者にも任命されています。安政6年(1859年)、59歳で没しました。 忠吉をはじめとする肥前刀工は、鍋島家の庇護のもと、非常にきめ細やかで美しい「小糠肌(こぬかはだ)」と呼ばれる地鉄を完成させました。これは肥前刀の最大の特徴の一つです。また、海外貿易で栄えた長崎に近い地理的条件から、西欧より伝来した鉄(阿蘭陀鉄)をいち早く取り入れ、独自の精錬法を確立したことでも知られています。 (肥前忠吉の祖) 初代忠吉は佐賀藩に生まれ、慶長元年(1596年)、藩命により京都へ上り、当時随一の名工であった埋忠明寿の門に入りました。そこで作刀技術を磨き、二年後の慶長3年(1598年)に帰郷。 初代藩主・鍋島勝茂公にその腕を認められ、御抱え鍛冶となりました。彼が築いた肥前忠吉家は、江戸時代を通じて百名を超える門下生を輩出する一大流派へと発展しました。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「特別保存刀剣」に指定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ美術的価値が高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 ※棟(むね)の部分に黒錆が見られます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身諸元】 長さ(Nagasa):65.1 cm 反り(Sori):1.51 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地文(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、赤錆を防ぐために茎に意図的に黒錆を残します。この錆色や朽ち込み具合は、専門家が製作年代を特定するための重要な指標となります。 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた外装一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられた一対の金具。 柄・目貫(Tsuka / Menuki):柄の装飾である目貫には、武具や道具をモチーフとした意匠が施されています。上部の目貫には……























新刀 · 肥前 · 1830-1844頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在7点販売中
新刀 · 肥前
現在130点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
特別保存刀剣鑑定書付 肥前国忠吉(八代) 【概要】 本作は「肥前国忠吉」と銘が切られた一振りです。江戸時代を通じて九代まで続いた忠吉家の中でも、日本美術刀剣保存協会(日美工)の鑑定により、天保年間(1830-1844)に活躍した八代忠吉の作と極められています。八代忠吉は歴代の中でも名工として知られ、先代から受け継いだ高度な技術を完成させた人物です。忠吉家は代々、佐賀藩(現在の佐賀県)を治めた鍋島家の御用鍛冶を務めました。 八代忠吉は享和元年(1801年)、佐賀藩士・古川家の次男として生まれ、後に七代忠吉の養子となり、名を橋本新左衛門と改めました。文化13年(1816年)に七代の跡を継ぎ、忠吉家を継承します。 その技量は藩からも高く評価され、幕末の佐賀藩における軍制近代化においても重要な役割を果たしました。嘉永3年(1850年)には、その精緻な鍛鉄技術を買われ、藩の大砲鋳造の責任者にも任命されています。安政6年(1859年)、59歳で没しました。 忠吉をはじめとする肥前刀工は、鍋島家の庇護のもと、非常にきめ細やかで美しい「小糠肌(こぬかはだ)」と呼ばれる地鉄を完成させました。これは肥前刀の最大の特徴の一つです。また、海外貿易で栄えた長崎に近い地理的条件から、西欧より伝来した鉄(阿蘭陀鉄)をいち早く取り入れ、独自の精錬法を確立したことでも知られています。 (肥前忠吉の祖) 初代忠吉は佐賀藩に生まれ、慶長元年(1596年)、藩命により京都へ上り、当時随一の名工であった埋忠明寿の門に入りました。そこで作刀技術を磨き、二年後の慶長3年(1598年)に帰郷。 初代藩主・鍋島勝茂公にその腕を認められ、御抱え鍛冶となりました。彼が築いた肥前忠吉家は、江戸時代を通じて百名を超える門下生を輩出する一大流派へと発展しました。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「特別保存刀剣」に指定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ美術的価値が高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 ※棟(むね)の部分に黒錆が見られます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身諸元】 長さ(Nagasa):65.1 cm 反り(Sori):1.51 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地文(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、赤錆を防ぐために茎に意図的に黒錆を残します。この錆色や朽ち込み具合は、専門家が製作年代を特定するための重要な指標となります。 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などを含めた外装一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられた一対の金具。 柄・目貫(Tsuka / Menuki):柄の装飾である目貫には、武具や道具をモチーフとした意匠が施されています。上部の目貫には……























新刀 · 肥前 · 1830-1844頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在7点販売中
新刀 · 肥前
現在130点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.