
TADAYOSHI / HIZEN / HACHIDAI
$3,950
世界81社の刀剣商を横断追跡 · 価格履歴 · 売却アーカイブ
仕様
48.28 cm
2.86 cm
肥前忠吉(八代) 肥前国忠吉 八代 藤代鑑定:中上作 NTHK(日本刀剣保存会)鑑定書付 姿:鎬造 銘:肥前忠吉(朱銘)、盛高 花押(朱銘) 裏銘:なし 長さ:48.28cm(一尺五寸九分) 全長:62.23cm 元幅:2.86cm 重ね:0.63cm 反り:僅か 茎:磨上げ 目釘穴:二個 鑢目:切 棟:庵棟 肌:小板目肌、地沸つく 刃文:直調に僅かに小湾れ交じる 帽子:小丸 彫物(表):なし 彫物(裏):なし ハバキ:二重 拵付 肥前忠吉家は、説明を要さぬほど世界的に高く評価されている名門です。その歴史は、元亀三年(1572年)生まれの橋本新左衛門尉、すなわち初代忠吉に始まります。初代忠吉は25歳の時、新刀の祖として知られる京都の埋忠明寿に師事しました。「忠」の字は師である埋忠より授かったものです。三年の修行を経て肥前に戻った忠吉は、肥前忠吉鍛冶を興しました。以来、明治十三年(1880年)に九代忠吉が没するまで、九代にわたりその正系は受け継がれました。 本作はNTHKにより、八代肥前忠吉と鑑定された脇指です。八代忠吉は享和元年(1801年)に生まれ、橋本俊一郎と称しました。六代忠吉の娘の子にあたりますが、子がいなかった七代忠吉の養子となり、正統な後継者として家督を継ぎました。八代が十六歳の頃に六代・七代が相次いで没したため、門弟の忠行が代わって一門を支え、八代が成人するまで後見人を務めたとされています。八代忠吉と忠行の信頼関係は、天保十五年(1844年)に忠行が没するまで続きました。また、八代忠吉は藩主・鍋島直正公の命により、刀剣のみならず鉄砲や大砲の鋳造にも携わったことで知られています。

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48.28 cm
2.86 cm
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肥前忠吉(八代) 肥前国忠吉 八代 藤代鑑定:中上作 NTHK(日本刀剣保存会)鑑定書付 姿:鎬造 銘:肥前忠吉(朱銘)、盛高 花押(朱銘) 裏銘:なし 長さ:48.28cm(一尺五寸九分) 全長:62.23cm 元幅:2.86cm 重ね:0.63cm 反り:僅か 茎:磨上げ 目釘穴:二個 鑢目:切 棟:庵棟 肌:小板目肌、地沸つく 刃文:直調に僅かに小湾れ交じる 帽子:小丸 彫物(表):なし 彫物(裏):なし ハバキ:二重 拵付 肥前忠吉家は、説明を要さぬほど世界的に高く評価されている名門です。その歴史は、元亀三年(1572年)生まれの橋本新左衛門尉、すなわち初代忠吉に始まります。初代忠吉は25歳の時、新刀の祖として知られる京都の埋忠明寿に師事しました。「忠」の字は師である埋忠より授かったものです。三年の修行を経て肥前に戻った忠吉は、肥前忠吉鍛冶を興しました。以来、明治十三年(1880年)に九代忠吉が没するまで、九代にわたりその正系は受け継がれました。 本作はNTHKにより、八代肥前忠吉と鑑定された脇指です。八代忠吉は享和元年(1801年)に生まれ、橋本俊一郎と称しました。六代忠吉の娘の子にあたりますが、子がいなかった七代忠吉の養子となり、正統な後継者として家督を継ぎました。八代が十六歳の頃に六代・七代が相次いで没したため、門弟の忠行が代わって一門を支え、八代が成人するまで後見人を務めたとされています。八代忠吉と忠行の信頼関係は、天保十五年(1844年)に忠行が没するまで続きました。また、八代忠吉は藩主・鍋島直正公の命により、刀剣のみならず鉄砲や大砲の鋳造にも携わったことで知られています。

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48.28 cm
2.86 cm
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