不世出の天才鍛冶、源清麿の覇気みなぎる焼き刃、強靱な鉄鍛えを堪能出来る傑作の長尺刀です。 源清麿は、山浦内蔵助環と言い、文化十年(一八一三)、信濃国赤岩村、現長野県東御(とうみ)市で生まれました。赤岩村は、長野県北西部に位置し、真田氏発祥の地である真田町(現上田市)の隣です。文政十二年(一八二九)、兄真雄と共に上田藩工河村寿隆に入門、天保六年(一八三五)、江戸へ出て、幕臣窪田清音の庇護を受けながら精進、同十三年、長州萩へ赴任、同十五年には信州小諸へ帰郷、弘化二年(一八四五)に江戸へ戻り、以後四谷に住しました。嘉永七年(一八五四)、十一月十四日、自宅にて自刃、享年四十二歳。 同工の銘の変遷は、最初『一貫斎正行』、天保五年には師寿隆より『秀寿』の銘を授かりますが、同年のみで再び『正行』へ戻しており、弘化三年八月からは『源清麿』と銘じています。銘振りとしては、『一貫斎正行』、『山浦正行』、『一貫斎秀寿』、『信濃国正行』、『山浦内蔵助源正行』、『山浦環正行』、『源正行』、『源清麿』などが主です。 年紀の上限は、文政十三年四月、最終年紀は嘉永七年正月日。 作風は、相州伝を得意としましたが、中でも傾倒したのは志津風の作域、新々刀期の作ながら、その出来は本歌に肉薄するため、実際、磨り上げ無銘にされて、古作志津として世に出回っている作も多数あるでしょう。 本作は、大磨り上げ無銘ながら、『山浦清麿』の極めが付された貴重な一振り、寸法二尺五寸一分強、地刃健全、均整の取れた伸びやかなスタイルの優品です。 板目に杢目交じりの地鉄は、総体的に流れ心で上品に肌立ち、地沸厚く付き、地景繁く入り、互の目乱れ主体で、大互の目、小互の目、尖り風の刃を交えた刃は、刃縁荒沸付いて匂い深く明るく冴え、筋状の湯走り掛かり、刃中互の目足入り、金筋、砂流し頻りに掛かり、帽子も烈しく沸付き、先掃き掛け長く返っています。 精良且つ精強な地鉄の鍛錬には驚嘆するものがあり、高低のある互の目乱れ主体の刃は、同工の真骨頂と言える志津写しの典型、絢爛華麗で覇気に満ち溢れており、これが新々刀であることを忘れさせてしまいます。 昭和二十六年の古い登録証は、兵庫県登録の第『七九四』号、付属の外装も、刻みの綺麗な鞘で、特別保存刀装具鑑定書付き、縁は廉乗極めの赤銅獅子、赤銅鐔は吉岡風の海鼠透かし、目貫も金無垢獅子等々、江戸期の大変立派な作、外装のみでも相当な価値です。 清麿刀は、一度ご覧頂ければその凄さが分かります。見る者を魅了する驚くべき地刃の優秀さに加えて、斬れ味、耐久性も備えた究極の一振り。 刀剣史上、千年に一人と言われる不世出の天才鍛冶源清麿、世上、『四谷正宗』と称された男の会心作、これは凄い清麿です。





Yamaura Kiyomaro (shinshinto, Yotsuya, Edo) · 武蔵 · 1839-1854頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
山浦清麿は文化十年、信州小諸赤岩村に郷士信風の次男、刀工真雄の弟として生まれ、内蔵助環と称した。初め上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行、一時師より贈られた秀寿と銘したが同年のうちに正行に復している。天保六年、幕臣で兵法家として名高い窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年八月より長州萩で一年作刀、弘化二年再び江戸に戻り、同三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、説明書はその故に世に「四谷正宗」と称せられたと記し、その名声を今日虎徹と並ぶものとして、いわゆる新々刀中の第一人者であること論をまたずとする。嘉永七年、四十二歳で自刃して果てた。
彼の狙いとするところは、説明書の言葉を借りれば「相伝上位」であり、新々刀中で最も相州伝がよくあらわれた手である。見どころは刃文にある。地鉄の上に互の目乱れに小のたれを交え、足入り、沸厚く処々荒めに叢となって荒沸叢立ち、その作はまさに「覇気に満ちている」[[c:1]]。長い金筋と盛んな砂流しは在銘の両期、すなわち正行銘・清麿銘のほぼ全作に頻りにかかり、匂の房ではなく沸を本位とした刃中の働きであって、説明書はこの強い地鉄に交わる金筋・砂流しの働きを見事と称える。帽子はこれに応じて乱れ込み、尖りごころに掃きかけ、時に突き上げて先尖り、あるいは小丸となる。
その地鉄は終始変わらぬ土台である。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、時に大肌を交え、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入り、かね冴える。映りはない。これは備前写しではなく、五百年を遡って相州に通う晩年の手であり、明るさはむしろ沸の深さと匂口の冴えに宿る。鍛えが小板目につまれば地はいよいよ冴え、その成熟した刀は身幅広く先反りつき、中鋒延び、あるいは大鋒となってふくら枯れ、堂々として鋭い。
作は二つの時代と二つの調子に読まれる。初期の正行作は、正行・源正行・山浦環正行、そして「環」一字の銘に記録され、つんだ板目やや柾がかりに、丁子を交えた互の目を焼き、匂深く小沸つく、初期江戸と長州・小諸流浪の歳月を語る開かれた記録である。成熟した清麿の手は右に述べた相州伝の典型である。その中にこそ最も得意とした調子、すなわち志津がある。説明書は「志津伝は得意中の得意」[[c:2]]とし、ある刀を地刃に変化を見せる志津写しの同作中の代表作とする。この調子は彼が好んで得意とした菖蒲造・冠落造の脇指、そして短刀に集まり、小湾れ調に互の目・丁子を交え、荒沸叢になって華やかに乱れる。
清麿を同時代の新々刀工から分かつのは、まさにこの相州への遡りである。同輩が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、彼は志津三郎兼氏と相州の名匠を仰ぎ、説明書はその狙いを初期の正行の手にあって既に志津とする。地沸・地景厚く、荒沸に富み、金筋・砂流し頻りなる彼自身の地刃は、借りものの備前の模様によらず、その力強さと明るさによって彼を際立たせる。説明書はその最上の作を「同作中の白眉」とし、また別の作を評して「清麿の本領が遺憾無く発揮」[[c:3]]されたものとする。彼は四谷の一門の頭に立ち、相州復古の手を門人清人ら清麿伝を通じて後世に伝える。
収集の観点では、清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人であり、その記録もこれを裏づける。藤代の極めは最上作、刀工大鑑の評価も新々刀中で高い。国宝はなく、重要文化財もないが、その位置は現代の指定の級に拠り、特別重要刀剣二口、重要刀剣四十六口、さらに戦前の重要美術品数口に及ぶ。現存作は百余口を数え、説明書は尋常の鎬造定寸のものが比較的少なく、嘉永元年紀の大小揃いが他に例なきものであると記す。記録に残る作は確かな来歴を辿り、岩崎家とその蔵する静嘉堂文庫、大小を註文した松代藩士某、清麿の一刀を註文した後援者窪田清音、そして一口の重要刀剣が愛刀と伝える幕末の剣客中条金之助の手を経ている。その多くは伝えられて市場には出ず、特別重要刀剣・重要刀剣の清麿が世に出るのは時折、しかも最上位に限られる。私蔵の在銘作は、新々刀を集める者が出会い得る最も注目すべきものの一つであり、相州が江戸に甦った瞬間を語る証である。
清麿の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在13点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
不世出の天才鍛冶、源清麿の覇気みなぎる焼き刃、強靱な鉄鍛えを堪能出来る傑作の長尺刀です。 源清麿は、山浦内蔵助環と言い、文化十年(一八一三)、信濃国赤岩村、現長野県東御(とうみ)市で生まれました。赤岩村は、長野県北西部に位置し、真田氏発祥の地である真田町(現上田市)の隣です。文政十二年(一八二九)、兄真雄と共に上田藩工河村寿隆に入門、天保六年(一八三五)、江戸へ出て、幕臣窪田清音の庇護を受けながら精進、同十三年、長州萩へ赴任、同十五年には信州小諸へ帰郷、弘化二年(一八四五)に江戸へ戻り、以後四谷に住しました。嘉永七年(一八五四)、十一月十四日、自宅にて自刃、享年四十二歳。 同工の銘の変遷は、最初『一貫斎正行』、天保五年には師寿隆より『秀寿』の銘を授かりますが、同年のみで再び『正行』へ戻しており、弘化三年八月からは『源清麿』と銘じています。銘振りとしては、『一貫斎正行』、『山浦正行』、『一貫斎秀寿』、『信濃国正行』、『山浦内蔵助源正行』、『山浦環正行』、『源正行』、『源清麿』などが主です。 年紀の上限は、文政十三年四月、最終年紀は嘉永七年正月日。 作風は、相州伝を得意としましたが、中でも傾倒したのは志津風の作域、新々刀期の作ながら、その出来は本歌に肉薄するため、実際、磨り上げ無銘にされて、古作志津として世に出回っている作も多数あるでしょう。 本作は、大磨り上げ無銘ながら、『山浦清麿』の極めが付された貴重な一振り、寸法二尺五寸一分強、地刃健全、均整の取れた伸びやかなスタイルの優品です。 板目に杢目交じりの地鉄は、総体的に流れ心で上品に肌立ち、地沸厚く付き、地景繁く入り、互の目乱れ主体で、大互の目、小互の目、尖り風の刃を交えた刃は、刃縁荒沸付いて匂い深く明るく冴え、筋状の湯走り掛かり、刃中互の目足入り、金筋、砂流し頻りに掛かり、帽子も烈しく沸付き、先掃き掛け長く返っています。 精良且つ精強な地鉄の鍛錬には驚嘆するものがあり、高低のある互の目乱れ主体の刃は、同工の真骨頂と言える志津写しの典型、絢爛華麗で覇気に満ち溢れており、これが新々刀であることを忘れさせてしまいます。 昭和二十六年の古い登録証は、兵庫県登録の第『七九四』号、付属の外装も、刻みの綺麗な鞘で、特別保存刀装具鑑定書付き、縁は廉乗極めの赤銅獅子、赤銅鐔は吉岡風の海鼠透かし、目貫も金無垢獅子等々、江戸期の大変立派な作、外装のみでも相当な価値です。 清麿刀は、一度ご覧頂ければその凄さが分かります。見る者を魅了する驚くべき地刃の優秀さに加えて、斬れ味、耐久性も備えた究極の一振り。 刀剣史上、千年に一人と言われる不世出の天才鍛冶源清麿、世上、『四谷正宗』と称された男の会心作、これは凄い清麿です。





Yamaura Kiyomaro (shinshinto, Yotsuya, Edo) · 武蔵 · 1839-1854頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位3%
山浦清麿は文化十年、信州小諸赤岩村に郷士信風の次男、刀工真雄の弟として生まれ、内蔵助環と称した。初め上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行、一時師より贈られた秀寿と銘したが同年のうちに正行に復している。天保六年、幕臣で兵法家として名高い窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年八月より長州萩で一年作刀、弘化二年再び江戸に戻り、同三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、説明書はその故に世に「四谷正宗」と称せられたと記し、その名声を今日虎徹と並ぶものとして、いわゆる新々刀中の第一人者であること論をまたずとする。嘉永七年、四十二歳で自刃して果てた。
彼の狙いとするところは、説明書の言葉を借りれば「相伝上位」であり、新々刀中で最も相州伝がよくあらわれた手である。見どころは刃文にある。地鉄の上に互の目乱れに小のたれを交え、足入り、沸厚く処々荒めに叢となって荒沸叢立ち、その作はまさに「覇気に満ちている」[[c:1]]。長い金筋と盛んな砂流しは在銘の両期、すなわち正行銘・清麿銘のほぼ全作に頻りにかかり、匂の房ではなく沸を本位とした刃中の働きであって、説明書はこの強い地鉄に交わる金筋・砂流しの働きを見事と称える。帽子はこれに応じて乱れ込み、尖りごころに掃きかけ、時に突き上げて先尖り、あるいは小丸となる。
その地鉄は終始変わらぬ土台である。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、時に大肌を交え、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入り、かね冴える。映りはない。これは備前写しではなく、五百年を遡って相州に通う晩年の手であり、明るさはむしろ沸の深さと匂口の冴えに宿る。鍛えが小板目につまれば地はいよいよ冴え、その成熟した刀は身幅広く先反りつき、中鋒延び、あるいは大鋒となってふくら枯れ、堂々として鋭い。
作は二つの時代と二つの調子に読まれる。初期の正行作は、正行・源正行・山浦環正行、そして「環」一字の銘に記録され、つんだ板目やや柾がかりに、丁子を交えた互の目を焼き、匂深く小沸つく、初期江戸と長州・小諸流浪の歳月を語る開かれた記録である。成熟した清麿の手は右に述べた相州伝の典型である。その中にこそ最も得意とした調子、すなわち志津がある。説明書は「志津伝は得意中の得意」[[c:2]]とし、ある刀を地刃に変化を見せる志津写しの同作中の代表作とする。この調子は彼が好んで得意とした菖蒲造・冠落造の脇指、そして短刀に集まり、小湾れ調に互の目・丁子を交え、荒沸叢になって華やかに乱れる。
清麿を同時代の新々刀工から分かつのは、まさにこの相州への遡りである。同輩が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、彼は志津三郎兼氏と相州の名匠を仰ぎ、説明書はその狙いを初期の正行の手にあって既に志津とする。地沸・地景厚く、荒沸に富み、金筋・砂流し頻りなる彼自身の地刃は、借りものの備前の模様によらず、その力強さと明るさによって彼を際立たせる。説明書はその最上の作を「同作中の白眉」とし、また別の作を評して「清麿の本領が遺憾無く発揮」[[c:3]]されたものとする。彼は四谷の一門の頭に立ち、相州復古の手を門人清人ら清麿伝を通じて後世に伝える。
収集の観点では、清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人であり、その記録もこれを裏づける。藤代の極めは最上作、刀工大鑑の評価も新々刀中で高い。国宝はなく、重要文化財もないが、その位置は現代の指定の級に拠り、特別重要刀剣二口、重要刀剣四十六口、さらに戦前の重要美術品数口に及ぶ。現存作は百余口を数え、説明書は尋常の鎬造定寸のものが比較的少なく、嘉永元年紀の大小揃いが他に例なきものであると記す。記録に残る作は確かな来歴を辿り、岩崎家とその蔵する静嘉堂文庫、大小を註文した松代藩士某、清麿の一刀を註文した後援者窪田清音、そして一口の重要刀剣が愛刀と伝える幕末の剣客中条金之助の手を経ている。その多くは伝えられて市場には出ず、特別重要刀剣・重要刀剣の清麿が世に出るのは時折、しかも最上位に限られる。私蔵の在銘作は、新々刀を集める者が出会い得る最も注目すべきものの一つであり、相州が江戸に甦った瞬間を語る証である。
清麿の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在13点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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