新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
堀川国広の重要刀剣、慶長十四年作、晩年の『堀川打ち』、小野博(無鑑査)の最上研磨、『堀川国廣とその一門』所載の同工代表作です。 国廣は、享禄四年(一五三一)、日向国古屋(ふるや)の地、現在の宮崎県東諸県(ひがしもろかた)郡綾町入野(あやちょういりの)古屋に生まれ、日向伊東氏に仕え、鍛刀は父国昌に学びました。天正十年(一五八二)以降は、古屋を拠点としながら、山伏として各地を流浪、美濃国岐阜、相模国小田原、上野国足利などでも鍛刀しました。天正十八年に『信濃守』を受領、慶長四年(一五九九)頃からは京都一条堀川に定住、門下からは、末弟とされる国安を始め、出羽大掾国路、大隅掾正弘、越後守国儔、平安城弘幸、山城守国清、和泉守国貞、河内守国助等々、名だたる名工を輩出、その中で棟梁たる国廣は、『堀川物』と呼ばれる一つのジャンルを確立、新刀ながら重要文化財『山姥切国廣』を始め、重要文化財十口、重要美術品九口を数える名匠です。 京堀川に定住する以前の作は、『日州古屋打ち』、『天正打ち』と呼ばれ、末相州や末関を狙った乱れ刃が多く、定住後の『堀川打ち』、『慶長打ち』では、相州上工を狙った穏やかな刃調の作が多く見られます。 年紀作に見る活躍期は、天正四年から慶長十八年までの約四十年間、慶長十九年四月、八十四歳で没したと云います。 銘振りは、前期は『日州古屋住国廣作』、『九州日向住国廣作』などが多く、諸国流浪時は、銘文に『山伏之時作之』などと添え、後期は『国廣』、『藤原国廣』、『信濃守国廣』等が多く見られます。 本作は、平成十二年(二〇〇〇)、第四十六回の重要刀剣指定品、寸法一尺一分強、身幅広く、重ね厚めの勇壮な造り込み、『慶長十二二(年)二月(一六〇九)』の年紀から、同工晩年円熟期に於ける『堀川打ち』の優品です。 板目に杢目交じり、所々大模様にザングリと肌立つ地鉄は、区下より水影立ち、直湾れ調の刃は、刃縁やや沈み勝ちとなり、所々ほつれ、刃中金筋、砂流し掛かるなど、堀川物の典型と言える地刃の出来で、随所に同工の手癖が良く示されています。 加えて無鑑査小野博の最上研磨済み、小野博は、人間国宝小野光敬の子。名人の素晴らしい研ぎによって、地刃もすこぶる冴えています。 また本作は、平成二十六年(二〇一四)に、茨城県古河(こが)市の古河歴史博物館に於いて開催された、『堀川国広とその一門』展の図録所載品です。 付属の合口外装も、在銘の赤銅金具等を使用した立派な作です。 脇差しに傑作の多い国廣ですが、本作も晩年円熟期の代表作となる素晴らしい新刀重要です。
国広は、もと九州日向の飫肥の城主であった伊東家に仕えた武士で、同家が没落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各 地で作刀した。慶長四年以後は、京都一条堀川に定住し、多くの優れた弟子を育て、慶長十九年に歿したといわれる。彼の作風は概ね二様に 大別され、堀川定住以前の作(天正打)には、末相州や末関風のものが見られ、定住後の作(慶長打)は、それらのものと作風を異にして、 相州上工に範をとったと思われるものが多い。 この脇指は、鍛えは板目に杢・大板目ごころが交じり、肌立ってザングリとした堀川物特有の肌合に、地沸が微塵に厚くつき、地景が細か によく入っている。刃文は中直刃を焼いて、沸がよくつき、処々荒めの沸を交え、刃縁少しくほつれ、細かに金筋・砂流し等がかかるなどの 出来口を示している。幅広・寸延びで重ねが厚く、反りの殆どない平身の造込みから、建武前後(鎌倉時代最末期乃至南北朝最初期)の寸延 びの短刀姿を想わせるものがあり、上記の直刃の作柄と併せて、或は来国光あたりを国広流に再現したものであろうか。同工の作には前述の 如く、相州上工に範をとったものが多いが、その中にあって珍しい作例である。常々の此の手の作域よりも匂深で、刃中も働いており、総じ 古色の趣を醸し出している。また区下より斜めに水影が立っている状や、焼刃に荒めの沸がむらづき、匂口が沈みごころとなるなどには、 此の工の持味があらわれている。彼の写し物は、単なる模作的なものではなく、その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作するために、こ のような写し物に於ても彼の個性が表出されるのであろうか。短刀姿までも忠実に写した国広の優品で、頑健な姿も好ましく、一段と迫力を 増している。 なお慶長十四年紀は、同作中でも僅少で、脇指(平造)・短刀に数口経限するのみで、刀は未見であり、前述の作柄と併せて、国広を研究す る上で資料的にも貴重である。











国広は、もと九州日向の飫肥の城主であった伊東家に仕えた武士で、同家が没落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各 地で作刀した。慶長四年以後は、京都一条堀川に定住し、多くの優れた弟子を育て、慶長十九年に歿したといわれる。彼の作風は概ね二様に 大別され、堀川定住以前の作(天正打)には、末相州や末関風のものが見られ、定住後の作(慶長打)は、それらのものと作風を異にして、 相州上工に範をとったと思われるものが多い。 この脇指は、鍛えは板目に杢・大板目ごころが交じり、肌立ってザングリとした堀川物特有の肌合に、地沸が微塵に厚くつき、地景が細か によく入っている。刃文は中直刃を焼いて、沸がよくつき、処々荒めの沸を交え、刃縁少しくほつれ、細かに金筋・砂流し等がかかるなどの 出来口を示している。幅広・寸延びで重ねが厚く、反りの殆どない平身の造込みから、建武前後(鎌倉時代最末期乃至南北朝最初期)の寸延 びの短刀姿を想わせるものがあり、上記の直刃の作柄と併せて、或は来国光あたりを国広流に再現したものであろうか。同工の作には前述の 如く、相州上工に範をとったものが多いが、その中にあって珍しい作例である。常々の此の手の作域よりも匂深で、刃中も働いており、総じ 古色の趣を醸し出している。また区下より斜めに水影が立っている状や、焼刃に荒めの沸がむらづき、匂口が沈みごころとなるなどには、 此の工の持味があらわれている。彼の写し物は、単なる模作的なものではなく、その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作するために、こ のような写し物に於ても彼の個性が表出されるのであろうか。短刀姿までも忠実に写した国広の優品で、頑健な姿も好ましく、一段と迫力を 増している。 なお慶長十四年紀は、同作中でも僅少で、脇指(平造)・短刀に数口経限するのみで、刀は未見であり、前述の作柄と併せて、国広を研究す る上で資料的にも貴重である。
Horikawa (Yamashiro) · 山城 · 1573-1613頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位1%
現在5点販売中
現存最古の紀年作は天正四年(一五七六)二月の年紀を有する長寸の刀である。田中国広はもと九州日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴しつつ鍛刀の技を磨き、慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住、多くの俊秀を育てて慶長十九年(一六一四)に歿したと伝える。銘鑑に実忠子とも国昌子ともいう。説明書は「明寿とともに新刀の創始者と称えられる」[[c:1]]と記し、技術のみならず門人育成の点でも「新刀期の第一人者」[[c:3]]と位置づける。そして半世紀にわたり、ほぼ同文の定型句が全説明を貫く。「彼の作風は概ね二様に大別され」[[c:2]]、堀川定住以前の天正打には末相州・末関風のものがみられ、定住後の慶長打は相州上工に範をとる、と。
見どころはまず地鉄である。板目に杢・大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした堀川物特有の肌合」[[c:4]]を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際よりは斜めに水影が立ち、特重の一口はこれを「手癖である水影」と明記する。匂口にも癖がある。荒めの沸がむらにつき、匂幅に広狭の変化を見せ、「匂口が沈みごころとなるなどの態は、国広の手くせである」[[c:6]]という。刃区を深く焼き込み、物打辺の焼幅が広くなるのも特色である。さらに指定作はほぼことごとく在銘で、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘を主体に、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領・住銘の長銘を交える。茎には「国広のくせとして茎の孔が下であるところから、後の世、上に別に孔をあけた」[[c:16]]と注意される癖も記される。
慶長打の理想は明言される。「その理想としたところは、相州伝の復活にあった」[[c:8]]のであり、「特に志津に対してその傾向が強い」[[c:9]]。刀は身幅広く元先の幅差少なく反り浅く鋒が延び、「恰も南北朝期の大太刀を大磨上げにした刀姿」[[c:10]]と評され、特重の一口は大磨上無銘の志津の直写しと読まれる。ザングリとした鍛えの上に浅い小のたれに互の目・尖り刃を交えた刃を焼き、沸厚く、金筋・砂流しかかり、処々湯走りを見せ、帽子は直ぐ調または浅く乱れ込んで小丸・大丸、先掃きかける。傍らに三ツ棟幅広寸延びの平造脇指が桃山の時代色を映して立ち、写しの狙いは志津を越えて広がる。彫物とあわせて貞宗を髣髴とさせる特重の一口があり、左文字の風を積極的に取り入れて「左文字宛ら」と評される作も見える。
流浪期の天正打は一見別人の作である。先反りの強い平造脇指・内反り短刀に互の目乱れ、尖り刃・矢筈風・角がかった刃を交え、飛焼・棟焼かかって皆焼風となり、匂口は後年より明るく、大黒天・毘沙門天など武神の彫物を力強い鏨で施す。遍歴の足跡は銘文そのものに残る。日州古屋打、「山伏時作」の刀、彼岸の年紀、天正十八年(一五九〇)の足利学校打、美濃大道との岐阜での合作、同十九年の在京打。信濃守はすでに天正打の銘に現れ、武士としての称と推される。彫物は明寿と並ぶ双璧で力強さはむしろ優るともされ、本間順治は日向・足利学校・美濃・堀川の各期一貫した作風を挙げて自彫と断ずる。対極には静かな一類が立つ。「国広には稀れに直刃があり」[[c:12]]、新藤五・行光・来国光あたりを狙ったと読まれ、鍛えは常より細かく、匂口は締まって明るい。その写しは「その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作する」[[c:13]]ものと評され、写し物の中にも肌と水影と匂口に手癖が現れる。
堀川一門からは出羽大掾国路・国安・大隅掾正弘・越後守国儔・親国貞らが輩出し、その作風は国路の小模様の刃や親国貞の彫物に続くと説かれる。最晩年は工房の手と読まれる。年紀は慶長十五年(一六一〇)が最も多く、伝えに従えばその頃八十九歳にあたり、「殆んど弟子達の代作であり、代銘と考えるより以外はない」[[c:14]]とされる。ただし師の監督は厳重で出来の低下はなく、偽物とは全く異なると明記される。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は一四八口に上り、うち在銘一四七口、無銘は一口もない。残る一口も大振り二字銘の在銘で、寛文六年(一六六六)山野加右衛門永久の金象嵌截断銘を併せ刻む稀有の例である。重要文化財一二口は市場の外に置かれた重宝であり、戦前の重要美術品も一二口を数え、特別重要刀剣九口・重要刀剣一一三口、両指定で一二二口に達する。慶長二年(一五九七)の幡枝八幡宮奉納太刀は伝後水尾天皇御寄進の糸巻太刀拵を具して今も同社に伝わる。伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木長門守忠澄、土佐山内家、大島津家(「光久公御用」の鞘書)、豊臣秀頼、皇室に及び、細川幽斎二男長岡玄蕃頭興元や鑑識家沢田道円の注文打も現存する。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要・重要の両指定であるが、それとて容易には市場に現れない。現れた一口は、ほぼ必ず在銘であり、新刀がその鍛冶場に始まった工の銘を茎に留めている。
國廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 山城
現在73点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。

堀川国広の重要刀剣、慶長十四年作、晩年の『堀川打ち』、小野博(無鑑査)の最上研磨、『堀川国廣とその一門』所載の同工代表作です。 国廣は、享禄四年(一五三一)、日向国古屋(ふるや)の地、現在の宮崎県東諸県(ひがしもろかた)郡綾町入野(あやちょういりの)古屋に生まれ、日向伊東氏に仕え、鍛刀は父国昌に学びました。天正十年(一五八二)以降は、古屋を拠点としながら、山伏として各地を流浪、美濃国岐阜、相模国小田原、上野国足利などでも鍛刀しました。天正十八年に『信濃守』を受領、慶長四年(一五九九)頃からは京都一条堀川に定住、門下からは、末弟とされる国安を始め、出羽大掾国路、大隅掾正弘、越後守国儔、平安城弘幸、山城守国清、和泉守国貞、河内守国助等々、名だたる名工を輩出、その中で棟梁たる国廣は、『堀川物』と呼ばれる一つのジャンルを確立、新刀ながら重要文化財『山姥切国廣』を始め、重要文化財十口、重要美術品九口を数える名匠です。 京堀川に定住する以前の作は、『日州古屋打ち』、『天正打ち』と呼ばれ、末相州や末関を狙った乱れ刃が多く、定住後の『堀川打ち』、『慶長打ち』では、相州上工を狙った穏やかな刃調の作が多く見られます。 年紀作に見る活躍期は、天正四年から慶長十八年までの約四十年間、慶長十九年四月、八十四歳で没したと云います。 銘振りは、前期は『日州古屋住国廣作』、『九州日向住国廣作』などが多く、諸国流浪時は、銘文に『山伏之時作之』などと添え、後期は『国廣』、『藤原国廣』、『信濃守国廣』等が多く見られます。 本作は、平成十二年(二〇〇〇)、第四十六回の重要刀剣指定品、寸法一尺一分強、身幅広く、重ね厚めの勇壮な造り込み、『慶長十二二(年)二月(一六〇九)』の年紀から、同工晩年円熟期に於ける『堀川打ち』の優品です。 板目に杢目交じり、所々大模様にザングリと肌立つ地鉄は、区下より水影立ち、直湾れ調の刃は、刃縁やや沈み勝ちとなり、所々ほつれ、刃中金筋、砂流し掛かるなど、堀川物の典型と言える地刃の出来で、随所に同工の手癖が良く示されています。 加えて無鑑査小野博の最上研磨済み、小野博は、人間国宝小野光敬の子。名人の素晴らしい研ぎによって、地刃もすこぶる冴えています。 また本作は、平成二十六年(二〇一四)に、茨城県古河(こが)市の古河歴史博物館に於いて開催された、『堀川国広とその一門』展の図録所載品です。 付属の合口外装も、在銘の赤銅金具等を使用した立派な作です。 脇差しに傑作の多い国廣ですが、本作も晩年円熟期の代表作となる素晴らしい新刀重要です。
国広は、もと九州日向の飫肥の城主であった伊東家に仕えた武士で、同家が没落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各 地で作刀した。慶長四年以後は、京都一条堀川に定住し、多くの優れた弟子を育て、慶長十九年に歿したといわれる。彼の作風は概ね二様に 大別され、堀川定住以前の作(天正打)には、末相州や末関風のものが見られ、定住後の作(慶長打)は、それらのものと作風を異にして、 相州上工に範をとったと思われるものが多い。 この脇指は、鍛えは板目に杢・大板目ごころが交じり、肌立ってザングリとした堀川物特有の肌合に、地沸が微塵に厚くつき、地景が細か によく入っている。刃文は中直刃を焼いて、沸がよくつき、処々荒めの沸を交え、刃縁少しくほつれ、細かに金筋・砂流し等がかかるなどの 出来口を示している。幅広・寸延びで重ねが厚く、反りの殆どない平身の造込みから、建武前後(鎌倉時代最末期乃至南北朝最初期)の寸延 びの短刀姿を想わせるものがあり、上記の直刃の作柄と併せて、或は来国光あたりを国広流に再現したものであろうか。同工の作には前述の 如く、相州上工に範をとったものが多いが、その中にあって珍しい作例である。常々の此の手の作域よりも匂深で、刃中も働いており、総じ 古色の趣を醸し出している。また区下より斜めに水影が立っている状や、焼刃に荒めの沸がむらづき、匂口が沈みごころとなるなどには、 此の工の持味があらわれている。彼の写し物は、単なる模作的なものではなく、その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作するために、こ のような写し物に於ても彼の個性が表出されるのであろうか。短刀姿までも忠実に写した国広の優品で、頑健な姿も好ましく、一段と迫力を 増している。 なお慶長十四年紀は、同作中でも僅少で、脇指(平造)・短刀に数口経限するのみで、刀は未見であり、前述の作柄と併せて、国広を研究す る上で資料的にも貴重である。











国広は、もと九州日向の飫肥の城主であった伊東家に仕えた武士で、同家が没落したのち諸国を遍歴しつつ鍛刀の技術を磨き、その間各 地で作刀した。慶長四年以後は、京都一条堀川に定住し、多くの優れた弟子を育て、慶長十九年に歿したといわれる。彼の作風は概ね二様に 大別され、堀川定住以前の作(天正打)には、末相州や末関風のものが見られ、定住後の作(慶長打)は、それらのものと作風を異にして、 相州上工に範をとったと思われるものが多い。 この脇指は、鍛えは板目に杢・大板目ごころが交じり、肌立ってザングリとした堀川物特有の肌合に、地沸が微塵に厚くつき、地景が細か によく入っている。刃文は中直刃を焼いて、沸がよくつき、処々荒めの沸を交え、刃縁少しくほつれ、細かに金筋・砂流し等がかかるなどの 出来口を示している。幅広・寸延びで重ねが厚く、反りの殆どない平身の造込みから、建武前後(鎌倉時代最末期乃至南北朝最初期)の寸延 びの短刀姿を想わせるものがあり、上記の直刃の作柄と併せて、或は来国光あたりを国広流に再現したものであろうか。同工の作には前述の 如く、相州上工に範をとったものが多いが、その中にあって珍しい作例である。常々の此の手の作域よりも匂深で、刃中も働いており、総じ 古色の趣を醸し出している。また区下より斜めに水影が立っている状や、焼刃に荒めの沸がむらづき、匂口が沈みごころとなるなどには、 此の工の持味があらわれている。彼の写し物は、単なる模作的なものではなく、その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作するために、こ のような写し物に於ても彼の個性が表出されるのであろうか。短刀姿までも忠実に写した国広の優品で、頑健な姿も好ましく、一段と迫力を 増している。 なお慶長十四年紀は、同作中でも僅少で、脇指(平造)・短刀に数口経限するのみで、刀は未見であり、前述の作柄と併せて、国広を研究す る上で資料的にも貴重である。
Horikawa (Yamashiro) · 山城 · 1573-1613頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位1%
現在5点販売中
現存最古の紀年作は天正四年(一五七六)二月の年紀を有する長寸の刀である。田中国広はもと九州日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴しつつ鍛刀の技を磨き、慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住、多くの俊秀を育てて慶長十九年(一六一四)に歿したと伝える。銘鑑に実忠子とも国昌子ともいう。説明書は「明寿とともに新刀の創始者と称えられる」[[c:1]]と記し、技術のみならず門人育成の点でも「新刀期の第一人者」[[c:3]]と位置づける。そして半世紀にわたり、ほぼ同文の定型句が全説明を貫く。「彼の作風は概ね二様に大別され」[[c:2]]、堀川定住以前の天正打には末相州・末関風のものがみられ、定住後の慶長打は相州上工に範をとる、と。
見どころはまず地鉄である。板目に杢・大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした堀川物特有の肌合」[[c:4]]を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際よりは斜めに水影が立ち、特重の一口はこれを「手癖である水影」と明記する。匂口にも癖がある。荒めの沸がむらにつき、匂幅に広狭の変化を見せ、「匂口が沈みごころとなるなどの態は、国広の手くせである」[[c:6]]という。刃区を深く焼き込み、物打辺の焼幅が広くなるのも特色である。さらに指定作はほぼことごとく在銘で、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘を主体に、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領・住銘の長銘を交える。茎には「国広のくせとして茎の孔が下であるところから、後の世、上に別に孔をあけた」[[c:16]]と注意される癖も記される。
慶長打の理想は明言される。「その理想としたところは、相州伝の復活にあった」[[c:8]]のであり、「特に志津に対してその傾向が強い」[[c:9]]。刀は身幅広く元先の幅差少なく反り浅く鋒が延び、「恰も南北朝期の大太刀を大磨上げにした刀姿」[[c:10]]と評され、特重の一口は大磨上無銘の志津の直写しと読まれる。ザングリとした鍛えの上に浅い小のたれに互の目・尖り刃を交えた刃を焼き、沸厚く、金筋・砂流しかかり、処々湯走りを見せ、帽子は直ぐ調または浅く乱れ込んで小丸・大丸、先掃きかける。傍らに三ツ棟幅広寸延びの平造脇指が桃山の時代色を映して立ち、写しの狙いは志津を越えて広がる。彫物とあわせて貞宗を髣髴とさせる特重の一口があり、左文字の風を積極的に取り入れて「左文字宛ら」と評される作も見える。
流浪期の天正打は一見別人の作である。先反りの強い平造脇指・内反り短刀に互の目乱れ、尖り刃・矢筈風・角がかった刃を交え、飛焼・棟焼かかって皆焼風となり、匂口は後年より明るく、大黒天・毘沙門天など武神の彫物を力強い鏨で施す。遍歴の足跡は銘文そのものに残る。日州古屋打、「山伏時作」の刀、彼岸の年紀、天正十八年(一五九〇)の足利学校打、美濃大道との岐阜での合作、同十九年の在京打。信濃守はすでに天正打の銘に現れ、武士としての称と推される。彫物は明寿と並ぶ双璧で力強さはむしろ優るともされ、本間順治は日向・足利学校・美濃・堀川の各期一貫した作風を挙げて自彫と断ずる。対極には静かな一類が立つ。「国広には稀れに直刃があり」[[c:12]]、新藤五・行光・来国光あたりを狙ったと読まれ、鍛えは常より細かく、匂口は締まって明るい。その写しは「その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作する」[[c:13]]ものと評され、写し物の中にも肌と水影と匂口に手癖が現れる。
堀川一門からは出羽大掾国路・国安・大隅掾正弘・越後守国儔・親国貞らが輩出し、その作風は国路の小模様の刃や親国貞の彫物に続くと説かれる。最晩年は工房の手と読まれる。年紀は慶長十五年(一六一〇)が最も多く、伝えに従えばその頃八十九歳にあたり、「殆んど弟子達の代作であり、代銘と考えるより以外はない」[[c:14]]とされる。ただし師の監督は厳重で出来の低下はなく、偽物とは全く異なると明記される。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は一四八口に上り、うち在銘一四七口、無銘は一口もない。残る一口も大振り二字銘の在銘で、寛文六年(一六六六)山野加右衛門永久の金象嵌截断銘を併せ刻む稀有の例である。重要文化財一二口は市場の外に置かれた重宝であり、戦前の重要美術品も一二口を数え、特別重要刀剣九口・重要刀剣一一三口、両指定で一二二口に達する。慶長二年(一五九七)の幡枝八幡宮奉納太刀は伝後水尾天皇御寄進の糸巻太刀拵を具して今も同社に伝わる。伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木長門守忠澄、土佐山内家、大島津家(「光久公御用」の鞘書)、豊臣秀頼、皇室に及び、細川幽斎二男長岡玄蕃頭興元や鑑識家沢田道円の注文打も現存する。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要・重要の両指定であるが、それとて容易には市場に現れない。現れた一口は、ほぼ必ず在銘であり、新刀がその鍛冶場に始まった工の銘を茎に留めている。
國廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 山城
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堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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