説明

(山姥切国廣として刀剣乱舞でも有名) 奇跡が起こったと言っても過言でない名短刀が出ました。新刀の祖と尊敬の念を持って語られる堀川国廣の作品は有名でありながら現存作見る事は国立博物館等でしか無く重要文化財に11口、重要美術品に12口が指定される新刀期の最高の名工です。本短刀はついに出現したと言っても良い位の貴重な短刀です。堀川国廣の銘ぶりから二字銘で慶長14年頃(1609年)(416年前)の作品です。時は2代将軍徳川秀忠が征夷大将軍を拝命して4年後、名古屋城が完成する1年前の貴重な作品です。堀川国廣は元は武士で室町時代天正初年(1573年)(452年前)44歳の頃より天正17年61歳まで日州古屋をはじめ九州各地を放浪して鍛刀し、天正18年関東野州(栃木県)足利学校で鍛刀、豊臣秀吉により天正18年小田原北条氏が滅亡させられ同時に長尾氏も滅亡した為に主家を失い天正19年(1591年)(434年前)63歳で上京、その後再び諸国を流浪し慶長4年(1599年)(426年前)70歳で京に定住します。出羽大掾国路、堀川国安、越後守国儔,大隅掾正弘、阿波守在吉、平安城弘幸、和泉守国貞、河内守藤原国助、等々の多くの名工を輩出しその一門が皆上手な為に国廣は新刀の祖として尊敬されています。本短刀は身幅広く平造、三ツ棟、反り浅く付き例の水景がかすかに立ち、地金は小板目肌詰まってザングリとして地沸つき、地景が細かく良く入り、彫は表、梵字に護摩ばし、裏は梵字に腰樋、刃紋は直刃調の土取りであるが焼き込んでおのずから浅くのたれ、匂い深くよく沸づき帽子丸く返るが一段と沸良く付いて刃紋は地味でありますが鍛えが光り国廣作品の中でも出色の出来と鑑刀日々抄で本間薫山先生が激賞された国廣の名短刀です。堀川国廣は新刀の祖として有名ですが京都の堀川定住が70歳という当時としては素晴らしく高齢の為に作品自体が極端に少なく本短刀は貴重な幻の名短刀です。後藤殷乗作の三所物の付いた島津家伝来と伝える豪華な短刀拵えが一層本国廣の短刀に華を添えています。 この度古いお数寄者様から自分も年を取ったので大切にしていただける方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に特別価格にてご提供いたします。是非お楽しみ下さいませ。

国廣(堀川国廣)(新刀の祖)(薩摩島津家伝来)(鑑刀日々抄続所載)(かえってきた堀川国廣展古河歴史博物館所載)(重要刀剣) Kunihiro

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仕様

長さ

27.9 cm

反り

0.3 cm

元幅

2.77 cm

先幅

1.71 cm

作者について

Horikawa Kunihiro國廣

12 重要文化財12 重要美術品2 御物9 特別重要刀剣113 重要刀剣

現存最古の紀年作は天正四年(一五七六)二月の年紀を有する長寸の刀である。田中国広はもと九州日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴しつつ鍛刀の技を磨き、慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住、多くの俊秀を育てて慶長十九年(一六一四)に歿したと伝える。銘鑑に実忠子とも国昌子ともいう。説明書は「明寿とともに新刀の創始者と称えられる」と記し、技術のみならず門人育成の点でも「新刀期の第一人者」と位置づける。そして半世紀にわたり、ほぼ同文の定型句が全説明を貫く。「彼の作風は概ね二様に大別され」、堀川定住以前の天正打には末相州・末関風のものがみられ、定住後の慶長打は相州上工に範をとる、と。 見どころはまず地鉄である。板目に杢・大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした堀川物特有の肌合」を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際よりは斜めに水影が立ち、特重の一口はこれを「手癖である水影」と明記する。匂口にも癖がある。荒めの沸がむらにつき、匂幅に広狭の変化を見せ、「匂口が沈みごころとなるなどの態は、国広の手くせである」という。刃区を深く焼き込み、物打辺の焼幅が広くなるのも特色である。さらに指定作はほぼことごとく在銘で、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘を主体に、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領・住銘の長銘を交える。茎には「国広のくせとして茎の孔が下であるところから、後の世、上に別に孔をあけた」と注意される癖も記される。 慶長打の理想は明言される。「その理想としたところは、相州伝の復活にあった」のであり、「特に志津に対してその傾向が強い」。刀は身幅広く元先の幅差少なく反り浅く鋒が延び、「恰も南北朝期の大太刀を大磨上げにした刀姿」と評され、特重の一口は大磨上無銘の志津の直写しと読まれる。ザングリとした鍛えの上に浅い小のたれに互の目・尖り刃を交えた刃を焼き、沸厚く、金筋・砂流しかかり、処々湯走りを見せ、帽子は直ぐ調または浅く乱れ込んで小丸・大丸、先掃きかける。傍らに三ツ棟幅広寸延びの平造脇指が桃山の時代色を映して立ち、写しの狙いは志津を越えて広がる。彫物とあわせて貞宗を髣髴とさせる特重の一口があり、左文字の風を積極的に取り入れて「左文字宛ら」と評される作も見える。 流浪期の天正打は一見別人の作である。先反りの強い平造脇指・内反り短刀に互の目乱れ、尖り刃・矢筈風・角がかった刃を交え、飛焼・棟焼かかって皆焼風となり、匂口は後年より明るく、大黒天・毘沙門天など武神の彫物を力強い鏨で施す。遍歴の足跡は銘文そのものに残る。日州古屋打、「山伏時作」の刀、彼岸の年紀、天正十八年(一五九〇)の足利学校打、美濃大道との岐阜での合作、同十九年の在京打。信濃守はすでに天正打の銘に現れ、武士としての称と推される。彫物は明寿と並ぶ双璧で力強さはむしろ優るともされ、本間順治は日向・足利学校・美濃・堀川の各期一貫した作風を挙げて自彫と断ずる。対極には静かな一類が立つ。「国広には稀れに直刃があり」、新藤五・行光・来国光あたりを狙ったと読まれ、鍛えは常より細かく、匂口は締まって明るい。その写しは「その対象物をよく咀嚼し、技巧を弄せず創作する」ものと評され、写し物の中にも肌と水影と匂口に手癖が現れる。 堀川一門からは出羽大掾国路・国安・大隅掾正弘・越後守国儔・親国貞らが輩出し、その作風は国路の小模様の刃や親国貞の彫物に続くと説かれる。最晩年は工房の手と読まれる。年紀は慶長十五年(一六一〇)が最も多く、伝えに従えばその頃八十九歳にあたり、「殆んど弟子達の代作であり、代銘と考えるより以外はない」とされる。ただし師の監督は厳重で出来の低下はなく、偽物とは全く異なると明記される。 藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は一四八口に上り、うち在銘一四七口、無銘は一口もない。残る一口も大振り二字銘の在銘で、寛文六年(一六六六)山野加右衛門永久の金象嵌截断銘を併せ刻む稀有の例である。重要文化財一二口は市場の外に置かれた重宝であり、戦前の重要美術品も一二口を数え、特別重要刀剣九口・重要刀剣一一三口、両指定で一二二口に達する。慶長二年(一五九七)の幡枝八幡宮奉納太刀は伝後水尾天皇御寄進の糸巻太刀拵を具して今も同社に伝わる。伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木長門守忠澄、土佐山内家、大島津家(「光久公御用」の鞘書)、豊臣秀頼、皇室に及び、細川幽斎二男長岡玄蕃頭興元や鑑識家沢田道円の注文打も現存する。蒐集家が現実に出会い得るのは特別重要・重要の両指定であるが、それとて容易には市場に現れない。現れた一口は、ほぼ必ず在銘であり、新刀がその鍛冶場に始まった工の銘を茎に留めている。

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