1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
左行秀の重要刀剣、同工大成期に於ける代表作、『左行秀と固山宗次その一類(片岡銀作著)』及び『寒山刀剣講座(第三巻)』並びに『昭和刀剣名物帳』所載品、加えて令和六年度(二〇二四)、『現代刀職展』に於ける刀剣研磨鎬造り部門で、千葉賞(特賞)を受賞した名品です。 行秀は、文化十年、伊藤又兵衛盛重の嫡子として、筑前国上座(じょうざ)郡朝倉星丸の里、現在の福岡県朝倉市杷木(はき)星丸に生まれました。筑前左文字三十九代目と称し、その旨を刻銘した作も多く見ます。豊永久兵衛と称し、東虎とも号しました。天保初年に出府し、細川正義門人の清水久義に鍛刀を学び、弘化三年、土佐藩工関田真平勝廣の勧めにより土佐へ下り、安政二年十月には土佐藩工となります。万延元年の終わりから文久二年の初め頃までの間に、再度江戸へ戻り、深川砂村の土佐藩邸にて鍛刀しましたが、慶応三年五月、板垣退助との不和が元で、同年夏に土佐へ帰り、晩年は嫡子幾馬と横浜で余生を過ごしました。年紀作に見る活躍期は、天保十一年から明治三年まで、同二十年、七十五歳で没。 作風は、初期は丁子乱れ風の作もありますが、土佐へ下った弘化三年以降は、広直刃調、湾れ調の刃取りに、刃中は互の目足入るもの、沸崩れるものなどが見られるようになり、それまでとは別人とも思えるような作風に変化、刃縁の沸匂いの深み、明るさは、同工ならではと言えます。こういった作風は、郷義弘、井上真改、長曽祢虎徹らが得意としたもので、同工もこれらに私淑したものと考えられます。 銘は、最初『豊永行秀』、嘉永初め頃から『左行秀』、慶応末年頃からは『豊永東虎行秀』などと、『東虎』を添えた銘振りも見られます。 また嘉永五~六年の僅かな期間に限り、銘に花押を添えた作が数振りだけ見られ、資料的にも貴重なものとされます。 本作は、昭和四十九年(一九七四)、第二十二回の重要刀剣に指定された名品、嘉永六年、同工四十一歳の作です。 前述したように、花押を添えた銘振りは、嘉永五~六年の僅かな期間にしか見られないもので、大変貴重です。 寸法二尺四寸六分弱、切っ先鋭角に延び、反り深め、身幅、重ねのガシッとした堂々たる姿、地刃すこぶる健全、手持ちズシンときます。 柾目肌が判然と流れる精良な地鉄は、総体的に良く詰み、地沸微塵に厚く付き、細かな地景繁く入り、飛び焼き、湯走り掛かり、互の目乱れ主体の刃は、湾れ、箱掛かった刃、大互の目、小互の目交じり、刃縁小沸良く付いて匂い深く明るく冴え渡り、刃中足、葉入り、金筋、砂流しが掛かっています。 この頃の作は、前述したように、匂い深い広直刃調の刃に、沸足入る出来が多いですが、本作は特に烈しく乱れて覇気溢れる出来映え、加えて、研ぎも素晴らしいので更に良く見えます。 研ぎは玉置城二氏によるもので、令和六年度(二〇二四)、『現代刀職展』の刀剣研磨鎬造り部門に於いて、千葉賞(特賞)を受賞しています。 玉置氏は、京都市左京区に、『玉置美術刀剣研磨処』という工房を構えており、その高い研磨及び修復技術に加えて、類い稀なる鑑識眼も兼備、次の無鑑査候補筆頭にその名が挙がる名人です。その高い評判故に、研磨予約殺到中、現在は新規予約出来ません。 本作は、『左行秀と固山宗次その一類(片岡銀作著)』及び『寒山刀剣講座(第三巻)』並びに『昭和刀剣名物帳(村上孝介著)』所載品、また所持者の足達正達が、土佐藩士で勤王烈士(天皇への忠誠を誓い、命を懸けて尽くした人物)であったことから、村上孝介(剣掃)先生が、『足達行秀』の号を付しています。 図譜にも記載があるように、付属の青貝微塵塗打刀拵も大変立派、四分一の鐔、縁頭は、三国志図で浜野良直在銘正真作、これも大変良く出来おり、拵え専用の銅に金着せハバキも付いています。 同工の重要美術品指定品にも、同じ嘉永六年二月日の作があるように、四十代を迎えたこの時期は、同工最良期と鑑せられ、心技体の充実振りが作品からも伝わってきます。 幕末期、勤王の雄藩であった土佐藩、その藩主山内容堂が、行秀の刀を『今正宗』と絶賛したことから、土佐藩士や土佐出身の志士達からの注文打ちが増え、中には坂本龍馬の実兄、坂本権平の名も見ます。また、その雄壮な姿から、『土佐の長刀』とも呼ばれた左行秀、本作もその名に相応しい名品、これはお薦めです。 こちらの商品の価格はお電話またはメールにてお問い合わせ下さい 商品番号:V-2169 刀(太刀銘)左行秀(花押)嘉永六年二月足達正達佩之 青貝微塵塗打刀拵 第二十二回重要刀剣指定 寒山先生鞘書『左行秀と固山宗次その一類』『寒山刀剣講座』『昭和刀剣名物帳』『現代刀職展』刀剣研磨鎬造部門千葉賞
左行秀は豊永久兵衛と云い、自ら筑前左文字の末孫と称し、江戸に出て清水久義の門に学び出藍の誉れが高い。弘化 三年、土佐山内家の藩工となり土佐に移り、更に文久二年には江戸砂村の土佐藩邸に移った。維新後は再び土佐に帰り、 明治十八年七十四才で歿した。その作風は大方井上真改に私淑したと思われるような、旬の極めて深い直刃に沸足を交じ えたものであるが、中にはこの刀の如くのたれに大互の目交じりの出来もある。同作中の優品で、花押を添えているのも 面白い。 なおこの刀には青貝微塵打刀拵が附属している。








Sa Yukihide (self-styled Chikuzen Samonji), Tosa-domain shinshinto · 筑前 · 1813-1887頃
藤代 Jo-jo saku
現在3点販売中
左行秀は文化十年(一八一三)、筑前国上座郡朝倉星丸の里に、伊藤又兵衛盛重の嫡子として生まれ、豊永久兵衛と称し、のちに東虎と号した。銘の頭に「左」の字を冠し、自ら筑前左文字の後裔、作によっては三十九代目と称したが、説明書はこの系譜の主張を斥ける。ある年紀のある刀について、本工は「三十九代の孫と称しているが当らない」[[c:1]]と記すのである。記録に確かなのはむしろ幕末の経歴である。天保初年江戸に上り、細川正義門の清水久義に鍛刀を学んで出藍の誉れを得、弘化三年(一八四六)三十四歳の時、土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐に下り、安政二年(一八五五)山内家の抱工となって、土佐と江戸深川砂村の藩邸の両地に鍛刀し、明治三年(一八七〇)に作刀を終えた。説明書は本工を「新々刀工中の名工の一人である」[[c:2]]とする。
本工の典型は、井上真改に私淑した広直刃で、説明書がその本領とする手である。これを豪壮な新々刀の体配に焼く。身幅広く元先の幅差開かず、重ね厚く手持ち重く、反り浅く大鋒あるいは中鋒の延びごころとなり、茎は生ぶで太鏨の長銘を切る。よくつんだ小板目に、浅くのたれごころを帯び互の目を盛んに交えた広直刃を焼き、匂口最も深く、小沸厚くよくつき、刃縁に頻りに沸ほつれ、足入り、砂流し・金筋がかかって、総じて明るく冴える。帽子は直ぐに小丸、先掃きかけて長く、時に深く返る。嘉永二年(一八四九)紀の特別重要刀剣はこの型の極致を示し、互の目を交えた広直刃の匂口が一際深い。
地鉄は両様の手に通じて変わらぬところである。よくつんだ小板目、時に柾がかって流れる板目に、地沸厚くつき地景頻りに入り、説明書がしばしば明るく冴えると評するかねで、時に無地風に締まる。これは本工が理想とした相州伝に発する地鉄であって備前の映りではなく、説明書は刃文の如何を問わず沸よくつき匂口最も深く、地刃の冴えると記す。嘉永六年(一八五三)紀の刀には地刃ともに冴えた働きが述べられ、別の作では匂口が最も深く明るく冴えるとされる。
広直刃と併せて説明書はもう一様を挙げる。時にのたれを主調とし丁子・大互の目を交えた、直刃より華やかな互の目乱れである。同じ新々刀の造込みに、足太く長く入り、匂深く、沸厚く時に荒め、砂流し・金筋を交え、帽子は乱れ込んで尖り、あるいは小丸に掃きかけて返る。下地の鍛えはよくつんだ小板目から整った柾目まで幅がある。中には相州伝の写し、志津写しもあり、南紀重国を想わせるものもある。初期の作風は細川流の備前伝、匂口の締った丁子乱であったものが、のちに自他ともに認める相州伝へ転じた。銘も数様に変わり、時に花押を添え、晩年の作には豊永東虎の七字銘を切る。
本工を広い新々刀復古のうちで分かつのは、その私淑の対象と、そこから引き出した冴えである。同時代の多くが中世の華やかな備前丁子を再興したのに対し、本工の理想は説明書の言うように「相州伝を理想とし」[[c:3]]、とりわけ「井上真改に私淑した」[[c:4]]作に結実した。地景の入った地に焼いた明るく匂の深い直刃は、大坂真改の系統を幕末に承けたものと読まれ、説明書はさらに踏みこんで、ある嘉永六年紀の刀について「地刃の冴えは新々刀中第一である」[[c:5]]と言い切る。刃文の形そのもの以上に、この冴えこそ本工の手のしるしである。
収集の観点では、行秀はほぼ例外なく在銘・年紀のある、確かに知り得る名である。藤代の極めは上々作、その記録は特別重要刀剣二口、戦前の重要美術品二口、重要刀剣に多くを数え、特別重要刀剣・重要刀剣の級を併せて六十三口に及ぶが、国宝・重要文化財はない。説明書が戒めるとおり本工の名には偽物が極めて多く、それゆえ確かな年紀銘は標本として貴重とされ、また鍛刀地や用いた餅鉄をまで記した添銘は、それ自体が資料として重んじられる。その作は来歴の確かな旧蔵に伝わり、五台山の別墅で藩工の誇りを以て一世一代の作を鍛えた土佐山内家をはじめ、稲田・小倉・越智・高垣の各家など所在の知られるものがある。多くは商われずに守られているが、鎌倉の大名物のように手の届かぬ名ではない。出来のよい在銘・年紀の行秀は時に市場に現れ、日本刀最後の時代の健全で明るい証となっている。
行秀の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 筑前
現在4点販売中
左行秀は、伊藤又兵衛盛重の嫡子として文化十年、筑前国上座郡朝倉星丸の里に生まれた工で、自ら筑前左文字三十九代目を以て任じ、作刀にもその旨を刻銘している。天保初年に出府して細川正義門人清水久義に鍛刀の技を学び、弘化三年、三十四歳の時に土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐へ下った。安政二年十月に土佐藩工となり、万延元年の終りから文久二年の初め頃には再び江戸に上って深川砂村の土佐藩邸に居所を構えて作刀したが、慶応三年五月、板垣退助との不和がもとで同年夏に土佐へ帰り、以後は「東虎」と銘している。作刀は明治三年で終り、明治二十年に七十五歳で歿するまで嫡子幾馬と横浜で暮らした。筑前の出自を背景に左派を称し、十九世紀中頃の江戸と土佐の両地において、説示が地刃の随所に指摘するとおり相州伝復興の作域を展開した工である。 作風は、身幅が広く重ねが厚く、手持ちのずっしりと重い、いかにも新々刀然とした豪壮な造込みを基調とし、大鋒に結ぶ姿に幕末の時代色を顕著に示す。鍛えは小板目肌がよくつみ、杢・流れ肌を交え、処々柾がかる肌合を交える例もあって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は彼の最も得意とする中直刃ないし広直刃を基調に浅くのたれごころを帯び、互の目・小互の目が交じり、匂口が一段と深く、沸が厚く強くつき、刃縁に頻りに沸ほつれを生じ、金筋・砂流しがかかって匂口の明るく冴える点に特色がある。互の目主調に乱れた覇気の横溢する出来や、二重・三重刃風を呈して相州上工を狙った烈しい平造脇指など、常の静穏な直刃調とは趣を異にする作も説示に挙げられる。見分けの上では、豪壮な体配と、匂深く沸の厚い明るく冴えた地刃に金筋・砂流しのよく働く点が一貫した手掛りとなる。彫物の名手として正義門人礒貝義達が随伴し、刀身彫を施した旨が茎棟に切付けられた作も伝わる。 伝承の面では、嘉永・安政年間に長寸・重ね厚・反り浅の堂々たる体配がまま看取され、明治三年前後には短めの姿に時代色をあらわすなど、年紀による作域の推移が説示によって跡づけられる。代表作としては、覇気の横溢する豪壮な刀のほか、行秀の完全な大小揃、相州上工を想定した平身の意欲作などが資料性の高い遺例として記される。銘文に認められる鍛刀地および材料鉄の添銘は同工研究上の貴重な情報をなし、岩手県釜石周辺に産する南部名産の餅鉄を用いた旨を明記する作が遺り、運寿是一・泰龍斎宗寛・岩井正俊・月山貞一らと並んでこの材を用いた工に数えられる。注文者銘や駐鎚地銘を伴う作も多く、注文に応じた制作の実態を伝える。鑑定にあたっては、新々刀の豪壮な姿と、得意とする直刃ないし浅いのたれ基調に互の目を交えて匂深く沸厚く明るく冴える地刃を併せ見ることが要点となり、説示はこれらの出来口を相州伝復興の典型としてくり返し指摘している。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,357口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
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