日本刀 脇差 銘:於江府左行秀 慶応元年八月日(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付) 【解説】 本作は、慶応元年(1865年)八月に左行秀(さの ゆきひで)によって打たれた一振りです。銘文には「於江府」とあり、江戸にて制作されたことが分かります。 行秀は文化10年(1813年)、筑前国(現在の福岡県)の伊藤五左衛門の次男として生まれました。当初は「信国」と銘じ、後に「行秀」と改名しています。彼は南北朝時代の筑前を代表する名門、左文字(さもんじ)派の末流であり、自ら左文字三十九代を称しました。 天保年間(1831-1845年)に江戸へ上り、幕末の名工・細川正義の門人である清水久義に師事。天保11年(1840年)頃から行秀銘の作が見られ始めます。修行を終えた後の弘化3年(1846年)、土佐国(現在の高知県)へ赴き、関田勝広に師事してさらに鍛錬技術を磨きました。安政2年(1855年)に師が没すると、翌年にはその卓越した技量が認められ、土佐藩の御抱え鍛冶に抜擢されました。幕末の動乱期において、新々刀最上位の評価を受ける名工の一人です。 本作は高知県での登録(大名登録)であることから、幕末の土佐藩士の家系に伝来したものと推察されます。 本刀は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「保存刀剣」に鑑定されており、美術的価値が高く、保存状態の優れた真正の日本刀であることが証明されています。 ※刀身には抜き差しに伴う僅かな「引箇(ひけ)」がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(長):37.2 cm 反り:0.6 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(肌):鍛錬の際の折り返しによって現れる鋼の模様 茎(なかご): 日本刀の柄に収まる中心(なかご)部分です。刀工は赤錆を防ぐために意図的に黒錆を残します。この錆色や経年変化は、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装(拵)】 拵(こしらえ)は、鞘、柄、鍔などの装具一式を指します。 縁頭(ふちかしら): 柄の上下を保護する一対の金具です。 本作には「丸に橘」の家紋が施されています。橘は柑橘類の一種で、香りが高く、雪にも負けず力強く育つことから、古来より高潔な人格の象徴とされてきました。現在も桃の節句に飾られるなど、日本人に親しまれている吉祥文様です。その希少性と気高さから、家紋のモチーフとして重用されました。 柄・目貫: 柄(つか)は刀を握る部位であり、目貫(めぬき)はその装飾を兼ねた手溜めです。 鍔・鎺(はばき): 鍔は拳を守る護具、鎺は刀身を鞘の中に固定し、刀身が鞘の内側に触れて錆びたり傷ついたりするのを防ぐ重要な金具です。 本鍔は左右対称の意匠が施されています。詳細は不明ながら、時代を経た味わい深い作風です。




















Sa Yukihide (self-styled Chikuzen Samonji), Tosa-domain shinshinto · 筑前 · 1813-1887頃
藤代 Jo-jo saku
現在1点販売中
左行秀は文化十年(一八一三)、筑前国上座郡朝倉星丸の里に、伊藤又兵衛盛重の嫡子として生まれ、豊永久兵衛と称し、のちに東虎と号した。銘の頭に「左」の字を冠し、自ら筑前左文字の後裔、作によっては三十九代目と称したが、説明書はこの系譜の主張を斥ける。ある年紀のある刀について、本工は「三十九代の孫と称しているが当らない」[[c:1]]と記すのである。記録に確かなのはむしろ幕末の経歴である。天保初年江戸に上り、細川正義門の清水久義に鍛刀を学んで出藍の誉れを得、弘化三年(一八四六)三十四歳の時、土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐に下り、安政二年(一八五五)山内家の抱工となって、土佐と江戸深川砂村の藩邸の両地に鍛刀し、明治三年(一八七〇)に作刀を終えた。説明書は本工を「新々刀工中の名工の一人である」[[c:2]]とする。
本工の典型は、井上真改に私淑した広直刃で、説明書がその本領とする手である。これを豪壮な新々刀の体配に焼く。身幅広く元先の幅差開かず、重ね厚く手持ち重く、反り浅く大鋒あるいは中鋒の延びごころとなり、茎は生ぶで太鏨の長銘を切る。よくつんだ小板目に、浅くのたれごころを帯び互の目を盛んに交えた広直刃を焼き、匂口最も深く、小沸厚くよくつき、刃縁に頻りに沸ほつれ、足入り、砂流し・金筋がかかって、総じて明るく冴える。帽子は直ぐに小丸、先掃きかけて長く、時に深く返る。嘉永二年(一八四九)紀の特別重要刀剣はこの型の極致を示し、互の目を交えた広直刃の匂口が一際深い。
地鉄は両様の手に通じて変わらぬところである。よくつんだ小板目、時に柾がかって流れる板目に、地沸厚くつき地景頻りに入り、説明書がしばしば明るく冴えると評するかねで、時に無地風に締まる。これは本工が理想とした相州伝に発する地鉄であって備前の映りではなく、説明書は刃文の如何を問わず沸よくつき匂口最も深く、地刃の冴えると記す。嘉永六年(一八五三)紀の刀には地刃ともに冴えた働きが述べられ、別の作では匂口が最も深く明るく冴えるとされる。
広直刃と併せて説明書はもう一様を挙げる。時にのたれを主調とし丁子・大互の目を交えた、直刃より華やかな互の目乱れである。同じ新々刀の造込みに、足太く長く入り、匂深く、沸厚く時に荒め、砂流し・金筋を交え、帽子は乱れ込んで尖り、あるいは小丸に掃きかけて返る。下地の鍛えはよくつんだ小板目から整った柾目まで幅がある。中には相州伝の写し、志津写しもあり、南紀重国を想わせるものもある。初期の作風は細川流の備前伝、匂口の締った丁子乱であったものが、のちに自他ともに認める相州伝へ転じた。銘も数様に変わり、時に花押を添え、晩年の作には豊永東虎の七字銘を切る。
本工を広い新々刀復古のうちで分かつのは、その私淑の対象と、そこから引き出した冴えである。同時代の多くが中世の華やかな備前丁子を再興したのに対し、本工の理想は説明書の言うように「相州伝を理想とし」[[c:3]]、とりわけ「井上真改に私淑した」[[c:4]]作に結実した。地景の入った地に焼いた明るく匂の深い直刃は、大坂真改の系統を幕末に承けたものと読まれ、説明書はさらに踏みこんで、ある嘉永六年紀の刀について「地刃の冴えは新々刀中第一である」[[c:5]]と言い切る。刃文の形そのもの以上に、この冴えこそ本工の手のしるしである。
収集の観点では、行秀はほぼ例外なく在銘・年紀のある、確かに知り得る名である。藤代の極めは上々作、その記録は特別重要刀剣二口、戦前の重要美術品二口、重要刀剣に多くを数え、特別重要刀剣・重要刀剣の級を併せて六十三口に及ぶが、国宝・重要文化財はない。説明書が戒めるとおり本工の名には偽物が極めて多く、それゆえ確かな年紀銘は標本として貴重とされ、また鍛刀地や用いた餅鉄をまで記した添銘は、それ自体が資料として重んじられる。その作は来歴の確かな旧蔵に伝わり、五台山の別墅で藩工の誇りを以て一世一代の作を鍛えた土佐山内家をはじめ、稲田・小倉・越智・高垣の各家など所在の知られるものがある。多くは商われずに守られているが、鎌倉の大名物のように手の届かぬ名ではない。出来のよい在銘・年紀の行秀は時に市場に現れ、日本刀最後の時代の健全で明るい証となっている。
行秀の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 筑前
現在1点販売中
左行秀は、伊藤又兵衛盛重の嫡子として文化十年、筑前国上座郡朝倉星丸の里に生まれた工で、自ら筑前左文字三十九代目を以て任じ、作刀にもその旨を刻銘している。天保初年に出府して細川正義門人清水久義に鍛刀の技を学び、弘化三年、三十四歳の時に土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐へ下った。安政二年十月に土佐藩工となり、万延元年の終りから文久二年の初め頃には再び江戸に上って深川砂村の土佐藩邸に居所を構えて作刀したが、慶応三年五月、板垣退助との不和がもとで同年夏に土佐へ帰り、以後は「東虎」と銘している。作刀は明治三年で終り、明治二十年に七十五歳で歿するまで嫡子幾馬と横浜で暮らした。筑前の出自を背景に左派を称し、十九世紀中頃の江戸と土佐の両地において、説示が地刃の随所に指摘するとおり相州伝復興の作域を展開した工である。 作風は、身幅が広く重ねが厚く、手持ちのずっしりと重い、いかにも新々刀然とした豪壮な造込みを基調とし、大鋒に結ぶ姿に幕末の時代色を顕著に示す。鍛えは小板目肌がよくつみ、杢・流れ肌を交え、処々柾がかる肌合を交える例もあって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は彼の最も得意とする中直刃ないし広直刃を基調に浅くのたれごころを帯び、互の目・小互の目が交じり、匂口が一段と深く、沸が厚く強くつき、刃縁に頻りに沸ほつれを生じ、金筋・砂流しがかかって匂口の明るく冴える点に特色がある。互の目主調に乱れた覇気の横溢する出来や、二重・三重刃風を呈して相州上工を狙った烈しい平造脇指など、常の静穏な直刃調とは趣を異にする作も説示に挙げられる。見分けの上では、豪壮な体配と、匂深く沸の厚い明るく冴えた地刃に金筋・砂流しのよく働く点が一貫した手掛りとなる。彫物の名手として正義門人礒貝義達が随伴し、刀身彫を施した旨が茎棟に切付けられた作も伝わる。 伝承の面では、嘉永・安政年間に長寸・重ね厚・反り浅の堂々たる体配がまま看取され、明治三年前後には短めの姿に時代色をあらわすなど、年紀による作域の推移が説示によって跡づけられる。代表作としては、覇気の横溢する豪壮な刀のほか、行秀の完全な大小揃、相州上工を想定した平身の意欲作などが資料性の高い遺例として記される。銘文に認められる鍛刀地および材料鉄の添銘は同工研究上の貴重な情報をなし、岩手県釜石周辺に産する南部名産の餅鉄を用いた旨を明記する作が遺り、運寿是一・泰龍斎宗寛・岩井正俊・月山貞一らと並んでこの材を用いた工に数えられる。注文者銘や駐鎚地銘を伴う作も多く、注文に応じた制作の実態を伝える。鑑定にあたっては、新々刀の豪壮な姿と、得意とする直刃ないし浅いのたれ基調に互の目を交えて匂深く沸厚く明るく冴える地刃を併せ見ることが要点となり、説示はこれらの出来口を相州伝復興の典型としてくり返し指摘している。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 脇差 銘:於江府左行秀 慶応元年八月日(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付) 【解説】 本作は、慶応元年(1865年)八月に左行秀(さの ゆきひで)によって打たれた一振りです。銘文には「於江府」とあり、江戸にて制作されたことが分かります。 行秀は文化10年(1813年)、筑前国(現在の福岡県)の伊藤五左衛門の次男として生まれました。当初は「信国」と銘じ、後に「行秀」と改名しています。彼は南北朝時代の筑前を代表する名門、左文字(さもんじ)派の末流であり、自ら左文字三十九代を称しました。 天保年間(1831-1845年)に江戸へ上り、幕末の名工・細川正義の門人である清水久義に師事。天保11年(1840年)頃から行秀銘の作が見られ始めます。修行を終えた後の弘化3年(1846年)、土佐国(現在の高知県)へ赴き、関田勝広に師事してさらに鍛錬技術を磨きました。安政2年(1855年)に師が没すると、翌年にはその卓越した技量が認められ、土佐藩の御抱え鍛冶に抜擢されました。幕末の動乱期において、新々刀最上位の評価を受ける名工の一人です。 本作は高知県での登録(大名登録)であることから、幕末の土佐藩士の家系に伝来したものと推察されます。 本刀は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「保存刀剣」に鑑定されており、美術的価値が高く、保存状態の優れた真正の日本刀であることが証明されています。 ※刀身には抜き差しに伴う僅かな「引箇(ひけ)」がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(長):37.2 cm 反り:0.6 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(肌):鍛錬の際の折り返しによって現れる鋼の模様 茎(なかご): 日本刀の柄に収まる中心(なかご)部分です。刀工は赤錆を防ぐために意図的に黒錆を残します。この錆色や経年変化は、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【外装(拵)】 拵(こしらえ)は、鞘、柄、鍔などの装具一式を指します。 縁頭(ふちかしら): 柄の上下を保護する一対の金具です。 本作には「丸に橘」の家紋が施されています。橘は柑橘類の一種で、香りが高く、雪にも負けず力強く育つことから、古来より高潔な人格の象徴とされてきました。現在も桃の節句に飾られるなど、日本人に親しまれている吉祥文様です。その希少性と気高さから、家紋のモチーフとして重用されました。 柄・目貫: 柄(つか)は刀を握る部位であり、目貫(めぬき)はその装飾を兼ねた手溜めです。 鍔・鎺(はばき): 鍔は拳を守る護具、鎺は刀身を鞘の中に固定し、刀身が鞘の内側に触れて錆びたり傷ついたりするのを防ぐ重要な金具です。 本鍔は左右対称の意匠が施されています。詳細は不明ながら、時代を経た味わい深い作風です。




















Sa Yukihide (self-styled Chikuzen Samonji), Tosa-domain shinshinto · 筑前 · 1813-1887頃
藤代 Jo-jo saku
現在1点販売中
左行秀は文化十年(一八一三)、筑前国上座郡朝倉星丸の里に、伊藤又兵衛盛重の嫡子として生まれ、豊永久兵衛と称し、のちに東虎と号した。銘の頭に「左」の字を冠し、自ら筑前左文字の後裔、作によっては三十九代目と称したが、説明書はこの系譜の主張を斥ける。ある年紀のある刀について、本工は「三十九代の孫と称しているが当らない」[[c:1]]と記すのである。記録に確かなのはむしろ幕末の経歴である。天保初年江戸に上り、細川正義門の清水久義に鍛刀を学んで出藍の誉れを得、弘化三年(一八四六)三十四歳の時、土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐に下り、安政二年(一八五五)山内家の抱工となって、土佐と江戸深川砂村の藩邸の両地に鍛刀し、明治三年(一八七〇)に作刀を終えた。説明書は本工を「新々刀工中の名工の一人である」[[c:2]]とする。
本工の典型は、井上真改に私淑した広直刃で、説明書がその本領とする手である。これを豪壮な新々刀の体配に焼く。身幅広く元先の幅差開かず、重ね厚く手持ち重く、反り浅く大鋒あるいは中鋒の延びごころとなり、茎は生ぶで太鏨の長銘を切る。よくつんだ小板目に、浅くのたれごころを帯び互の目を盛んに交えた広直刃を焼き、匂口最も深く、小沸厚くよくつき、刃縁に頻りに沸ほつれ、足入り、砂流し・金筋がかかって、総じて明るく冴える。帽子は直ぐに小丸、先掃きかけて長く、時に深く返る。嘉永二年(一八四九)紀の特別重要刀剣はこの型の極致を示し、互の目を交えた広直刃の匂口が一際深い。
地鉄は両様の手に通じて変わらぬところである。よくつんだ小板目、時に柾がかって流れる板目に、地沸厚くつき地景頻りに入り、説明書がしばしば明るく冴えると評するかねで、時に無地風に締まる。これは本工が理想とした相州伝に発する地鉄であって備前の映りではなく、説明書は刃文の如何を問わず沸よくつき匂口最も深く、地刃の冴えると記す。嘉永六年(一八五三)紀の刀には地刃ともに冴えた働きが述べられ、別の作では匂口が最も深く明るく冴えるとされる。
広直刃と併せて説明書はもう一様を挙げる。時にのたれを主調とし丁子・大互の目を交えた、直刃より華やかな互の目乱れである。同じ新々刀の造込みに、足太く長く入り、匂深く、沸厚く時に荒め、砂流し・金筋を交え、帽子は乱れ込んで尖り、あるいは小丸に掃きかけて返る。下地の鍛えはよくつんだ小板目から整った柾目まで幅がある。中には相州伝の写し、志津写しもあり、南紀重国を想わせるものもある。初期の作風は細川流の備前伝、匂口の締った丁子乱であったものが、のちに自他ともに認める相州伝へ転じた。銘も数様に変わり、時に花押を添え、晩年の作には豊永東虎の七字銘を切る。
本工を広い新々刀復古のうちで分かつのは、その私淑の対象と、そこから引き出した冴えである。同時代の多くが中世の華やかな備前丁子を再興したのに対し、本工の理想は説明書の言うように「相州伝を理想とし」[[c:3]]、とりわけ「井上真改に私淑した」[[c:4]]作に結実した。地景の入った地に焼いた明るく匂の深い直刃は、大坂真改の系統を幕末に承けたものと読まれ、説明書はさらに踏みこんで、ある嘉永六年紀の刀について「地刃の冴えは新々刀中第一である」[[c:5]]と言い切る。刃文の形そのもの以上に、この冴えこそ本工の手のしるしである。
収集の観点では、行秀はほぼ例外なく在銘・年紀のある、確かに知り得る名である。藤代の極めは上々作、その記録は特別重要刀剣二口、戦前の重要美術品二口、重要刀剣に多くを数え、特別重要刀剣・重要刀剣の級を併せて六十三口に及ぶが、国宝・重要文化財はない。説明書が戒めるとおり本工の名には偽物が極めて多く、それゆえ確かな年紀銘は標本として貴重とされ、また鍛刀地や用いた餅鉄をまで記した添銘は、それ自体が資料として重んじられる。その作は来歴の確かな旧蔵に伝わり、五台山の別墅で藩工の誇りを以て一世一代の作を鍛えた土佐山内家をはじめ、稲田・小倉・越智・高垣の各家など所在の知られるものがある。多くは商われずに守られているが、鎌倉の大名物のように手の届かぬ名ではない。出来のよい在銘・年紀の行秀は時に市場に現れ、日本刀最後の時代の健全で明るい証となっている。
行秀の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 筑前
現在1点販売中
左行秀は、伊藤又兵衛盛重の嫡子として文化十年、筑前国上座郡朝倉星丸の里に生まれた工で、自ら筑前左文字三十九代目を以て任じ、作刀にもその旨を刻銘している。天保初年に出府して細川正義門人清水久義に鍛刀の技を学び、弘化三年、三十四歳の時に土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐へ下った。安政二年十月に土佐藩工となり、万延元年の終りから文久二年の初め頃には再び江戸に上って深川砂村の土佐藩邸に居所を構えて作刀したが、慶応三年五月、板垣退助との不和がもとで同年夏に土佐へ帰り、以後は「東虎」と銘している。作刀は明治三年で終り、明治二十年に七十五歳で歿するまで嫡子幾馬と横浜で暮らした。筑前の出自を背景に左派を称し、十九世紀中頃の江戸と土佐の両地において、説示が地刃の随所に指摘するとおり相州伝復興の作域を展開した工である。 作風は、身幅が広く重ねが厚く、手持ちのずっしりと重い、いかにも新々刀然とした豪壮な造込みを基調とし、大鋒に結ぶ姿に幕末の時代色を顕著に示す。鍛えは小板目肌がよくつみ、杢・流れ肌を交え、処々柾がかる肌合を交える例もあって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は彼の最も得意とする中直刃ないし広直刃を基調に浅くのたれごころを帯び、互の目・小互の目が交じり、匂口が一段と深く、沸が厚く強くつき、刃縁に頻りに沸ほつれを生じ、金筋・砂流しがかかって匂口の明るく冴える点に特色がある。互の目主調に乱れた覇気の横溢する出来や、二重・三重刃風を呈して相州上工を狙った烈しい平造脇指など、常の静穏な直刃調とは趣を異にする作も説示に挙げられる。見分けの上では、豪壮な体配と、匂深く沸の厚い明るく冴えた地刃に金筋・砂流しのよく働く点が一貫した手掛りとなる。彫物の名手として正義門人礒貝義達が随伴し、刀身彫を施した旨が茎棟に切付けられた作も伝わる。 伝承の面では、嘉永・安政年間に長寸・重ね厚・反り浅の堂々たる体配がまま看取され、明治三年前後には短めの姿に時代色をあらわすなど、年紀による作域の推移が説示によって跡づけられる。代表作としては、覇気の横溢する豪壮な刀のほか、行秀の完全な大小揃、相州上工を想定した平身の意欲作などが資料性の高い遺例として記される。銘文に認められる鍛刀地および材料鉄の添銘は同工研究上の貴重な情報をなし、岩手県釜石周辺に産する南部名産の餅鉄を用いた旨を明記する作が遺り、運寿是一・泰龍斎宗寛・岩井正俊・月山貞一らと並んでこの材を用いた工に数えられる。注文者銘や駐鎚地銘を伴う作も多く、注文に応じた制作の実態を伝える。鑑定にあたっては、新々刀の豪壮な姿と、得意とする直刃ないし浅いのたれ基調に互の目を交えて匂深く沸厚く明るく冴える地刃を併せ見ることが要点となり、説示はこれらの出来口を相州伝復興の典型としてくり返し指摘している。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.