左行秀は文化十年(一八一三)、筑前国上座郡朝倉星丸の里に、伊藤又兵衛盛重の嫡子として生まれ、豊永久兵衛と称し、のちに東虎と号した。銘の頭に「左」の字を冠し、自ら筑前左文字の後裔、作によっては三十九代目と称したが、説明書はこの系譜の主張を斥ける。ある年紀のある刀について、本工は「三十九代の孫と称しているが当らない」と記すのである。記録に確かなのはむしろ幕末の経歴である。天保初年江戸に上り、細川正義門の清水久義に鍛刀を学んで出藍の誉れを得、弘化三年(一八四六)三十四歳の時、土佐藩工関田真平勝広の勧めにより土佐に下り、安政二年(一八五五)山内家の抱工となって、土佐と江戸深川砂村の藩邸の両地に鍛刀し、明治三年(一八七〇)に作刀を終えた。説明書は本工を「新々刀工中の名工の一人である」とする。
本工の典型は、井上真改に私淑した広直刃で、説明書がその本領とする手である。これを豪壮な新々刀の体配に焼く。身幅広く元先の幅差開かず、重ね厚く手持ち重く、反り浅く大鋒あるいは中鋒の延びごころとなり、茎は生ぶで太鏨の長銘を切る。よくつんだ小板目に、浅くのたれごころを帯び互の目を盛んに交えた広直刃を焼き、匂口最も深く、小沸厚くよくつき、刃縁に頻りに沸ほつれ、足入り、砂流し・金筋がかかって、総じて明るく冴える。帽子は直ぐに小丸、先掃きかけて長く、時に深く返る。嘉永二年(一八四九)紀の特別重要刀剣はこの型の極致を示し、互の目を交えた広直刃の匂口が一際深い。
地鉄は両様の手に通じて変わらぬところである。よくつんだ小板目、時に柾がかって流れる板目に、地沸厚くつき地景頻りに入り、説明書がしばしば明るく冴えると評するかねで、時に無地風に締まる。これは本工が理想とした相州伝に発する地鉄であって備前の映りではなく、説明書は刃文の如何を問わず沸よくつき匂口最も深く、地刃の冴えると記す。嘉永六年(一八五三)紀の刀には地刃ともに冴えた働きが述べられ、別の作では匂口が最も深く明るく冴えるとされる。
広直刃と併せて説明書はもう一様を挙げる。時にのたれを主調とし丁子・大互の目を交えた、直刃より華やかな互の目乱れである。同じ新々刀の造込みに、足太く長く入り、匂深く、沸厚く時に荒め、砂流し・金筋を交え、帽子は乱れ込んで尖り、あるいは小丸に掃きかけて返る。下地の鍛えはよくつんだ小板目から整った柾目まで幅がある。中には相州伝の写し、志津写しもあり、南紀重国を想わせるものもある。初期の作風は細川流の備前伝、匂口の締った丁子乱であったものが、のちに自他ともに認める相州伝へ転じた。銘も数様に変わり、時に花押を添え、晩年の作には豊永東虎の七字銘を切る。
本工を広い新々刀復古のうちで分かつのは、その私淑の対象と、そこから引き出した冴えである。同時代の多くが中世の華やかな備前丁子を再興したのに対し、本工の理想は説明書の言うように「相州伝を理想とし」、とりわけ「井上真改に私淑した」作に結実した。地景の入った地に焼いた明るく匂の深い直刃は、大坂真改の系統を幕末に承けたものと読まれ、説明書はさらに踏みこんで、ある嘉永六年紀の刀について「地刃の冴えは新々刀中第一である」と言い切る。刃文の形そのもの以上に、この冴えこそ本工の手のしるしである。
収集の観点では、行秀はほぼ例外なく在銘・年紀のある、確かに知り得る名である。藤代の極めは上々作、その記録は特別重要刀剣二口、戦前の重要美術品二口、重要刀剣に多くを数え、特別重要刀剣・重要刀剣の級を併せて六十三口に及ぶが、国宝・重要文化財はない。説明書が戒めるとおり本工の名には偽物が極めて多く、それゆえ確かな年紀銘は標本として貴重とされ、また鍛刀地や用いた餅鉄をまで記した添銘は、それ自体が資料として重んじられる。その作は来歴の確かな旧蔵に伝わり、五台山の別墅で藩工の誇りを以て一世一代の作を鍛えた土佐山内家をはじめ、稲田・小倉・越智・高垣の各家など所在の知られるものがある。多くは商われずに守られているが、鎌倉の大名物のように手の届かぬ名ではない。出来のよい在銘・年紀の行秀は時に市場に現れ、日本刀最後の時代の健全で明るい証となっている。