正平十七年(1362)の年紀を有し「長州住安吉」と銘した短刀(重要美術品)が、安吉をめぐる記述の要石である。その銘振りが常々の安吉銘と同一であることから、大左の子で左文字の二代目を継ぎ、のちに筑前から長州へ移住したという所伝が首肯される。年紀は正平十七年・貞治等に及ぶ。移住後は子孫か弟子が長州で名跡を襲って室町前期まで続き、世に長州左と称される。半世紀にわたる指定書がほぼ同じ言葉で繰り返す評がある。すなわち「左一類の中にあって備前気質が混在する」のが安吉の特色である。
在銘作の範囲は厳密である。いずれも平造で身幅広く寸延び、重ね薄く反り浅い南北朝半ばの体配の短刀・小脇指に限られ、大左の短刀が小振りに留まるのに対して大振りとなる。太刀の確実な在銘作を見ず、太刀・薙刀は全て大磨上無銘の極めで伝わる。銘は目釘孔の下、茎中央にやや太鏨で大振りの二字銘を切り、まま左の字を冠し、その遺例の筆頭が名物「一柳安吉」(重要文化財)である。一方で記録は欠落も明確に伝える。「左安吉」銘と「長州住安吉」銘は現存するが、「筑州住安吉と銘したものを見ない」のである。
鍛えは板目が流れてしばしば肌立ち、杢を交え、地沸がつき、白け映り・棒映り、あるいは刃寄りに直ぐ状の映りが立つ。指定書はこの流れて肌立ち、白気ごころを見せる鍛えをこの工の見どころと明言する。刃文は浅い小のたれに互の目・小互の目・尖り刃を交え、匂勝ちに小沸がつき、足が入り、細かな砂流しに処々金筋がかかる。帽子は乱れ込み、または突き上げて刃寄りに倒れごころとなり、先尖って僅かに掃きかけ、やや長く返る。父との比較は率直で、地刃の冴えは大左に及ばず、初期の指定書は「技術も父に及ばない」とまで記し、帽子も「大左ほどの鋭さがなく」倒れごころの態が多いとされる。この資質がそのまま鑑定の落とし穴となる。匂勝ちで小沸つき、「一見兼光などの長船物に紛れる」のであり、立つ映りがその紛れを助長する。
作域の両端に二つの相がある。最小の短刀の一部は殆ど大左と同大で、フクラがやや枯れ、地沸が微塵に厚くつき、地景細かに入り、時に沸映りが立ち、匂口明るく金筋・砂流しがよくかかって帽子が尖り、「正に大左に見紛う」と評される。特別重要指定の左安吉銘短刀では、左の字が大左の銘字に近く暢達であるのに対し、安吉の二字はやや稚拙な鏨使いを見せる。大左が晩年に安吉と銘したという所伝の実証か、安吉の初期作かは、今後の考証に俟つとされる。他方に長州時代がある。南北朝の長州安吉と鑑せられる作は常の匂勝ちの手とはやや趣を異にし、地刃ともによく沸づき、大模様の乱刃に喰違刃を交え、砂流ししきりに金筋が入り、帽子は突き上げて尖る。応永年紀のものは作柄・銘振りから明らかに代替りとされ、永和年紀のものを初代晩年作とするか二代とするかは、各指定書が繰り返し今後の研究課題と明記する。
左一類の無銘作において極めを決するのは安吉自身の見どころである。流れて肌立つ板目に白けた映りが立ち、小模様で匂勝ちの焼刃となり、突き上げて尖る帽子が穏やかに倒れる作は、同派の中で安吉に擬せられ、大磨上無銘の刀が現にそう極められてきた。尖る帽子は左一門に通じる見どころとして保ち続け、刃の柔らかさは彼自身のものである。近年の指定書は「柔らか味を帯びた塩相の深い匂口」と刃中の豊富な働きを特記する。
藤代の評価は上々作。指定を受けた作は四十五口を数え、紐付く作のうち在銘三十六口に対し無銘七口と、在銘の多い記録である。重要文化財は六口でその筆頭が名物「一柳安吉」、重要美術品は四口で正平十七年紀の短刀を含み、特別重要刀剣・重要刀剣の級に三十三口が立つ。特別重要の脇指の一口は「同工作中の白眉」と讃えられる。伝来の録される十四口には、備前池田家・因州池田家・土佐山内家・前田家の伝来があり、徳川家達所持と認定された短刀、熊本の儒学者元田永孚旧蔵の一口がある。所在の知られるものは徳川美術館・福岡市博物館・東京国立博物館・佐野美術館等に蔵される。重要文化財の六口は文化財として永く伝えられ、残る作の多くも美術館や長く続く蒐集の手にあって、安吉が市場に現れることは稀であり、巡り会いには時を要する。