左吉弘の在銘作は、目釘孔下に太鏨大振りの二字銘をもつ備前池田家伝来の太刀一口で、説明書は「在銘作はこの一口だけであり、資料的価値はすこぶる高い」とする。説明書は『德川実紀』享保二年四月十五日条の「大炊頭継政には左吉弘の御刀を下さる」という記事を引き、池田継政が家督を継承する際に八代将軍吉宗から拝領した太刀と考え、同年の本阿弥光忠の折紙が附帯する。吉弘は筑前国左文字の一門に属する。左文字は南北朝時代初期に出現し、従来の伝統的な九州物の作域から脱皮して、「地刃が明るく冴えて垢抜けした作風」を確立した。吉弘は大左の子、あるいは門下とも言われ、子に左国弘があるとされ、銘鑑は正平二十二・二十三年紀の作をあげる。
説明書は本工を大きな一門の中に置く。大左の弟子及び一門で南北朝期に活躍した工は少なくなく、有銘のものに安吉・弘行・行弘・国弘・弘安・吉貞・吉弘・弘吉等があるが、それとても殆ど短刀・脇指に限られる。この時代の太刀は三尺余の大太刀が多く、後に磨上げられて打刀となったためである。一門の刀匠はほぼ技術が伯仲し、作風も大差がなく、「一々鑑別することは困難である」。一派に共通する作風は、鍛が板目流れて地沸がつき、刃文は「湾れを主調として、互の目や丁子を交え、砂流しや金筋がかかり、匂口が冴えて沸えつき、荒沸交り、帽子が乱込んで突き上げて尖る」点などである。
本工の作もこの型に従う。鍛えは板目あるいは小板目に杢を交え、処々流れ、よくつむものも肌立ちごころのものもあり、地沸厚く細かにつき、地景入り、二口には淡く映りが立つ。刃文は湾れを基調とし、在銘の太刀では総体に極く浅いのたれに上半は小足が頻りに入り、下半は互の目・小乱れを交える。他には小湾れに互の目交り飛焼かかるもの、浅く湾れて、その中に小乱小互の目など交じるものがあり、足・葉入り、砂流し・金筋かかり、小沸よくつく。帽子は乱れ込んで突き上げ、尖って返り、時に掃きかける。
極めの刀は南北朝期の姿を示す。大磨上ながら身幅広く反り浅く大鋒となり、説明書はその一口について「時代の特色を示し、地刃に同派の特長が濃い」とする。最も身幅の広い平成三十年指定の特別重要刀剣の刀は元先の幅差目立たず重ね厚めで、刃文はよく沸づいて相州伝色が強く現れた刃中や刃境の働きが豊富な乱れとなり、帽子は乱れ込んで突き上げ先が尖り、説明書はこれを「迫力ある豪壮な作風が顕現された同工極めの逸品」とする。江戸時代後期と鑑せられる黒石目微塵貝小紋散鞘打刀拵が付帯する。いま一口の刀は重ねを卸して薄く、一見薙刀直しと鑑せられる姿で、表に土落風の二重刃がある。
吉弘の指定作は四口で、特別重要刀剣が二口(池田家伝来の在銘太刀と極めの刀)、重要刀剣が二口(いずれも極めの刀)である。藤代は上々作に位置づけ、刀工大鑑の評価は六百である。伝来の記録は備前池田家と池田継政で、在銘の太刀は個人の所蔵にある。