弘行は筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、南北朝時代中期の正平頃に活躍し、行弘の子と伝える。説明書が末左と呼ぶ、開祖大左から継がれた門人の一群に属する。左一派は南北朝初期に出現し、それまでの地刃の沈んだ鄙びた直刃仕立ての古典的な九州物の作風と決別し、相州伝を導入して地刃共に明るく冴え、地景・金筋の交じる作風を樹立した。弘行はその作風のうちに働き、その位置は剣書の伝える僅かな年紀・在銘によって定まる。すなわち正平二十年(一三六五)紀の作があるといい、父行弘には観応の年紀ある作がある。在銘の作は極めて稀で、その記録のほとんどは長大な南北朝の太刀を磨り上げ、本工と極められた大磨上無銘の刀である。
その手は刃文において最もよく読まれる。身幅広く反りの浅い刀身に、直刃を地として浅くのたれをおびた刃を焼き、互の目・角がかった互の目・小のたれ・尖り刃・小互の目を、しばしば連れごころに総じて小模様に交える。沸は厚くむらにつき、処々荒めの沸が叢となり、打のけ・湯走りを刃縁に交え、金筋・砂流しがさかんにかかって、匂口はしばしば沈みごころとなる。説明書が本工の見どころとするのは、まさにこの手である。すなわち、技倆ほぼ伯仲して個々の刀工を決し難い左一類にあって、互の目が連れて目立ち、焼の出入りがさまで目立たぬ比較的穏やかな刃こそ弘行と読まれる。数々の説明はいずれも同じ判断に結ばれ、その作を「弘行に最も擬せられるものであり」と評する。
地鉄はその両様に通じて変わらぬところである。杢・流れ肌を交えて肌立つ板目に、処々大板目を交え、地沸厚くつき、地景よく入り、かね色はやや黒みを帯びて白ける。これは相州伝に発する左の地鉄で、明るくつんだ備前の地に冴える映りではなく、開いて沸の強い鋼であり、映りが立つとしてもせいぜい淡い沸映り風か白けごころにとどまる。互の目の目立つ線の傍らに、説明書は同じ手のより静かな一面を読む。すなわち浅くのたれをおびた中直刃に小互の目・角がかった刃を控えめに交え、総じて小模様となり、刃縁細かにほつれ、匂口の沈む手である。帽子は放胆な作では乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけ、穏やかな手では直ぐに小丸となる。
この二様は、刀がいかに極められたかに応じている。互の目の目立つ放胆な刀は一派の覇気を帯び、ある特別重要刀剣は「放胆で覇気に溢れた出来口」と評される。一方、本阿弥家の入れた金粉銘を伴うことの多い静かな中直刃調の作は、広直刃にほつれかかり匂口の沈む、鑑定家が古来弘行と読んだ刃を見せる。説明書はこの極めの限界に率直である。本工を末左に列して「作風を区別することは困難である」とし、本工の作に見る金粉銘は明治以後に本阿弥家が始めたものとする。ある一口については「左弘行とまで断定し得るか否か」には問題があると認めつつ、「南北朝期の左の一派の作であることには異論がない」とする。
弘行を分かつものは、それゆえ私的な銘ではなく、伯仲した一派の中の程度の差である。本工自身の地に即した見どころ、すなわち小模様で直刃に寄った刃の連れる互の目、黒みを帯びた沸の強い肌立つ板目、突き上げて尖る帽子は、大左から継がれた末左の安吉・行弘・吉貞・国弘・弘安・貞吉らの傍らに本工を置く。説明書はその技倆をこの一群のうちに保ち、無銘の極めを時代と一派から首肯し、その比較的穏やかな直刃寄りの手を、その名を負う左伝の一面とする。本工は開祖の一代下に立ち、一派の最初の名手の華やかさを求めるよりも、明るく沸の豊かな作域において南北朝盛期の豪壮な体配を打った工である。
収集の観点では、弘行は近代の上位の指定級に名を連ねる、確かに記録された左の名である。藤代の極めは上作。その記録は特別重要刀剣の刀二口、うち一口は本阿弥琳雅の金粉銘を伴い、戦前の重要美術品二口、重要刀剣二十九口を通じ、特別重要刀剣と重要刀剣の級を併せて三十一口に及ぶ。その作は大名家の伝来に根ざし、彦根の井伊家には丸に橘紋の打刀拵を附した特別重要刀剣が伝わり、鍋島家にも一口があり、さらに土浦の土屋家・徳川家を経たものや、市立博物館に蔵されるものもある。記録のほとんどが無銘で旧家に伝わるため、弘行が世に出ることは稀であり、現れるとすれば重要刀剣・特別重要刀剣の級からで、根気よく待つ収集家は折にふれてその一口に出会い得る。それは左一派が明るい相州伝の作風を南北朝第二世代へと伝えた、健全で迫力ある証である。