弘安は南北朝時代の筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、その活躍期は二口の年紀作、正平二十年紀の短刀と『埋忠押形』所載の正平十三年紀によって定まる。説明書は本工を行弘の子、あるいは一説に弟子と伝え、大左から継がれた、汎く末左と呼ばれる一群のうちに置く。南北朝期に至り、筑前には左文字が出現して従来の鄙びた九州物の作域を脱却し、相州伝を導入して、地刃共に明るく冴え地景・金筋の交じる作風を確立した。所伝には弘安が後に安芸へ移住したともいう。在銘の遺例は平造寸延びの短刀・小脇指に限られ、太刀の在銘は経眼されず、刀の記録のほとんどは長太刀や薙刀を打刀に磨り上げた大磨上無銘で、極めは茎の銘ではなく作柄に拠る。
本工の名を決めるのは刃中の互の目である。本阿弥家が左一類のうちに鑑した無銘の作のうち、特に互の目の目立つものが弘安にあてられてきたので、説明書はその点を端的に記して、左一類と見える作には「特に互の目の目立つものがよく見受けられる」とする。刃文はのたれを主調とした乱れに互の目・小互の目・小丁子・わずかな尖り刃を交え、大きな房に集まらず総じて小模様にとどまる。足・葉よく入り、沸厚くやや叢につき処々荒めの沸を交え、砂流し頻りにかかって金筋が線を貫く。小さな湯走り状の飛焼が処々刃に交わり、説明書はこれを古雅で覇気のある働きとする。帽子は乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけて深く返る。
地鉄は一派の共有する相州伝の地で、弘安にあっては肌が開く。杢・流れ肌・処々大板目を交えた板目で、つむというより肌立ち、地沸厚く地景が細かにさかんに入り、かね色はやや黒みを帯びる。これは左の手の暗く働く地であって、備前の明るくつんだ小板目・乱れ映りではなく、地にはせいぜい淡い沸映り風が立つにとどまる。説明書はその最上の冴えを賞して、ある優刀の鉄を「鉄の濁りや白気がいささかもなく」、沸厚く匂口明るいと記す。かくも暗く活きた地の上に小模様の互の目が焼かれて、一派が新たに迎えた豪壮な相州の作意の、より穏やかで親しい一面を読ませる。
本工自身の記録のうちにも、説明書は第一の手と併せてもう一様を引く。作のうちには、殊に古来弘安と称されてきた作には、より穏やかな線があって、直刃調にやや小ずみ、匂口が沈みごころとなる。古来その極めは、湾れ調にやや小ずんだ乱れを見せる左一類の作にあてられ、説明書はそれを評して「やや小ずむところに少異がある」、すなわちやや小ずむ点に少しの違いがあるとする。この沈んだ手は一部の磨上の刀と、平造寸延びの脇指・短刀の在銘の小作に現れ、華やかな手の互の目が抑えられて、穏やかな線そのものが見どころとなる。両様は一人の生涯の前後ではなく、一派の鑑識がその名に定めた二つの読みであり、目立つ互の目と、小ずんで沈みごころの乱れとである。
左一派の中で本工を定めるのは、説明書が率直に彼に帰さぬところである。その一門は技倆ほぼ伯仲して個々の鑑別が頗る困難であり、説明書は弘安一人を決する見どころはなく、その技術は一派最強の安吉に及ばぬとも記す。弘安はむしろ自らの確かな作柄、すなわち備前と分かつ地景厚き肌立つ黒みの板目、本阿弥家がその名に留めた目立つ互の目、掃きかける突き上げて尖る帽子によって分けられる。行弘・安吉・吉貞・国弘・弘行・貞吉らと並んで大左から南北朝後期へ左の手を継いだ一人であり、その作は沸厚く飛焼の刃に交わるところ、説明書のいう「古雅な趣を醸し出している」古色をなお留めている。
収集の観点では、大左その人が容易ならぬのに対し、弘安は末左のうちで手の届く名である。藤代の極めは上作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は刀三口の特別重要刀剣、戦前に重要美術品と認定された刀二口、および十九口ほどの重要刀剣を通じ、光温・光忠らの古い本阿弥折紙を伴うものが数口あって、その極めの長い歴史を語る。作は大名家・収集家の手を経て、黒田家、久松松平家、高須松平家ほか松平の諸家が伝来に名を連ね、重要美術品の刀一口は今静岡の佐野美術館に蔵される。特別重要刀剣・重要刀剣の級は二十二口ほどに及び、弘安は稀にというよりは時に世に出るが、説明書が在銘作は極めて少ないと記す在銘の脇指・短刀の方がなお得難く、それ自体としてのみならず左文字一類を研究する資料としても貴ばれる。