行弘は南北朝時代初期の筑前左文字の刀工で、年紀の乏しい一派にあって唯一の定点である。説明書は本工を「現存する年紀が最も古く、且つ作柄が極めて左文字に接近している刀工が行弘である」と記す。その活躍期は観応元年(一三五〇)紀の短刀によって定まり、これは大左そのものを思わせる出来の国宝とされる。左一派は一世代前に出現し、従来の古典的な九州物の作域を脱して地刃ともに明るく冴えた作風を樹立したが、その大左の高弟、一説にその子と伝える行弘こそ、説明書が師の手に最も近しく置く刀工である。
本工の典型は小振りの短刀で、その刃文が見どころである。地の上に浅いのたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、処々に喰違刃・二重刃を見せる。匂深く小沸厚くつき、細かな金筋・砂流しがよく走り、匂口は明るく冴える。最も本工を語るのは帽子で、のたれ込みに突き上げて先尖り、掃きかけて、最上作では返りを長く焼き下げ、時に上半の棟焼に繋がる。これは備前の丁子ではなく左家の相州伝の線であり、行弘にあっては比較的穏やかで、その働きは大きな房ではなく沸に托される。
地鉄は終始変わらぬところで、説明書が本工を師に最も近しとする所以である。地はよく錬れた板目、時に小板目に杢を交え、やや肌立ち、地沸を微塵に厚く敷き地景を細かに頻りに織り成し、かね明るく冴える。古備前の斑な映りではなく、刃に沿って沸映りが立つ。最上の短刀ではこの地が微塵の地沸と細やかな地景の精良な小板目につまり、説明書が本工に最も至当とする手で、一派が兄弟弟子の国弘にあてる放胆に肌立つより開いた板目とは別である。
長寸の在銘作が遺らぬため、太刀姿の記録は本工と極められた薙刀と刀が担う。極めは本阿弥の金象嵌か伝による。これらはやや幅広く、処々柾がかって流れる肌立つ板目に地沸と映りを見せ、刃は短刀よりやや幅広く穏やかな小乱れまたは浅い小のたれごころの互の目乱れに湯走りを交え、同じく突き上げ尖る乱れ込みの帽子を見せる。鏨使いが本工に酷似する稀な「筑州住左」銘の短刀より、説明書は近年「左文字の作品の中に行弘の代作・代銘が含まれている可能性」を推す。これは、その手がいかに師に近いかから直に生ずる鑑識上の問いである。
説明書が本工の見どころとするのは、まさにその近さである。手の伯仲し、極めが個性の一見どころよりも作域の放胆さに拠る一派にあって、行弘は華やかさではなく精良さによって分かたれる。すなわち最も明るく沸厚き地刃であり、「左文字宛らの出来映えを示した出色の遺例」がそれである。突き上げ尖る帽子と深く冴えた匂口は本工に著しい左一門の見どころで、最上の無銘短刀について説明書は「一脈大左に通ずる出来口」を示し、「行弘と鑑するのが最も至当」と評する。本工は師の手が最も近しく読まれる弟子である。
収集の観点では、稀で手厳しい名である。藤代の極めは上々作。太刀姿の国宝一口を別とすれば、その記録は重要文化財の級と特別重要刀剣・重要刀剣の級を通じ、後者には十口が連なり、うち数口は本工に最も至当とされる無銘の短刀である。来歴は大名家に集まる。本阿弥光徳の金象嵌の薙刀は紀州浅野家に伝わり、同家には名物の太刀『大三原』が対をなし、ほかに徳川家・柳沢家を経たものがあり、現在は土浦市立博物館・五島美術館などが蔵する。在銘作は数口の小短刀に限られ、長寸の在銘作は皆無であるから、私蔵の行弘が世に出ることは稀で、世に出れば一つの画期である。国宝の短刀のように全く手の届かぬものではないが、説明書が大左にこれほど近しく置く工であれば、在銘または優れた極めの一口は、相州物を集める者が出会い得る最も注目すべきものの一つである。