主水正正清は、寛文十年に薩州出水郷に生まれたと伝え、通称を宮原清右衛門といい、また覚太夫とも称したという。薩摩藩工丸田惣左衛門正房に鍛刀の技を学び、初め清盈と銘し、のち正清と改めた。本間による御物台帳は、清盈と銘する以前に景吉と称したともいうが、未だ研究不十分であると記す。享保六年正月、同郷の一平安代と共に八代将軍吉宗に召されて江戸で鍛刀し、幕府から一葉葵紋を茎に切ることを許され、帰途朝廷より主水正に任ぜられた。説明書は享保十五年に六十一歳で歿したとし、台帳は六十六歳とする。説明書は本工を「安代と並んで薩摩新刀の双璧」とする。
本領は古作志津に学んだ相州伝で、説明書はこれを同工の「最も得意とした志津風の作域」とする。小のたれに互の目・小互の目・尖り刃を交え、足・葉入る。匂深く、沸厚く強くつき、荒めの沸を交えてむらづく。刃中には金筋・沸筋が長く頻りに入り、砂流しを伴い、匂口は明るく冴え、処々やや叢となる。台帳は、その作の中には「磨上げられて正宗、志津等に化けているものがある」と記す。
地鉄は総じて強く流れて柾がかる板目で、時に肌立ちごころに杢を交え、時に小板目がよくつむ。地沸厚くつき、荒めの地沸を交え、特別重要刀剣の説明書は変り金風の地景がさかんに入ると記す。帽子は乱れ込みあるいはのたれて先尖り、長い沸筋を伴ってさかんに掃きかけ、深く返り、時に小丸となる。体配は薩摩の堂々たる姿で、身幅極めて広く重ね厚く、平肉豊かにつき、中鋒延びる。説明書はかかる一口の頑健な姿を「正に打ちおろしを見る感がある」と評する。
最も意欲的な作について、説明書はもう一つの見どころを古色と読む。殊に上半、焼頭に湯走り風がさかんに集まり、二重刃状を呈する。説明書は「焼頭に湯走り風がさかんにかかって二重刃状を呈している様には、古色の風が感ぜられる」と記す。これは別の作風ではなく、同じ手の上限である。茎は殆ど生ぶで、入山形あるいは剣形の先へ細り、鑢目浅い勝手下がり、大振りの長銘を切り、多く一葉葵紋と年紀を添える。清盈銘のものは現存極めて少なく、台帳所載の一口は受領後に裏へ再び銘を切る。薩陽麑府住とあるものも同じく受領前の作である。台帳は現存するものでは五字銘が最も多いとし、五字銘の一口を「志津風を写してよほどの傑作であり」、代表作の一口とする。説明書はまた、晩年には子の正近・弟子の正盛の代銘による作が多いと記し、台帳は享保十五年紀の刀を正近の代銘で、恐らく同人の代作と推す。
同国の中では、本工は安代に対して読まれる。安代が穏やかなのたれ調の直刃を多く焼いたのに対し、正清は尖り刃を交え、荒めの沸を帯び、長い金筋の走る変化のある志津風の乱れを焼く。集まる湯走りと、それが成す古色の二重刃も本工自身の見どころである。説明書はその最上の作を「往々古刀上位の作に見まがう」程とする。
国宝・重要文化財はない。その記録は特別重要刀剣・重要刀剣の二十二口(うち特別重要刀剣一口)と、本間による御物台帳所載の刀四口に及び、指定を受けた作は二十六口、すべて在銘である。伝来は当代の名家に及ぶ。享保九年紀の特別重要刀剣の刀は、安代の作と共に鹿児島藩主島津継豊より近衛左大臣家久に献上され、家久は両工に白銀と堂上方寄せ書の六歌仙の歌を贈り、その文書も現存する。また享保九年に安代と共に将軍の命により鹿児島で鍛えた刀は、翌年幕府に献ぜられ、永く徳川家に伝来した。指定を受けた作の多くは取引されず保たれている。志津風の在銘の良品が市に出るのは時にであり、忍耐を要する。年紀と葵紋を切った本領の刀は、なお節目となる収集である。