阿波守藤原在吉は、一般に江戸時代の刀剣書において堀川国広門人とされている。『鍛冶銘早見出』には「阿波守藤原在吉、堀川国広門、寛文」とあり、『新刀一覧』にも「阿波守在吉ト切ル。京都に住ス。堀川国広門人」と記される。在銘の遺作は極めて少なく、刀、脇指、短刀を合わせても僅少である。作刀年代は慶長頃とされ、年紀銘のある作例は慶長二年紀のものが確認されている。この年紀は、国広の堀川定住とされる慶長四年よりも古く、門下の作刀に見られない点からも注目される。
在吉の作風は、板目に杢目、あるいは流れ肌が交じり、肌立ちごころとなる地鉄に特徴がある。「ザングリとした堀川物独特の肌合」と評されるように、地沸が厚くつき、地景がよく入る点も共通する。刃文は大互の目乱れや、のたれに互の目を交えたものなどがあり、足・葉が入り、金筋・砂流しが盛んにかかる。匂口は沈みごころとなり、帽子は乱れ込み、先尖りごころとなるものが見られる。薙刀の作例も稀に現存し、刃文に尖り刃が目立つなど、関物の影響も指摘される。作風は多様で、一口ごとに異なる趣を示すことから、作域の広い刀工とも評される。
在吉の作刀は現存数が少ないため、資料的価値が高い。特に慶長二年紀の作は、国広の作風との関連性を考察する上で重要な資料となる。国広が「古屋打」から「堀川打」に脱皮しようとする過渡期の門人であり、同門中でも古参の弟子であった可能性も指摘されている。作柄には相州上工の作風に通じる点も見られ、国広の「山姥切」との類似性も指摘される。総じて、在吉の作刀は、堀川派の初期における作風や、相州伝の影響を研究する上で欠くことのできない貴重な資料である。