(首切り浅右衛門刀剣押形下巻P149所載) 出ました出ました有名な江戸時代の幕府のお抱え試し斬り家の山野家、後に山田家の首斬り浅右衛門刀剣押し形所載の名刀が出ました。本刀は江戸時代貞享4年(1687年)(338年前)山野吉左衛門尉久豊により人体の腰の一番固い処を死体を二つ重ねて一刀両断し、嘉永元年には(1847年)(178年前)水戸徳川斉昭公の長男10代藩主徳川慶篤公より水戸藩書院番(藩主の親衛隊)内藤啓之助が山田家に持参して藩主の差料として試しを依頼。試しをしたところ脇毛(両乳の所)を一刀両断し、刀の出来と切れ味は大体に宜しい、棟に割れが有る所を補修、樋の中も所々傷が有ります。本刀は数年前にもほかの大名からも拝見して覚えが有ります。大大名の水戸徳川家慶篤公の差料の刀としては如何でしょうかとなかなか 忖度しない厳しい評価ですが、それも本刀の歴史上の面白さです。持参した書院番の内藤啓之助は徳川慶喜公の学問のお相手も務め、後に水戸家の激烈な天狗党と諸生派(保守派)の内乱で諸生派として天狗党の鎮圧の功も立て水戸弘道館教授ともなりましたが後に入獄もし、混乱に紛れて水戸を脱出、明治になり山形県職員、群馬県中学の校長、明治19年東京大学の教授に就任する歴史学者でも有ります。本刀の越前の康継家は結城秀康より400石(現在のお金で年俸8000万円)の侍として遇された名門刀匠です。本刀は徳川将軍家お抱え鍛冶として有名な初代越前康継の三男である下坂四郎右衛門の貴重な刀です。元和七年(1621年)(404年前)初代康継が没した後、長男の二代目下坂市之丞越前康継が後を継ぎましたが二代目越前康継が正保三年(1646年)(379年前)に没した後、二代目康継の子の右馬助が幼少の為、家督騒動が勃発し「権現様御取り立ての家柄で有るから」と旗本阿部四郎五郎の老中への働きかけにより和解し、二代目の子の右馬助が江戸越前康継三代目となり、初代康継の三男下坂四郎右衛門が越前の屋敷を相続して越前康継家を相続し越前での越前康継三代目となりました。江戸時代寛文頃1661年(364年前)から延宝頃1680年(345年前)にかけての作品が有ります。本刀は元重ね厚く元身幅と先身幅との差の有る反りの有る刀姿を現し、地金は板目肌に鍛え、地には地沸や地景をふんだんに現し、彫りは棒樋を彫っています。刃紋は匂い出来に沸の付いた大のたれ刃を焼き刃中互の目刃を交え金筋を多く交え覇気有る刃を焼き上げています。本刀も徳川家ゆかりの大名の特別注文品でしょう。この度古い御数寄者様から自分も年を取りましたので、有名な首斬り浅右衛門刀剣押形所載の名刀を後進の方にお安くお譲り下さいとの事で特別に格安にて御提供いたします刀剣の歴史上も水戸徳川家に関する歴史的にも貴重な名刀を是非お楽しみ下さい。
無銘 · 江戸 · 長さ 72cm · 反り 1.7cm
























新刀 · 越前 · 1660-1673頃
刀剣大鑑 上位14%
現在8点販売中
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 越前
現在54点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
(首切り浅右衛門刀剣押形下巻P149所載) 出ました出ました有名な江戸時代の幕府のお抱え試し斬り家の山野家、後に山田家の首斬り浅右衛門刀剣押し形所載の名刀が出ました。本刀は江戸時代貞享4年(1687年)(338年前)山野吉左衛門尉久豊により人体の腰の一番固い処を死体を二つ重ねて一刀両断し、嘉永元年には(1847年)(178年前)水戸徳川斉昭公の長男10代藩主徳川慶篤公より水戸藩書院番(藩主の親衛隊)内藤啓之助が山田家に持参して藩主の差料として試しを依頼。試しをしたところ脇毛(両乳の所)を一刀両断し、刀の出来と切れ味は大体に宜しい、棟に割れが有る所を補修、樋の中も所々傷が有ります。本刀は数年前にもほかの大名からも拝見して覚えが有ります。大大名の水戸徳川家慶篤公の差料の刀としては如何でしょうかとなかなか 忖度しない厳しい評価ですが、それも本刀の歴史上の面白さです。持参した書院番の内藤啓之助は徳川慶喜公の学問のお相手も務め、後に水戸家の激烈な天狗党と諸生派(保守派)の内乱で諸生派として天狗党の鎮圧の功も立て水戸弘道館教授ともなりましたが後に入獄もし、混乱に紛れて水戸を脱出、明治になり山形県職員、群馬県中学の校長、明治19年東京大学の教授に就任する歴史学者でも有ります。本刀の越前の康継家は結城秀康より400石(現在のお金で年俸8000万円)の侍として遇された名門刀匠です。本刀は徳川将軍家お抱え鍛冶として有名な初代越前康継の三男である下坂四郎右衛門の貴重な刀です。元和七年(1621年)(404年前)初代康継が没した後、長男の二代目下坂市之丞越前康継が後を継ぎましたが二代目越前康継が正保三年(1646年)(379年前)に没した後、二代目康継の子の右馬助が幼少の為、家督騒動が勃発し「権現様御取り立ての家柄で有るから」と旗本阿部四郎五郎の老中への働きかけにより和解し、二代目の子の右馬助が江戸越前康継三代目となり、初代康継の三男下坂四郎右衛門が越前の屋敷を相続して越前康継家を相続し越前での越前康継三代目となりました。江戸時代寛文頃1661年(364年前)から延宝頃1680年(345年前)にかけての作品が有ります。本刀は元重ね厚く元身幅と先身幅との差の有る反りの有る刀姿を現し、地金は板目肌に鍛え、地には地沸や地景をふんだんに現し、彫りは棒樋を彫っています。刃紋は匂い出来に沸の付いた大のたれ刃を焼き刃中互の目刃を交え金筋を多く交え覇気有る刃を焼き上げています。本刀も徳川家ゆかりの大名の特別注文品でしょう。この度古い御数寄者様から自分も年を取りましたので、有名な首斬り浅右衛門刀剣押形所載の名刀を後進の方にお安くお譲り下さいとの事で特別に格安にて御提供いたします刀剣の歴史上も水戸徳川家に関する歴史的にも貴重な名刀を是非お楽しみ下さい。
無銘 · 江戸 · 長さ 72cm · 反り 1.7cm
























新刀 · 越前 · 1660-1673頃
刀剣大鑑 上位14%
現在8点販売中
康繼の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 越前
現在54点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。