Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 地を透かし抜く手法で表わす迫力横溢の剣巻龍の欄間彫りが施された二代康継同然の短刀で、無銘なるが故に下坂の極めとされている。康継や下坂派、貞国といった江戸時代初期の越前刀工には、龍神の力強い彫刻が施された刀や短刀がみられる。櫃内に意匠された剣巻龍図は刀身を引き締めて貫禄があり、技法として困難なこの透し彫は殊のほか貴重である。


Echizen Shimosaka (Shintō; the group from which the Echizen Yasutsugu line arose) · 越前 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
肥後大掾藤原下坂・越前住と銘する第十四回重要刀剣の一刀を、説明は「康継前銘」と読み、康継を慶長十一、二年に銘し始める以前の作とする。そしてそれがこの名の中心の事実へと開く。下坂は一人の刀工ではない。新刀初頭の越前において一団の鍛冶が用いた商標銘であり、指定の記録はその作をこの一銘の下にまとめる。説明はこれを明示する。これらの銘を一人とみるよりは「同人とみるよりは幾人かの鍛冶者の一団であり」、下坂を商標として「下坂を商標として鍛刀していたと解することが妥当であろう」、その初期においては初代康継が「康継がその代表者」であったとする。この名は越前康継家の源流であり、越前が我がものとした深い浮彫の源流でもある。
一派を貫く手は静かで、同時代の華やかな新刀の多くに対置される。記録の悉くが板目に鍛えられ、多くは杢を交え刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地に総体に地沸つき、時にかね黒味がかり地景入る。その上に刃は中直刃から浅いのたれに互の目を交えるまでに及び、小足入り、沸つき、しばしばむらにつき、刃中に砂流しかかり、優れた作には金筋がかかり刃縁が頻りにほつれる。帽子は最も恒常の見どころで、直ぐに小丸となり、多くは先に掃きかける。これは刃の輪郭の豪壮さよりも刃中の働きによって読まれる作風であり、刃中を流れる砂流しが一派の最も恒常的な見どころである。
彫物がいま一つの恒常で、説明が最も進んで地方の特色と名指すものである。深い浮彫・透彫の彫物が corpus を通じて繰り返し現れる。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、ある刀は櫃中に毘沙門天と梵字を、ある短刀は竜虎を力強く彫り、ある薙刀は腰元に摩利支天を彫る。説明はこれを越前独特の彫物「越前彫」と呼び、後の作には越前記内彫「記内彫」と呼んで、一派の手を示す鏨のさらいのやや荒びた感じを記す。肥後大掾藤原の書付はこれに細直刃を加え、匂口しまりごころに沈み、地に白け映り立ち、説明がこの初期の手を康継の作に通じる点があると読む。
この名が商標であるため、corpus は一様式によってよりも、説明自身が分かつ書付によって読むのがよい。最も古いのは肥後大掾藤原下坂の銘で、従来康継自身の初銘とされ、説明はこれを「康継前銘」と呼ぶ。しかし肥後大掾の受領は同時に数工の越前刀工が冠したもので、説明は「肥後大掾下坂銘は、従来初代康継の初銘とされてきた」としつつ「康継一人とは限らない」とし、初代康継・貞国・兼法・国康・正勝を、鏨運びも筆意も作風も酷似して現時点で分かち得ぬ手として挙げる。この書付と並ぶのが一般の越前国下坂の作で、説明が「康継とは全くの別人の作」と判じ「個名を明らかにし得ないが一門の上手」と呼ぶ手であり、上手ながら名を明かさず、年代は慶長元和を下らない。説明があえて名指す手は二つある。茎まで通る片切刃の短刀を、慶長十一年紀の同手と下坂兼先銘に通じる銘振りより兼先と読み、反り深い薙刀もまた恐らく兼先とする。
いま一つの名指された手は商標を越前の外へと運び、一派の置きどころを示す。下坂八郎左衛門を説明は「下坂八郎左衛門は本国が近江であり」、生国を一にする久留米藩主田中吉政に抱えられて筑後に移ったとする。その長銘ある筑後打ちの慶長八年紀の薙刀は、頭の張った反り深い造込みに前時代の特色を継承した姿を見せ、説明はその茎の銘文を「下坂鍛冶研究の貴重な好資料である」とする。説明の引く区別は作風のみならず名と経歴によるもので、個名は銘と記録された生涯より読まれ、それが読み得ぬ作の悉くにおいては評は一つである。すなわち「下坂一門の作として優品であることには異論はない」、個名がいかであれ下坂一門の優品である。
この名は記録上九口の重要刀剣に伝わり、短刀四口・薙刀二口・刀二口・脇指一口、いずれも在銘で無銘はなく、出来は藤代の上々作とされる。国宝も重要文化財もなく、一派は名だたる蔵伝ではなく指定の重要刀剣を通して出会われる。所在の知れるもののうち一口は東京国立博物館にあり、ある薙刀は三ツ葉葵紋を蒔絵にした金梨子地の拵を伴って残り、説明はこれを大名の御腰入れ道具の一つと見る。伝来はその他に記録がなく、これは作が一人の名工の手としてよりも新刀初期の鍛冶集団の資料として価され、そのいくつかが説明に一派の手を定める資料と称えられるためでもある。在銘の越前下坂は収集家のもとに稀に現れ、重要刀剣の短刀か薙刀がその現実の出会いであり、より得難いのは肥後大掾藤原の康継前銘の書付、あるいは越前康継家の興った一団のうちに置かれる、兼先か八郎左衛門の名指された一口である。
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 地を透かし抜く手法で表わす迫力横溢の剣巻龍の欄間彫りが施された二代康継同然の短刀で、無銘なるが故に下坂の極めとされている。康継や下坂派、貞国といった江戸時代初期の越前刀工には、龍神の力強い彫刻が施された刀や短刀がみられる。櫃内に意匠された剣巻龍図は刀身を引き締めて貫禄があり、技法として困難なこの透し彫は殊のほか貴重である。


Echizen Shimosaka (Shintō; the group from which the Echizen Yasutsugu line arose) · 越前 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
肥後大掾藤原下坂・越前住と銘する第十四回重要刀剣の一刀を、説明は「康継前銘」と読み、康継を慶長十一、二年に銘し始める以前の作とする。そしてそれがこの名の中心の事実へと開く。下坂は一人の刀工ではない。新刀初頭の越前において一団の鍛冶が用いた商標銘であり、指定の記録はその作をこの一銘の下にまとめる。説明はこれを明示する。これらの銘を一人とみるよりは「同人とみるよりは幾人かの鍛冶者の一団であり」、下坂を商標として「下坂を商標として鍛刀していたと解することが妥当であろう」、その初期においては初代康継が「康継がその代表者」であったとする。この名は越前康継家の源流であり、越前が我がものとした深い浮彫の源流でもある。
一派を貫く手は静かで、同時代の華やかな新刀の多くに対置される。記録の悉くが板目に鍛えられ、多くは杢を交え刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地に総体に地沸つき、時にかね黒味がかり地景入る。その上に刃は中直刃から浅いのたれに互の目を交えるまでに及び、小足入り、沸つき、しばしばむらにつき、刃中に砂流しかかり、優れた作には金筋がかかり刃縁が頻りにほつれる。帽子は最も恒常の見どころで、直ぐに小丸となり、多くは先に掃きかける。これは刃の輪郭の豪壮さよりも刃中の働きによって読まれる作風であり、刃中を流れる砂流しが一派の最も恒常的な見どころである。
彫物がいま一つの恒常で、説明が最も進んで地方の特色と名指すものである。深い浮彫・透彫の彫物が corpus を通じて繰り返し現れる。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、ある刀は櫃中に毘沙門天と梵字を、ある短刀は竜虎を力強く彫り、ある薙刀は腰元に摩利支天を彫る。説明はこれを越前独特の彫物「越前彫」と呼び、後の作には越前記内彫「記内彫」と呼んで、一派の手を示す鏨のさらいのやや荒びた感じを記す。肥後大掾藤原の書付はこれに細直刃を加え、匂口しまりごころに沈み、地に白け映り立ち、説明がこの初期の手を康継の作に通じる点があると読む。
この名が商標であるため、corpus は一様式によってよりも、説明自身が分かつ書付によって読むのがよい。最も古いのは肥後大掾藤原下坂の銘で、従来康継自身の初銘とされ、説明はこれを「康継前銘」と呼ぶ。しかし肥後大掾の受領は同時に数工の越前刀工が冠したもので、説明は「肥後大掾下坂銘は、従来初代康継の初銘とされてきた」としつつ「康継一人とは限らない」とし、初代康継・貞国・兼法・国康・正勝を、鏨運びも筆意も作風も酷似して現時点で分かち得ぬ手として挙げる。この書付と並ぶのが一般の越前国下坂の作で、説明が「康継とは全くの別人の作」と判じ「個名を明らかにし得ないが一門の上手」と呼ぶ手であり、上手ながら名を明かさず、年代は慶長元和を下らない。説明があえて名指す手は二つある。茎まで通る片切刃の短刀を、慶長十一年紀の同手と下坂兼先銘に通じる銘振りより兼先と読み、反り深い薙刀もまた恐らく兼先とする。
いま一つの名指された手は商標を越前の外へと運び、一派の置きどころを示す。下坂八郎左衛門を説明は「下坂八郎左衛門は本国が近江であり」、生国を一にする久留米藩主田中吉政に抱えられて筑後に移ったとする。その長銘ある筑後打ちの慶長八年紀の薙刀は、頭の張った反り深い造込みに前時代の特色を継承した姿を見せ、説明はその茎の銘文を「下坂鍛冶研究の貴重な好資料である」とする。説明の引く区別は作風のみならず名と経歴によるもので、個名は銘と記録された生涯より読まれ、それが読み得ぬ作の悉くにおいては評は一つである。すなわち「下坂一門の作として優品であることには異論はない」、個名がいかであれ下坂一門の優品である。
この名は記録上九口の重要刀剣に伝わり、短刀四口・薙刀二口・刀二口・脇指一口、いずれも在銘で無銘はなく、出来は藤代の上々作とされる。国宝も重要文化財もなく、一派は名だたる蔵伝ではなく指定の重要刀剣を通して出会われる。所在の知れるもののうち一口は東京国立博物館にあり、ある薙刀は三ツ葉葵紋を蒔絵にした金梨子地の拵を伴って残り、説明はこれを大名の御腰入れ道具の一つと見る。伝来はその他に記録がなく、これは作が一人の名工の手としてよりも新刀初期の鍛冶集団の資料として価され、そのいくつかが説明に一派の手を定める資料と称えられるためでもある。在銘の越前下坂は収集家のもとに稀に現れ、重要刀剣の短刀か薙刀がその現実の出会いであり、より得難いのは肥後大掾藤原の康継前銘の書付、あるいは越前康継家の興った一団のうちに置かれる、兼先か八郎左衛門の名指された一口である。
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。