肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別保存刀剣鑑定書付 近江大掾藤原忠広(金象嵌截断銘) 【解説】 本作は、肥前刀の開祖である初代忠吉の実子、近江大掾藤原忠広による一振りです。忠広は寛永から元禄期(1624-1688年)にかけて活躍した名工です。本作の茎(なかご)には「截断銘(さいだんめい)」が刻まれており、これは試し斬りの結果とその執刀者名を記したものです。すなわち、本作が圧倒的な切れ味を誇る実戦的な名刀であることを証明しています。 父である初代忠吉は江戸時代初期を代表する名工の一人であり、肥前国(現在の佐賀県)を日本屈指の刀剣制作の拠点へと押し上げました。忠広は父の指導のもとで研鑽を積み、寛永9年(1632年)に父が没するまでその技を学びました。 忠広はわずか19歳で家督を継ぎ、同年より作刀を開始しました。若くして一門を率いたという事実は、彼の卓越した技量と、父の弟子たちの厚い信頼を物語っています。寛永18年(1641年)に近江大掾を受領。その後、強力な外様大名であった鍋島家の御用鍛冶として、約60年という長きにわたり作刀を続けました。 元禄6年(1693年)、81歳で没するまでに数多くの優品を残しており、門下からは三代陸奥大掾忠吉、播磨大掾忠国、河内大掾正広といった錚々たる名工を輩出しています。 忠広をはじめとする肥前鍛冶は、鍋島藩の厚い庇護のもとにありました。彼らは阿蘭陀鉄(オランダから輸入された炭素鋼)を独自の技法で和鉄に組み込み、「肥前鉄」と呼ばれる非常に美しく緻密な肌合い(小板目肌)を生み出したことで知られています。 (初代忠吉について) 初代忠吉は肥前佐賀藩に生まれ、慶長元年(1596年)、藩命により京都の埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入りました。明寿は新刀の祖と仰がれる巨匠であり、忠吉はそこで高度な技術を習得。慶長3年に帰郷すると、藩主・鍋島勝茂公にその腕を高く評価され、御抱え鍛冶として召し抱えられました。佐賀城下に居を構えた忠吉は、江戸時代を通じて100名以上の職人を擁する「肥前忠吉一門」の礎を築きました。 (截断銘について) 茎の銘文によれば、本作の試し斬りを行ったのは、幕府御用試刀術を司った山野勘十郎久英(やまのかんじゅうろうひさひで)です。 この截断銘は「金象嵌銘(きんぞうがんめい)」、すなわち茎に文字を彫り込み、そこに金を埋め込む技法で施されています。これは公式な試斬記録など、特に重要な事項を記す際に用いられる格式高い手法であり、その刀の権威と価値を一層高めるものです。 銘文には、寛文12年(1672年)7月12日に試験が行われた旨が記され、最後には執刀者の署名である「花押(かおう)」が据えられています。 江戸時代、公式な試し斬りには処刑された罪人の遺体が用いられました。本作に刻まれた「貳ツ胴截断(ふたつどうさいだん)」とは、二つの胴体を一太刀で切り落としたことを意味します。この銘は、本作が美術品としての美しさのみならず、武器として比類なき斬れ味を備えていることの証左です。 本作は、公益財団法人 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは、保存状態が極めて良好であり、かつ美術的価値が特に高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。
Certificate reading — 銘 近江大掾藤原忠広 寛文十二年壬子七月十二日 (金象嵌) 山野勘十郎久英(花押) 貳ッ胴切落



























Hizen (Saga) · 肥前 · 1633-1693頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在27点販売中
忠廣は通称を平作郎といい、肥前初代忠吉の嫡子で、佐賀の本家二代を継いだ。寛永九年、晩年に武蔵大掾忠広と称した父が歿した時は未だ十九歳の青年であった。説明書は、彼の天分と技量に加え、「初代当時そのままの弟子達の協力によって」[[c:12]]若い頭領が家名を守ったとし、寛永十年紀の作から現存する。寛永十八年七月廿二日に近江大掾を受領し、元禄六年に八十一歳で歿した。作刀歴は六十有余年に及び、説明書の言う通り「肥前刀工中でも最も多くの作品を残している」[[c:1]]。
作風は「直刃と丁子乱れの両様があり、いずれも上手である」[[c:13]]とされ、なかでも「直刃を最も得意とし」[[c:2]]、比較的真直ぐな刃を焼いて匂深く小沸がよくつく。中直刃に時に浅くのたれごころをおびて小互の目を交え、足・葉よく入り、細かに金筋・砂流しがかかり、匂口は部分的に帯状となって明るく冴える。帽子は直ぐに小丸に返る。姿は均整の取れた肥前の反り格好で、時に身幅広く長寸で重ね厚く、元に踏張りごころを見せる。
地鉄は肥前の米糠肌で、一切の緩みなくよくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って、かね冴える。最上の作について説明書は鍛えのよさを無類とし、地刃ともに冴えるとする。また「真鍛作」の添銘は「肥前刀工中、二代忠広からはじまる」[[c:3]]もので、この添銘のある作刀は出来のよいものが多い。
作域は作風のみならず時期によっても分かれる。近江大掾受領までは皆「肥前国住藤原忠広」[[c:14]]と初代忠広の献上銘と同様に切り、説明書は両者を「藤」と「廣」の字形で見分ける。「受領以前の作には多く年紀を見るが」[[c:15]]受領後の作に年紀は少なく、正保・慶安・延宝の年紀作はそれゆえ貴重とされる。この初期作は若打とされ、受領後の通常の作に比して「こだわりのない放胆さが窺える」[[c:4]]。また父の武蔵大掾の作に迫るものがあるのは「初代の協力者達が未だ現存して」[[c:16]]彼を助けたためとされる。丁子乱れは両期を通じて見られ、説明書は「丁子乱れは初代を凌ぐ程の上手で」[[c:5]]あるとする。焼幅広く互の目を交えた丁子で、「焼頭が比較的揃い、丁子が肩をならべている」[[c:17]]ところに「二代忠広の丁子乱れの手くせが窺える」[[c:18]]とされ、足が長く頻りに入り乱れの谷に沸がよくつく。これを「いわゆる肥前特有の足長丁子」[[c:6]]と呼ぶ。受領の日を年紀とする特別重要刀剣の刀は、来物を写したと思われる古調な中直刃で、「受領に際しての記念作と推測される」[[c:7]]。吉長の彫と思われる小振りの短刀は「古作来国光などをねらったものであろう」[[c:8]]とされる。
肥前本家にあって、彼の長い作刀歴は初代と後代とをつなぐ。多くの子弟を養い、説明書は「三代忠吉、四代忠吉等もその代作、代銘に任じており」[[c:9]]と記す。嫡子三代陸奥守忠吉との父子合作は茎の表裏に各々の銘を切り、比較的多く現存するが、そのうちには説明書が地刃の作風から三代の手になる、或いは三代主導とするものもある。米糠肌に匂深い直刃を焼く彼の作風は、後の肥前刀を読む基準となった。
藤代は上々作に列する。国宝・重要文化財の指定はなく、その位置は特別重要刀剣と重要刀剣の両位にある百三十一口、うち特別重要刀剣三口に拠る。説明書はその一口を「同作中傑出した出来映えをあらわしている」[[c:10]]とし、地刃ともに力強く放胆な作と評する。伝来は皇室および彼の家が仕えた鍋島家に及び、ある刀は「藩政時代には肥前国鍋島藩主鍋島勝茂の指料であった一口である」[[c:11]]。また一口の薙刀は「鍋島家の女薙刀」の拵に収まって伝わる。多作であったため、近江大掾忠広の在銘作は市場に折々姿を見せ、重要刀剣の一口は根気ある収集家の手の届くところにある。特別重要刀剣や受領以前の年紀作は、時に姿を見せるのみである。
忠廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 肥前
現在132点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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