番号:AS26140 刀:白鞘入り(日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣) 銘文:肥前国住近江大掾藤原忠広 (弊社では刀剣の出来映えにより、最高作、上々作、上作、普通作と四段階に評価しております。本作は肥前国住近江大掾藤原忠広としては、上々作にランクされる作品です。) ハバキ:金着一重ハバキ 長さ:66.97 cm (2.21尺) 反り:1.52 cm (5分) 目釘穴:2個 元幅:3.07 cm 先幅:1.90 cm 重ね:0.69 cm 重量:670 グラム 時代:江戸時代初期(17世紀後半頃) 体配:身幅やや広く重ね厚く、先にかけて細くなる姿の良い一振りです。 地鉄:小板目肌よく詰み、地沸が厚くついた美しい小糠肌となります。 刃文:沸出来の直刃で、匂口深く柔らかく沈みます。 特徴:肥前国住藤原忠広は初代忠吉の実子で、寛永10年(1633年)頃より作刀が見られ、寛永18年(1641年)に近江大掾を受領しました。生涯「忠吉」の名を継ぐことはなく、一貫して「忠広」と銘じました。元禄6年(1693年)に80歳で没するまで約60年間にわたり作刀を続け、その作域は広く多作です。切れ味の鋭さでも知られ、大業物に列しています。特に地鉄の美しさは肥前刀の中でも随一と評され、精良な小糠肌は高く評価されています。 日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣鑑定書 葵美術評価鑑定書:全身押し形 備考:価格には海外送料は含まれておりません。 オークション開始価格:1,100,000 JPY 入札する 関連商品: 刀:肥前国住近江大掾藤原忠広(特別保存刀剣) 刀:肥前国住近江大掾藤原忠広(特別保存刀剣) 刀:肥前国住近江大掾藤原忠吉(特別保存刀剣) 刀:肥前住播磨大掾藤原忠国(特別保存刀剣) 刀:越前住播磨大掾藤原重高(初代)/ 石見守藤原
Auction status: live on sword-auction.com.
在銘 · 江戸 · 長さ 66.97cm · 反り 1.52cm





Hizen Tadayoshi (Saga) · 肥前 · 1624-1693頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在24点販売中
この名のもとに立つのは肥前本家の二代、近江大掾藤原忠広であり、佐賀の一門が生んだ最も多作の名工である。説明書はその生涯を平明に記す。初代忠吉の嫡子で、寛永九年(一六三二)に父が歿した時は十九歳の青年であったが、同年から作刀が見られ、初代忠広当時の弟子達の協力に助けられた。寛永十八年(一六四一)に近江大掾を受領し、元禄六年(一六九三)に八十一歳で歿するまで、六十有余年に及ぶ作刀生活を送った。その間について説明書は、肥前の工のうち「肥前刀工中でも最も多くの作品を遺している」[[c:1]]と記す。本コードには初代自身の最晩年も並び立つ。元和十年(一六二四)、五十三歳で初代忠吉が武蔵大掾を受領して名を忠広と改めたため、武蔵大掾藤原忠広と銘した晩年作は、第二の名における初代その人である。
二代の手は二様に読まれ、説明書はいずれも上手とする。ある特別重要刀剣の刀には「直刃と丁子乱れの両様があり、いずれも上手である」[[c:2]]と記される。最も得意としたのは中直刃である。緻密に鍛えて肥前の米糠肌となった小板目に、地沸が微塵に厚く敷かれ地景の細かに入る地を置き、その上に浅くのたれごころを帯び処々に小互の目・尖りごころを交えた中直刃を焼く。足・葉よく入り、匂口は深く部分的に帯状となり、小沸厚くつき、細かな金筋・砂流しが刃縁の打のけ風とともに自然に織りなされる。総じて匂口は明るく冴え、帽子は直ぐに小丸を結ぶ。
地鉄は終始変わらぬところである。一門の米糠肌、すなわち緩みなく緻密に鍛えた小板目で、説明書はある作を一切の緩みなしと評し、地沸が微塵に厚く敷かれて潤いを帯び、かね明るい。その静かな地に対して刃は落ち着き、高ぶる時はもう一様、華やかな肥前丁子乱れとなる。互の目を交えた丁子に足・葉長く入り、匂深く小沸つき、金筋・砂流しがかかる。ある重要刀剣の太刀について説明書は、この丁子こそ父にはなかったものとし、「丁子乱は父忠吉にはない整った乱刃を焼いている」[[c:3]]と記す。帽子は両様ともに同じ直ぐの小丸である。
二つの作域と二つの世代が作品群に形を与える。二代の直刃がその本体で、丁子はその華やかな例外であり、説明書はその丁子を父の乱れ刃に通うものとしつつ、彼がこれを我が物としたさまを述べる。年紀の入る作はその像を鋭くする。ある特別重要刀剣の刀は、寛永十八年に近江大掾を受領したまさにその日を年紀とし、受領記念作と推測されて受領銘の最初期作の一つに数えられ、その出来は「来物を写したと思われる古調な出来口」[[c:4]]と読まれる。初代晩年の武蔵大掾の作域は第三の面をなす。沸深い丁子乱れを梨子地ごころの小板目に焼き、数口は京の師家たる埋忠明寿・埋忠七左の彫、梵字に倶利迦羅や不動明王を帯び、説明書はその彫を「錦上花を添えている」[[c:5]]と評する。
肥前一門におけるその位置は明確である。京の埋忠の修業を佐賀に持ち帰った祖たる父と、本家へ忠吉銘を返上されて襲名し上三代中最も強く鍛える手と称される嫡子の三代との間にあって、彼は多作の中心に立つ。その明るい米糠肌の匂深い直刃は後の肥前刀を読む基準をなす。父とは、共有する直刃によってではなく父の試みなかった整った丁子によって分かたれ、肥前の下手とは、地鉄の冴えと匂口の明るさによって分けられる。常の落ち着きを越える時はそれと名指される。ある特別重要刀剣の刀について説明書は「常々の同作に比して、地刃共に力強く、放胆で迫力のある一口である」[[c:6]]と記す。
収集の観点では、新刀の大名跡のうち比較的入手しやすい一人で、これは長く多産な生涯の自然な帰結である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は特別重要刀剣・重要刀剣の一六四口を通じ、うち三口が特別重要刀剣、初代の武蔵大掾の作には重要美術品がある。来歴は彼の仕えた家に及ぶ。鍋島家、鍋島勝茂・鍋島直朝、そして皇室に伝わる一口があり、説明書は鍋島家が同家へ納める刀に受領銘を切らせたと記す。多作ゆえに在銘の近江大掾忠広はその格の名工としては比較的見出しやすく、その直刃の刀は時に上位の各位に現れる。とはいえ指定を受けた作の多くは伝えられて市場には出ず、特別重要刀剣の一口や初代の埋忠彫の作に出会うことは稀で、一門が最も多く打った頃を語る証である。
忠廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
Shinto · 肥前
現在116点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。
番号:AS26140 刀:白鞘入り(日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣) 銘文:肥前国住近江大掾藤原忠広 (弊社では刀剣の出来映えにより、最高作、上々作、上作、普通作と四段階に評価しております。本作は肥前国住近江大掾藤原忠広としては、上々作にランクされる作品です。) ハバキ:金着一重ハバキ 長さ:66.97 cm (2.21尺) 反り:1.52 cm (5分) 目釘穴:2個 元幅:3.07 cm 先幅:1.90 cm 重ね:0.69 cm 重量:670 グラム 時代:江戸時代初期(17世紀後半頃) 体配:身幅やや広く重ね厚く、先にかけて細くなる姿の良い一振りです。 地鉄:小板目肌よく詰み、地沸が厚くついた美しい小糠肌となります。 刃文:沸出来の直刃で、匂口深く柔らかく沈みます。 特徴:肥前国住藤原忠広は初代忠吉の実子で、寛永10年(1633年)頃より作刀が見られ、寛永18年(1641年)に近江大掾を受領しました。生涯「忠吉」の名を継ぐことはなく、一貫して「忠広」と銘じました。元禄6年(1693年)に80歳で没するまで約60年間にわたり作刀を続け、その作域は広く多作です。切れ味の鋭さでも知られ、大業物に列しています。特に地鉄の美しさは肥前刀の中でも随一と評され、精良な小糠肌は高く評価されています。 日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣鑑定書 葵美術評価鑑定書:全身押し形 備考:価格には海外送料は含まれておりません。 オークション開始価格:1,100,000 JPY 入札する 関連商品: 刀:肥前国住近江大掾藤原忠広(特別保存刀剣) 刀:肥前国住近江大掾藤原忠広(特別保存刀剣) 刀:肥前国住近江大掾藤原忠吉(特別保存刀剣) 刀:肥前住播磨大掾藤原忠国(特別保存刀剣) 刀:越前住播磨大掾藤原重高(初代)/ 石見守藤原
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在銘 · 江戸 · 長さ 66.97cm · 反り 1.52cm





Hizen Tadayoshi (Saga) · 肥前 · 1624-1693頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在24点販売中
この名のもとに立つのは肥前本家の二代、近江大掾藤原忠広であり、佐賀の一門が生んだ最も多作の名工である。説明書はその生涯を平明に記す。初代忠吉の嫡子で、寛永九年(一六三二)に父が歿した時は十九歳の青年であったが、同年から作刀が見られ、初代忠広当時の弟子達の協力に助けられた。寛永十八年(一六四一)に近江大掾を受領し、元禄六年(一六九三)に八十一歳で歿するまで、六十有余年に及ぶ作刀生活を送った。その間について説明書は、肥前の工のうち「肥前刀工中でも最も多くの作品を遺している」[[c:1]]と記す。本コードには初代自身の最晩年も並び立つ。元和十年(一六二四)、五十三歳で初代忠吉が武蔵大掾を受領して名を忠広と改めたため、武蔵大掾藤原忠広と銘した晩年作は、第二の名における初代その人である。
二代の手は二様に読まれ、説明書はいずれも上手とする。ある特別重要刀剣の刀には「直刃と丁子乱れの両様があり、いずれも上手である」[[c:2]]と記される。最も得意としたのは中直刃である。緻密に鍛えて肥前の米糠肌となった小板目に、地沸が微塵に厚く敷かれ地景の細かに入る地を置き、その上に浅くのたれごころを帯び処々に小互の目・尖りごころを交えた中直刃を焼く。足・葉よく入り、匂口は深く部分的に帯状となり、小沸厚くつき、細かな金筋・砂流しが刃縁の打のけ風とともに自然に織りなされる。総じて匂口は明るく冴え、帽子は直ぐに小丸を結ぶ。
地鉄は終始変わらぬところである。一門の米糠肌、すなわち緩みなく緻密に鍛えた小板目で、説明書はある作を一切の緩みなしと評し、地沸が微塵に厚く敷かれて潤いを帯び、かね明るい。その静かな地に対して刃は落ち着き、高ぶる時はもう一様、華やかな肥前丁子乱れとなる。互の目を交えた丁子に足・葉長く入り、匂深く小沸つき、金筋・砂流しがかかる。ある重要刀剣の太刀について説明書は、この丁子こそ父にはなかったものとし、「丁子乱は父忠吉にはない整った乱刃を焼いている」[[c:3]]と記す。帽子は両様ともに同じ直ぐの小丸である。
二つの作域と二つの世代が作品群に形を与える。二代の直刃がその本体で、丁子はその華やかな例外であり、説明書はその丁子を父の乱れ刃に通うものとしつつ、彼がこれを我が物としたさまを述べる。年紀の入る作はその像を鋭くする。ある特別重要刀剣の刀は、寛永十八年に近江大掾を受領したまさにその日を年紀とし、受領記念作と推測されて受領銘の最初期作の一つに数えられ、その出来は「来物を写したと思われる古調な出来口」[[c:4]]と読まれる。初代晩年の武蔵大掾の作域は第三の面をなす。沸深い丁子乱れを梨子地ごころの小板目に焼き、数口は京の師家たる埋忠明寿・埋忠七左の彫、梵字に倶利迦羅や不動明王を帯び、説明書はその彫を「錦上花を添えている」[[c:5]]と評する。
肥前一門におけるその位置は明確である。京の埋忠の修業を佐賀に持ち帰った祖たる父と、本家へ忠吉銘を返上されて襲名し上三代中最も強く鍛える手と称される嫡子の三代との間にあって、彼は多作の中心に立つ。その明るい米糠肌の匂深い直刃は後の肥前刀を読む基準をなす。父とは、共有する直刃によってではなく父の試みなかった整った丁子によって分かたれ、肥前の下手とは、地鉄の冴えと匂口の明るさによって分けられる。常の落ち着きを越える時はそれと名指される。ある特別重要刀剣の刀について説明書は「常々の同作に比して、地刃共に力強く、放胆で迫力のある一口である」[[c:6]]と記す。
収集の観点では、新刀の大名跡のうち比較的入手しやすい一人で、これは長く多産な生涯の自然な帰結である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は特別重要刀剣・重要刀剣の一六四口を通じ、うち三口が特別重要刀剣、初代の武蔵大掾の作には重要美術品がある。来歴は彼の仕えた家に及ぶ。鍋島家、鍋島勝茂・鍋島直朝、そして皇室に伝わる一口があり、説明書は鍋島家が同家へ納める刀に受領銘を切らせたと記す。多作ゆえに在銘の近江大掾忠広はその格の名工としては比較的見出しやすく、その直刃の刀は時に上位の各位に現れる。とはいえ指定を受けた作の多くは伝えられて市場には出ず、特別重要刀剣の一口や初代の埋忠彫の作に出会うことは稀で、一門が最も多く打った頃を語る証である。
忠廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
Shinto · 肥前
現在116点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。