戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
骨董刀剣 大小 正利・兼元(NTHK鑑定書付) 【解説】 打刀 本作は、幕末(19世紀中期)の作州(現在の岡山県)で活躍した正利の作と極められた一口です。NTHKの鑑定によれば、本工の本名は多田四郎右衛門といい、「作陽幕下士多田正利」あるいは「作州藩士多田四郎右衛門尉正利」と銘を切ります。「作陽幕下士」とは美作津山藩の藩士であることを意味します。「作陽」および「作州」は美作国の別称であり、古くは備前国から分立した地域です。鑑定によれば、本作は文久年間(1861-1864年)頃の製作と推測されます。 正利は、幕末の美作で活動した津山藩工・多田兼利の子として生まれました。後に幕末期を代表する名工の一人である細川正義に師事し、作刀技術を学んだと伝えられています。 師である細川正義は、天明6年(1786年)に下野国鹿沼(現在の栃木県)で細川良助正義の子として生まれました。当初は「正能」と名乗り、宇都宮藩主・戸田家に仕えましたが、後に日本刀史上屈指の名工である水心子正秀の門を叩きます。その後、父の名を継いで二代細川正義となり、美作津山藩松平家の御抱え鍛冶となりました。御抱え鍛冶とは、特定の藩に専属で仕える刀匠のことです。正義は銘に「作陽幕下士」と冠することが多いですが、実際には江戸の藩邸にて作刀に従事していたと言われています。正義は非常に技量が高く、初期には大坂新刀を写しましたが、後に備前伝や相州伝を極め、安政5年(1858年)に73歳で没しました。 正利は師譲りの優れた技術を習得した後、幕末の美作において高名な鍛冶となり、九人の門弟を育てました。門人の一人である信勝が熊本藩の工となった縁で、正利も肥後国(現在の熊本県)に滞在し作刀を行っています。正利は元治元年(1864年)に没しました。 脇差 本作は室町時代後期(15世紀後半〜16世紀初頭)の末関兼元と極められた一口です。 「兼元」の名は室町時代から平成の現代に至るまで、27代にわたり受け継がれてきた名跡です。 歴代の中でも、室町時代の美濃を代表する名工である二代兼元(通称:孫六)が最も名高く、美濃伝の真髄を極めたことで知られています。兼元の一派は、杉の木が連なっているような形状の「三本杉」と呼ばれる独特の互の目乱れの刃文を得意とし、その高度な技術は後世の代々へと継承されました。 美濃伝について 美濃伝は、武器の需要が激増した戦国時代に大いに繁栄しました。美濃国は地理的にも要衝であり、明智光秀が美濃を治め、織田信長が隣国・尾張を統治した時代背景も影響しています。








































美濃伝 · 美濃 · 1573-1592頃
刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
美濃伝 · 美濃
現在27点販売中
兼元は、美濃国関を本拠とした末美濃の刀工で、室町時代後期に和泉守兼定と並んで美濃鍛冶を代表する家系である。同名が相継いで栄えたが、なかでも最も技量にすぐれるのは二代で、世上この兼元を指して「孫六兼元」と呼称し賞翫してきた。「孫六」は兼元家代々の通称であり、二代がとりわけ著名であることから、この称がそのまま二代の代名詞として用いられている。居住地を明示した作には「濃州赤坂住」と切るものがあり、赤坂を一つの拠点としていたことが知られる。説示には明応・享禄・大永などの年紀を有する作が挙げられ、紀年銘の比較的少ない同家にあって、これらは作期や系統を研究するうえで好資料とされている。 作風の中核をなすのは、三本杉と称される尖り互の目の連れた刃文である。各代を通じてこの刃文を得意とするが、二代と後代とでは趣を異にする。代が下ると尖り刃の形が鋭角的で規則正しく揃うのに対し、二代は互の目の頭が処々丸みをおびて変化を見せ、三本杉のほかに二本杉・四本杉・五本杉といった群落を交えるなど画一的でないところに特色がある。説示はこれを行草の体の三本杉と評し、刃取りに起伏を見せて変化に富む点を二代の見どころとする。地鉄は板目に杢・流れ柾を交えて肌立ちごころとなり、地沸が細かにつき、地景が入り、白け映りが立つのが常で、帽子は乱れ込んで先丸く地蔵状に返るものが多い。一方、初代はあまり三本杉が目立たず、互の目に互の目丁子を交え、時に湯走り・飛焼を伴うものが多く、年紀は明応六年を最も古いものとし、居住地はすべて濃州赤坂住と切られる。二代と初代、さらに後代との別は、こうした刃文の構成と地鉄の風合いから見分けられる。 伝来をみると、二代兼元は実戦刀としての評価が高く、元亀元年の姉川の戦で青木一重が真柄真隆を討ったと伝える青木兼元、また截断銘を裏に施した作などが知られ、切れ味を尊ぶ風が早くから付随していた。金象嵌で笹露と号した作のように、所持者の名とともに伝えられた優品もある。作刀は薙刀・刀・脇指・短刀に及び、長寸で先の張った雄勁な造込みのものから、来写し・京物写しと目される稀な直刃の上品な短刀まで幅があり、二代の技量の振幅を伝えている。説示はこれらを孫六兼元の典型かつ出色の出来口として位置づけ、行体の三本杉が匂口明るくよく沸え、地刃ともに冴える点を賞するとともに、末関を代表する刀工としての名声を確かなものとしている。 詳しく見る →
戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
骨董刀剣 大小 正利・兼元(NTHK鑑定書付) 【解説】 打刀 本作は、幕末(19世紀中期)の作州(現在の岡山県)で活躍した正利の作と極められた一口です。NTHKの鑑定によれば、本工の本名は多田四郎右衛門といい、「作陽幕下士多田正利」あるいは「作州藩士多田四郎右衛門尉正利」と銘を切ります。「作陽幕下士」とは美作津山藩の藩士であることを意味します。「作陽」および「作州」は美作国の別称であり、古くは備前国から分立した地域です。鑑定によれば、本作は文久年間(1861-1864年)頃の製作と推測されます。 正利は、幕末の美作で活動した津山藩工・多田兼利の子として生まれました。後に幕末期を代表する名工の一人である細川正義に師事し、作刀技術を学んだと伝えられています。 師である細川正義は、天明6年(1786年)に下野国鹿沼(現在の栃木県)で細川良助正義の子として生まれました。当初は「正能」と名乗り、宇都宮藩主・戸田家に仕えましたが、後に日本刀史上屈指の名工である水心子正秀の門を叩きます。その後、父の名を継いで二代細川正義となり、美作津山藩松平家の御抱え鍛冶となりました。御抱え鍛冶とは、特定の藩に専属で仕える刀匠のことです。正義は銘に「作陽幕下士」と冠することが多いですが、実際には江戸の藩邸にて作刀に従事していたと言われています。正義は非常に技量が高く、初期には大坂新刀を写しましたが、後に備前伝や相州伝を極め、安政5年(1858年)に73歳で没しました。 正利は師譲りの優れた技術を習得した後、幕末の美作において高名な鍛冶となり、九人の門弟を育てました。門人の一人である信勝が熊本藩の工となった縁で、正利も肥後国(現在の熊本県)に滞在し作刀を行っています。正利は元治元年(1864年)に没しました。 脇差 本作は室町時代後期(15世紀後半〜16世紀初頭)の末関兼元と極められた一口です。 「兼元」の名は室町時代から平成の現代に至るまで、27代にわたり受け継がれてきた名跡です。 歴代の中でも、室町時代の美濃を代表する名工である二代兼元(通称:孫六)が最も名高く、美濃伝の真髄を極めたことで知られています。兼元の一派は、杉の木が連なっているような形状の「三本杉」と呼ばれる独特の互の目乱れの刃文を得意とし、その高度な技術は後世の代々へと継承されました。 美濃伝について 美濃伝は、武器の需要が激増した戦国時代に大いに繁栄しました。美濃国は地理的にも要衝であり、明智光秀が美濃を治め、織田信長が隣国・尾張を統治した時代背景も影響しています。








































美濃伝 · 美濃 · 1573-1592頃
刀剣大鑑 上位76%
現在1点販売中
美濃伝 · 美濃
現在27点販売中
兼元は、美濃国関を本拠とした末美濃の刀工で、室町時代後期に和泉守兼定と並んで美濃鍛冶を代表する家系である。同名が相継いで栄えたが、なかでも最も技量にすぐれるのは二代で、世上この兼元を指して「孫六兼元」と呼称し賞翫してきた。「孫六」は兼元家代々の通称であり、二代がとりわけ著名であることから、この称がそのまま二代の代名詞として用いられている。居住地を明示した作には「濃州赤坂住」と切るものがあり、赤坂を一つの拠点としていたことが知られる。説示には明応・享禄・大永などの年紀を有する作が挙げられ、紀年銘の比較的少ない同家にあって、これらは作期や系統を研究するうえで好資料とされている。 作風の中核をなすのは、三本杉と称される尖り互の目の連れた刃文である。各代を通じてこの刃文を得意とするが、二代と後代とでは趣を異にする。代が下ると尖り刃の形が鋭角的で規則正しく揃うのに対し、二代は互の目の頭が処々丸みをおびて変化を見せ、三本杉のほかに二本杉・四本杉・五本杉といった群落を交えるなど画一的でないところに特色がある。説示はこれを行草の体の三本杉と評し、刃取りに起伏を見せて変化に富む点を二代の見どころとする。地鉄は板目に杢・流れ柾を交えて肌立ちごころとなり、地沸が細かにつき、地景が入り、白け映りが立つのが常で、帽子は乱れ込んで先丸く地蔵状に返るものが多い。一方、初代はあまり三本杉が目立たず、互の目に互の目丁子を交え、時に湯走り・飛焼を伴うものが多く、年紀は明応六年を最も古いものとし、居住地はすべて濃州赤坂住と切られる。二代と初代、さらに後代との別は、こうした刃文の構成と地鉄の風合いから見分けられる。 伝来をみると、二代兼元は実戦刀としての評価が高く、元亀元年の姉川の戦で青木一重が真柄真隆を討ったと伝える青木兼元、また截断銘を裏に施した作などが知られ、切れ味を尊ぶ風が早くから付随していた。金象嵌で笹露と号した作のように、所持者の名とともに伝えられた優品もある。作刀は薙刀・刀・脇指・短刀に及び、長寸で先の張った雄勁な造込みのものから、来写し・京物写しと目される稀な直刃の上品な短刀まで幅があり、二代の技量の振幅を伝えている。説示はこれらを孫六兼元の典型かつ出色の出来口として位置づけ、行体の三本杉が匂口明るくよく沸え、地刃ともに冴える点を賞するとともに、末関を代表する刀工としての名声を確かなものとしている。 詳しく見る →
戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.