日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 肥後守国康 一脇ノ間落入平土常貫所持, 322 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 肥後守国康は大坂新刀の開拓者河内守国助初代の三男で名を小林源左衛門といい、兄河内守国助二代と大坂内本町東に軒を連ねた。鎌田魚妙は『新刀弁疑』で「地鉄至て細に匂ひ深く、丁子刃の名人、中河内同様の作也」と高く評価している。


Osaka Shinto (Kawachi no Kami Kunisuke line) · 摂津 · 1661-1673頃
刀剣大鑑 上位60%
現在5点販売中
肥後守国康、通称を源左衛門といい、五字銘を切ったこの工は、大坂初代河内守国助の三男で、説明書が中河内と呼ぶ二代の弟にあたる。江戸初期寛文の頃、摂津にあって大坂新刀の丁子の流れに位置する。同門は国助を介して、古備前の丁子を新刀の鉄に蘇らせた石堂の伝を引き、国康はその二代の頂より一歩を隔ててこの作風を担う。説明書は技量を兄に次ぐとし、地刃の出来が中河内まで迫るものは少ないとしながら、上出来の作は兄に近く迫ると認める。一口においては評がさらに進み、出来があまりに同工らしく、「中河内と選ぶところがない」[[c:1]]一口とまでいう。
その手をまず分かつのは、丁子乱れと、その中に交える拳形丁子である。刃区上を直ぐに焼出してその上を互の目交じりの丁子乱れに上げ、その乱れの中に国康は拳形丁子、すなわち二代国助が一門の見どころとした握り拳の頭を交える。指定作の過半において説明書はこれを同工の特色をよく示す点と名指し、最も出来のよい刀では乱れの頭がさらに揃って重花丁子となり、大房丁子を交えて、総じて焼高く出入りがある。元を直ぐに焼出す点こそ、一見想わせる古備前の丁子から同工を分かつ静かな見どころで、鎌倉の習いではなく江戸大坂の作法である。足よく入り、葉を交えることもあり、小沸つき、金筋・砂流しかかって、匂口は明るく冴える。
地鉄は小板目つみ、よく詰んで地沸つき、処々に大肌を交える。上出来の作では地沸が微塵に細かく厚くつき地景細かに入って、説明書のいう「如何にも大阪新刀らしい」[[c:2]]美麗で冴えた鍛えとなる。一口に施した棒樋・薙刀樋、他の一口の二筋樋は、慎重な晩年の手の彫である。これほど働く刃に対して帽子は抑えられ、乱れを鋒に追わず直ぐに小丸に返る、大坂の工の好む静かな仕舞いである。姿は寛文新刀の体配で、身幅やや広く元先の幅差少しくつき、重ね厚め、反り浅く中鋒の詰まったもの。一口は二尺六寸に及ぶ長寸で堂々とし体配のよい大作となり、重ね厚き刀姿から手持ちの重みが感ぜられる。
説明書の伝える遺例は小さく、際立って一様である。すなわち指定の刀七口、一口を除いて在銘、いずれも生ぶ茎の指表棟寄りに五字「肥後守国康」の銘を切る。無銘・代銘の難はなく、年紀作もないため時代の軸を立てる手掛りもないが、それゆえ鑑定は専ら作に拠り、その作は一様の手を二段で示す。平素は丁子乱れが規則正しく拳形丁子も間々に交わり、上出来の、令和に指定された作では焼幅広く拳形の頭が揃って群れ、説明書は最上の評を与える。最も精到な一口に与えた言は的確で、すなわち腰元に焼出しを配しその上に拳形丁子乱れを焼いた「拳形丁子乱れを焼いた典型作」[[c:3]]である。
河内守一門の中で国康は、兄に並びその直下にあって丁子の作風を担う主たる工である。説明書が引く比較は繰り返し中河内であり、それは両者が同じ工房から打ち出した拳形丁子・地沸厚き小板目・明るい匂口に裏打ちされた真の近さである。同工の作はその近さの中で、別の特徴によってではなく程度によって分かたれる。すなわち拳形丁子が硬直しがちなところを、出入りをつけて自然な風合と味わいを得る点であり、一口においては「殊更に拳形丁子を交えた華やかな丁子乱れに国康の技術の高さ」[[c:4]]が窺えると説明書はいう。その刀を、中河内に迫る優れた作、すなわち「中河内に迫る優品」[[c:5]]と評する。
鑑賞の上では、頂ではなく中位の工で、その記録は重要刀剣に達した七口であり、国宝・重要文化財はなく、特別重要刀剣に上がったものもまだない。七口のいずれにも所伝や旧蔵者の記録はなく、よって同工の刀は経た家柄ではなく作の出来をもって遇される。これは大坂新刀の丁子の作風に入る手近な入口を意味する。すなわち在銘で健全な寛文の刀がさほど稀ならず真剣な蒐集家のもとに現れ、稀な父の遺例や尊ばれる兄中河内の作よりもはるかに求めやすく、しかも説明書がその最上の評において二代に並べた一門独自の拳形丁子を、その一口に備える。説明書は通称を「源左衛門」とし、初代河内守国助の三男としてその位置を定める。記録に残る七口の刀がその系譜を鉄に伝え、早期大坂派の最も明るい丁子を打った、慎重にして時に出色の手である。
國康の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 摂津
現在73点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 肥後守国康 一脇ノ間落入平土常貫所持, 322 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 肥後守国康は大坂新刀の開拓者河内守国助初代の三男で名を小林源左衛門といい、兄河内守国助二代と大坂内本町東に軒を連ねた。鎌田魚妙は『新刀弁疑』で「地鉄至て細に匂ひ深く、丁子刃の名人、中河内同様の作也」と高く評価している。


Osaka Shinto (Kawachi no Kami Kunisuke line) · 摂津 · 1661-1673頃
刀剣大鑑 上位60%
現在5点販売中
肥後守国康、通称を源左衛門といい、五字銘を切ったこの工は、大坂初代河内守国助の三男で、説明書が中河内と呼ぶ二代の弟にあたる。江戸初期寛文の頃、摂津にあって大坂新刀の丁子の流れに位置する。同門は国助を介して、古備前の丁子を新刀の鉄に蘇らせた石堂の伝を引き、国康はその二代の頂より一歩を隔ててこの作風を担う。説明書は技量を兄に次ぐとし、地刃の出来が中河内まで迫るものは少ないとしながら、上出来の作は兄に近く迫ると認める。一口においては評がさらに進み、出来があまりに同工らしく、「中河内と選ぶところがない」[[c:1]]一口とまでいう。
その手をまず分かつのは、丁子乱れと、その中に交える拳形丁子である。刃区上を直ぐに焼出してその上を互の目交じりの丁子乱れに上げ、その乱れの中に国康は拳形丁子、すなわち二代国助が一門の見どころとした握り拳の頭を交える。指定作の過半において説明書はこれを同工の特色をよく示す点と名指し、最も出来のよい刀では乱れの頭がさらに揃って重花丁子となり、大房丁子を交えて、総じて焼高く出入りがある。元を直ぐに焼出す点こそ、一見想わせる古備前の丁子から同工を分かつ静かな見どころで、鎌倉の習いではなく江戸大坂の作法である。足よく入り、葉を交えることもあり、小沸つき、金筋・砂流しかかって、匂口は明るく冴える。
地鉄は小板目つみ、よく詰んで地沸つき、処々に大肌を交える。上出来の作では地沸が微塵に細かく厚くつき地景細かに入って、説明書のいう「如何にも大阪新刀らしい」[[c:2]]美麗で冴えた鍛えとなる。一口に施した棒樋・薙刀樋、他の一口の二筋樋は、慎重な晩年の手の彫である。これほど働く刃に対して帽子は抑えられ、乱れを鋒に追わず直ぐに小丸に返る、大坂の工の好む静かな仕舞いである。姿は寛文新刀の体配で、身幅やや広く元先の幅差少しくつき、重ね厚め、反り浅く中鋒の詰まったもの。一口は二尺六寸に及ぶ長寸で堂々とし体配のよい大作となり、重ね厚き刀姿から手持ちの重みが感ぜられる。
説明書の伝える遺例は小さく、際立って一様である。すなわち指定の刀七口、一口を除いて在銘、いずれも生ぶ茎の指表棟寄りに五字「肥後守国康」の銘を切る。無銘・代銘の難はなく、年紀作もないため時代の軸を立てる手掛りもないが、それゆえ鑑定は専ら作に拠り、その作は一様の手を二段で示す。平素は丁子乱れが規則正しく拳形丁子も間々に交わり、上出来の、令和に指定された作では焼幅広く拳形の頭が揃って群れ、説明書は最上の評を与える。最も精到な一口に与えた言は的確で、すなわち腰元に焼出しを配しその上に拳形丁子乱れを焼いた「拳形丁子乱れを焼いた典型作」[[c:3]]である。
河内守一門の中で国康は、兄に並びその直下にあって丁子の作風を担う主たる工である。説明書が引く比較は繰り返し中河内であり、それは両者が同じ工房から打ち出した拳形丁子・地沸厚き小板目・明るい匂口に裏打ちされた真の近さである。同工の作はその近さの中で、別の特徴によってではなく程度によって分かたれる。すなわち拳形丁子が硬直しがちなところを、出入りをつけて自然な風合と味わいを得る点であり、一口においては「殊更に拳形丁子を交えた華やかな丁子乱れに国康の技術の高さ」[[c:4]]が窺えると説明書はいう。その刀を、中河内に迫る優れた作、すなわち「中河内に迫る優品」[[c:5]]と評する。
鑑賞の上では、頂ではなく中位の工で、その記録は重要刀剣に達した七口であり、国宝・重要文化財はなく、特別重要刀剣に上がったものもまだない。七口のいずれにも所伝や旧蔵者の記録はなく、よって同工の刀は経た家柄ではなく作の出来をもって遇される。これは大坂新刀の丁子の作風に入る手近な入口を意味する。すなわち在銘で健全な寛文の刀がさほど稀ならず真剣な蒐集家のもとに現れ、稀な父の遺例や尊ばれる兄中河内の作よりもはるかに求めやすく、しかも説明書がその最上の評において二代に並べた一門独自の拳形丁子を、その一口に備える。説明書は通称を「源左衛門」とし、初代河内守国助の三男としてその位置を定める。記録に残る七口の刀がその系譜を鉄に伝え、早期大坂派の最も明るい丁子を打った、慎重にして時に出色の手である。
國康の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 摂津
現在73点販売中
大坂新刀は、商都大坂を本拠として江戸前期から中期にかけて興隆した摂津の一門である。その草創は京の堀川一門にあり、堀川国広の門に学んだ和泉守国貞、親国貞こと国貞と河内守国助とが、慶長十九年に師の没した後そろって大坂へ下り、この地に鍛刀の家を興した。国助は伝に伊勢国の出にして石堂の流れを汲み、堀川より受け継いだ枯れた肌合とともに、古備前を慕う石堂の丁子をこの地にもたらした。そこへ大和文殊系の包保・包道に承けた越後守包貞が摂州に居を構え、肥後菊池より出て井上真改の門を叩いた貞則のごとき遊歴の工も加わって、堀川と石堂と文殊の脈が大坂の地で一つの作域に結ばれていった。やがて親国貞の子真改、津田越前守助広、一竿子忠綱らがあらわれ、寛文・延宝・元禄の頃にこの一門は最も華やぐ。 一門の作風は、まず明るく冴える大坂鍛えに標識を持つ。鍛えはよくつんだ無地風の小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かにさかんに入り、鉄色は明るく潤う。その地の上に、刃区を直ぐに焼き出し、その上から己の刃文を起こすのが一門に通じる約束で、収集家のいう大坂焼出しである。匂口は終始深く明るく冴え、刃縁は締まる。この共通の文法の上に、各工はおのおのの差を置く。井上真改は華やかな乱れを焼かず、よくつんだ精美な地に浅いのたれを帯びた沸深き直刃を本領とし、相州の郷義弘への意図的な写しにその沸の妙味を尽くして、大坂正宗と称された。津田助広は波濤のごとくうねる濤瀾刃を創始し、真改の小沸の直刃と並んで両大関と仰がれる。一竿子忠綱は揃った長足の丁子に簾刃の濤瀾を交え、何にもまして真の倶利迦羅や鯉の滝上りを刻んだ一竿子彫をもって分かたれる。河内守国助の家は丁子の旗頭で、二代中河内は握り拳の頭を戴く拳形丁子を創始して新刀一文字と賞され、その弟肥後守国康や四男国輝もこの石堂の丁子と津田風の濤瀾を担った。越後守包貞は助広に倣う濤瀾に片山乱れと文珠の砂流しを通わせ、貞則は師真改の沸深き直刃をよく継いだ。共通するのは明るい匂口と直ぐの焼出し、異なるのは真改の沈める沸、助広の濤瀾、国助一門の丁子という、地の上に置かれた手の差である。 収集家が大坂新刀を求める理由は、鑑定の勘所が明快で、主要工の格が高いことにある。明るく冴える大坂鍛えと、刃を起こす直ぐの焼出しという二つの見どころは、地と刃のいずれにも紛れなく現れて工と作域を定める手懸りとなり、真改の沸深き郷写し、忠綱の一竿子彫、中河内の拳形丁子といった各工独自の標識が、そこに重なって名を分かつ。一門の作はおおむね在銘年紀で、銘そのものが時の標識となるため、由緒の確かさをもって賞翫される。真改や助広や忠綱の最上手は市に現れることが稀で、現れれば一頭地を抜く出来事となるが、包貞・国助・国康・国輝のごとき名手の在銘作は、辛抱をもって相応に相見え、大坂新刀へ分け入る手近な入口を提供する。来歴の知られる作は谷干城や山内家、皇室の蔵を経て近代に伝わり、美術刀剣としての魅力は、真改の沸と助広の濤瀾が後世の刀鍛冶に及ぼした影響とともに、商都大坂が新刀期に成し遂げた一個の到達を今に伝える。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。