江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
Stock number:KA-030823Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai): Mutsu(Fukushima)・Middle Edo period about 1661~Blade length(Cutting edge): 70.6cmCurve(SORI): 1.2cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.88cmThickness at the Moto-Kasane: 0.73cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.40cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmHabaki: Two parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered,Kiriyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada): Ko-itame with Ko-mokumeTemper patterns(Hamon): Gunome-midareTemper patterns in the point(Bohshi): Sugu then komaru round tipRegistration Card: Fukushima【Additional Information】会津の三善一族は長国を祖とし、その子政長から長道へと代々続く陸奥刀匠の名家です。上京し肥前忠吉と同じく埋忠明寿に学んだ為に山城伝の趣強く、寛永四年(1627年)より父長国と共に会津で鍛刀。美濃から移住してきた兼定一派と双璧の三善家はこのときより始まります。政長の子三善長道は、寛永十年(1633年)会津生まれです。会津正宗、会津虎徹とも称され、出来は虎徹にやや類似し、斬れ味の良さは後代まで引き継がれています。長道系は十代(明治)まで会津鍛冶の棟梁としての地位を保っています。同工長道は寛文期、初代の作で、名は藤四郎。叔父長俊に師事しました。はじめ道長と銘を切り、万治二年に陸奥大掾を受領後、三善長道と改めます。津田助廣の弟子説もあります。作品は奥州一の名工と称されるに申し分なく、新刀上作、最上大業物に列します。刀銘は、陸奥大掾藤原長道三善藤四郎、長道、陸奥大掾三善長道、三善陸奥守藤原長道藤四郎、などと銘切ります。寛永十年(1633年)会津生まれ、貞享二年十一月十七日(1685年)没。本作体配は二尺三寸三分、身幅、重ね共に確りとして、反り浅く、ふくら豊かな中切っ先となる堂々とした刀姿です。地鉄は小板目肌に小杢目を交え、地沸付き、良く練られて精良な鍛えとなります。刃文は小沸出来の互の目乱れで、処々湾れ心となり、ゆるやかに大きく乱れます。焼高く、小沸良く付き、爛々と明るく冴えます。刃中には足、葉が入り盛んに働きます。帽子は直ぐで先小丸へ上品に返ります。茎は切鑢目で仕立て、刀工銘を刻します。拵金具は赤銅地の時代金具でまとまり、変わり塗鞘と合わせて綺麗な拵となります。本刀、三善長道(初代)の健全な一振で、地鉄は精緻に整い、焼刃は力感のある乱れを見せて、美麗で且つ力強い、上工の技量をよく示した出来栄えです。白鞘、金着二重はばき、変わり塗鞘打刀拵、特別保存刀剣鑑定書。







Aizu Miyoshi (Mutsu, early Edo shinto) · Iwashiro · 1661-1685頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在2点販売中
陸奥大掾三善長道は、説明書が「会津新刀の事実上の祖」[[c:1]]と呼ぶ工であり、その一刀は貞享二年(一六八五)紀をもつ。これは彼の歿年にあたり、本刀は最晩年の作と解される。その家は西国から会津に入った。祖父長国は伊予松山に住して加藤嘉明に仕え、寛永四年加藤家が伊予から奥州会津へ移封の際、長国は従って北へ移り、長道の父政長も共に移った。長道は寛永十年に会津で生れ、長国の門に学び、初め道長と銘したが、万治元年に陸奥大掾を受領して名を長道と改め、貞享二年五十三歳で歿した。一説に津田助広門ともいうが、説明書はその作風を長曽祢一派に近いものとし、藤代の極めは上作である。後に負う会津の虎徹という通称は、伝記から借りたものではなく、鉄そのものに負うところである。
その特色は、のたれに互の目を交じえて高低のある乱れ刃をなし、処々互の目が二つずつ連れて瓢箪刃を呈するもので、説明書はこれを彼の得意とし、作ごとに繰り返し挙げる。足は太く長くさかんに入り、沸厚くつき荒めの沸を交え、刃中に砂流し・金筋がかかり、最も働く作では腰元に棟焼がかかる。匂口は明るく冴え、説明書がその佳作の常として注目するところである。説明書は系譜の比較を明示して繰り返す。この刃は「正に虎徹のハネトラ時代の作柄を想わせる」[[c:2]]ものとし、浅くのたれて小丸、先掃きかけてやや深く返る帽子も、この期の虎徹の帽子に直に相似するとみる。長道の見どころは、瓢箪に連れた互の目の刃と、その上の掃きかけて深く返る小丸と、その相似の両面に同時に宿る。
地鉄はその働く刃の下の穏やかな地である。鍛えは板目、しばしば杢・大板目を交え、腰元に流れごころを交えて肌立ちごころに、地沸厚くつき地景細かによく入り、最も精緻な晩年の刀では地が小板目につみ地沸が微塵に厚くついて、地がもっとも冴える。その地に焼く刃文は、多くは直ぐ調の短い焼出しに始まり、その上は大互の目・小のたれの本体へと広がり、匂深く沸が厚い。帽子は右に述べた掃きかけの小丸で、表ややのたれ裏直ぐのこともあるが、ともに同じく返る。拵や彫は質素で、彫物は無いことが多く、あっても棒樋を掻き流すにとどまる。刃を担うのは飾りではなく働きであり、なかでも明るい匂口の上に働く砂流し・金筋が、その頑健な互の目を重く見せぬ。
その作は一つの手を二様の高さに取ったものに収まる。第一は虎徹調の典型の手で、小のたれに互の目・小互の目を交え、連れた瓢箪刃と掃きかけの小丸をなし、説明書がその代表的作風とするものである。第二はその白眉の刀の華やかな絶頂で、ある平成指定の作について説明書が記す通り、常にも増して焼幅広く、乱れに高低があって変化に富み、「華やかな作柄を示しており」[[c:3]]、足太く長く、沸厚くつき、金筋・砂流しがよく働く。資料の上では、彼は謎ではなく開かれた書物である。指定作はほとんどが在銘で、生ぶ茎の棟寄りに陸奥大掾三善長道の長銘を切り、多くが延宝から貞享へかけて年紀をもつので、その手は受領から歿年まで殆ど連続して辿られる。
彼を分かつものは、最も似る虎徹に対して、他派ではなく立てられる。説明書はその差を一点で明示する。その作は砂流しのかかる点で虎徹に似るが、「沸の荒い点が相違する」[[c:4]]というのであり、その荒く力強い沸が、肌立つ板目と連れた瓢箪刃とともに、ハネトラの作域の中に会津の手を見分けさせる。本工自身の肯定の徴は、説明書が名指し続けるものにある。刃中の瓢箪刃、太く長い足、匂深に乗る金筋・砂流し、そして佳作の明るい匂口である。説明書はその限りも率直に記し、反り少く姿の悪い作が多い中で、彼の傑作は姿もよい例外であるとする。会津新刀の事実上の祖として、彼は後の会津一派が継ぐ手、すなわち地沸厚くつく板目の地に頑健な刀を焼く手を定め、その在銘・有年紀・截断銘の作は一門草創の資料的背骨をなす。
長道は藤代の極めで上作、刀工大鑑の評価は六〇〇で、新刀中でも伝来の点で高く位し、その記録作は同項の最も際立つ部類に列なる。指定の記録は重要刀剣八口にとどまり、いずれも重要刀剣の位で、それ以上を数えない。国宝・重要文化財をもたぬため、長道は指定の文化財のように手の届かぬものではないが、なお出会うことの稀な作である。数口の刀は裏に試刀家山野勘十郎久英の金象嵌截断銘をもち胴を截断した記録を伝え、説明書はかかる截断銘そのものが珍しく優れた作にさらに価値を加えると記す。その白眉について説明書は「この刀は彼の最高傑作で」[[c:5]]と平らに述べ、地刃の出来が優れるとし、別の作を「地刃共に明るい三善長道出色の一口」[[c:6]]と称する。その佳刀の一口に負う伝来は、新刀中でも屈指の物語をもつ。会津藩主松平容保が池田屋事件の功により新撰組の近藤勇に賜ったものと伝え、後に明治の軍人で愛刀家の谷干城将軍に蒐蔵され、さらに土佐山内家に伝来した。なお一刀は道津神社の蔵に伝わる。蒐集の上では、これは初期江戸の開かれた書物たる名工であり、在銘でしばしば年紀をもち往々截断を帯びた刀が時に市にかかるにすぎず、匂口明るく刃に瓢箪を連ねた出来のよい一口は、俟つに値する会津新刀の作である。
長道の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · Iwashiro
現在4点販売中
会津三善は、岩代会津に興った新刀の一門で、三善長道とその系をいう。説示が伝えるところによれば、長道は三好藤四郎と称し、伊予松山に住した長国の孫にあたる。長国は加藤嘉明に抱えられた工で、寛永四年に加藤家が伊予から奥州会津へ移封となった際、これに従って会津へ移り、長道の父政長もまた長国と共に会津へ移った。長道は寛永十年に会津で生まれ、長国の門に学んで初め道長と銘し、万治の頃に陸奥大掾を受領して名を長道と改め、貞享二年に五十三歳で歿している。藩主家の移封に随伴した一門が会津の地に根を下ろし、長道に至って会津新刀の事実上の祖と目されるに至った経緯が、説示の各所に共通して記される。なお一説に津田助広の門とする伝えも見えるが、説示はその作柄をもっぱら江戸の長曽祢虎徹に引き寄せて述べている。 作風は、説示が繰り返し記すところでは、のたれに互の目を交え、高低のある乱れ刃を本領とする。多くは直ぐ調に短く焼き出し、その上は焼幅を広くとって小のたれや大互の目に互の目を交え、処々で互の目が二つ連れて瓢箪刃風を呈する点が、ほぼ全作に共通する特色である。足は長くよく入り、匂深く、沸が厚くつき、荒めの沸やむら沸を交えることもあり、砂流しがかかって金筋が入り、匂口は明るく冴える。鍛えは板目に杢や流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入る。帽子は直ぐ調あるいは浅くのたれて小丸に返り、先を掃きかけるものが多く、説示はこれを虎徹の帽子に相似すると評する。総じて、江戸の長曽祢虎徹のハネトラ時代の作柄に近いとされ、見分けの要点もこの虎徹に通う乱れ刃と瓢箪刃風、厚い沸の働きに置かれる。 伝承の面では、生ぶ茎に栗尻、鑢目は勝手下がりを常とし、指表棟寄りに長銘を切る作例が伝わる。截断銘を伴う作が少なくなく、山野勘十郎久英の金象嵌截断銘や、神谷源次可朋の試し銘を裏に添えるものが説示に挙げられている。伝来として名高い一口は、池田屋事件の功により会津藩主松平容保から新撰組の近藤勇が賜ったと伝え、のちに谷干城将軍の蔵に帰し、さらに土佐山内家へ伝来したものである。年紀のある作も資料として重んじられ、ことに貞享二年紀の刀は長道歿年にあたることから最晩年の作と理解され、資料的にも貴重とされる。鑑定にあたっては、瓢箪刃風を交えた高低ある乱れ刃と虎徹に通う帽子、厚くついた沸と砂流し・金筋の働きが手がかりとなり、長道の最も得意とした作域を示す出来こそ、この一門を見定める拠りどころとなる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
Stock number:KA-030823Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai): Mutsu(Fukushima)・Middle Edo period about 1661~Blade length(Cutting edge): 70.6cmCurve(SORI): 1.2cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.88cmThickness at the Moto-Kasane: 0.73cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.40cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmHabaki: Two parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago): Unaltered,Kiriyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada): Ko-itame with Ko-mokumeTemper patterns(Hamon): Gunome-midareTemper patterns in the point(Bohshi): Sugu then komaru round tipRegistration Card: Fukushima【Additional Information】会津の三善一族は長国を祖とし、その子政長から長道へと代々続く陸奥刀匠の名家です。上京し肥前忠吉と同じく埋忠明寿に学んだ為に山城伝の趣強く、寛永四年(1627年)より父長国と共に会津で鍛刀。美濃から移住してきた兼定一派と双璧の三善家はこのときより始まります。政長の子三善長道は、寛永十年(1633年)会津生まれです。会津正宗、会津虎徹とも称され、出来は虎徹にやや類似し、斬れ味の良さは後代まで引き継がれています。長道系は十代(明治)まで会津鍛冶の棟梁としての地位を保っています。同工長道は寛文期、初代の作で、名は藤四郎。叔父長俊に師事しました。はじめ道長と銘を切り、万治二年に陸奥大掾を受領後、三善長道と改めます。津田助廣の弟子説もあります。作品は奥州一の名工と称されるに申し分なく、新刀上作、最上大業物に列します。刀銘は、陸奥大掾藤原長道三善藤四郎、長道、陸奥大掾三善長道、三善陸奥守藤原長道藤四郎、などと銘切ります。寛永十年(1633年)会津生まれ、貞享二年十一月十七日(1685年)没。本作体配は二尺三寸三分、身幅、重ね共に確りとして、反り浅く、ふくら豊かな中切っ先となる堂々とした刀姿です。地鉄は小板目肌に小杢目を交え、地沸付き、良く練られて精良な鍛えとなります。刃文は小沸出来の互の目乱れで、処々湾れ心となり、ゆるやかに大きく乱れます。焼高く、小沸良く付き、爛々と明るく冴えます。刃中には足、葉が入り盛んに働きます。帽子は直ぐで先小丸へ上品に返ります。茎は切鑢目で仕立て、刀工銘を刻します。拵金具は赤銅地の時代金具でまとまり、変わり塗鞘と合わせて綺麗な拵となります。本刀、三善長道(初代)の健全な一振で、地鉄は精緻に整い、焼刃は力感のある乱れを見せて、美麗で且つ力強い、上工の技量をよく示した出来栄えです。白鞘、金着二重はばき、変わり塗鞘打刀拵、特別保存刀剣鑑定書。







Aizu Miyoshi (Mutsu, early Edo shinto) · Iwashiro · 1661-1685頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在2点販売中
陸奥大掾三善長道は、説明書が「会津新刀の事実上の祖」[[c:1]]と呼ぶ工であり、その一刀は貞享二年(一六八五)紀をもつ。これは彼の歿年にあたり、本刀は最晩年の作と解される。その家は西国から会津に入った。祖父長国は伊予松山に住して加藤嘉明に仕え、寛永四年加藤家が伊予から奥州会津へ移封の際、長国は従って北へ移り、長道の父政長も共に移った。長道は寛永十年に会津で生れ、長国の門に学び、初め道長と銘したが、万治元年に陸奥大掾を受領して名を長道と改め、貞享二年五十三歳で歿した。一説に津田助広門ともいうが、説明書はその作風を長曽祢一派に近いものとし、藤代の極めは上作である。後に負う会津の虎徹という通称は、伝記から借りたものではなく、鉄そのものに負うところである。
その特色は、のたれに互の目を交じえて高低のある乱れ刃をなし、処々互の目が二つずつ連れて瓢箪刃を呈するもので、説明書はこれを彼の得意とし、作ごとに繰り返し挙げる。足は太く長くさかんに入り、沸厚くつき荒めの沸を交え、刃中に砂流し・金筋がかかり、最も働く作では腰元に棟焼がかかる。匂口は明るく冴え、説明書がその佳作の常として注目するところである。説明書は系譜の比較を明示して繰り返す。この刃は「正に虎徹のハネトラ時代の作柄を想わせる」[[c:2]]ものとし、浅くのたれて小丸、先掃きかけてやや深く返る帽子も、この期の虎徹の帽子に直に相似するとみる。長道の見どころは、瓢箪に連れた互の目の刃と、その上の掃きかけて深く返る小丸と、その相似の両面に同時に宿る。
地鉄はその働く刃の下の穏やかな地である。鍛えは板目、しばしば杢・大板目を交え、腰元に流れごころを交えて肌立ちごころに、地沸厚くつき地景細かによく入り、最も精緻な晩年の刀では地が小板目につみ地沸が微塵に厚くついて、地がもっとも冴える。その地に焼く刃文は、多くは直ぐ調の短い焼出しに始まり、その上は大互の目・小のたれの本体へと広がり、匂深く沸が厚い。帽子は右に述べた掃きかけの小丸で、表ややのたれ裏直ぐのこともあるが、ともに同じく返る。拵や彫は質素で、彫物は無いことが多く、あっても棒樋を掻き流すにとどまる。刃を担うのは飾りではなく働きであり、なかでも明るい匂口の上に働く砂流し・金筋が、その頑健な互の目を重く見せぬ。
その作は一つの手を二様の高さに取ったものに収まる。第一は虎徹調の典型の手で、小のたれに互の目・小互の目を交え、連れた瓢箪刃と掃きかけの小丸をなし、説明書がその代表的作風とするものである。第二はその白眉の刀の華やかな絶頂で、ある平成指定の作について説明書が記す通り、常にも増して焼幅広く、乱れに高低があって変化に富み、「華やかな作柄を示しており」[[c:3]]、足太く長く、沸厚くつき、金筋・砂流しがよく働く。資料の上では、彼は謎ではなく開かれた書物である。指定作はほとんどが在銘で、生ぶ茎の棟寄りに陸奥大掾三善長道の長銘を切り、多くが延宝から貞享へかけて年紀をもつので、その手は受領から歿年まで殆ど連続して辿られる。
彼を分かつものは、最も似る虎徹に対して、他派ではなく立てられる。説明書はその差を一点で明示する。その作は砂流しのかかる点で虎徹に似るが、「沸の荒い点が相違する」[[c:4]]というのであり、その荒く力強い沸が、肌立つ板目と連れた瓢箪刃とともに、ハネトラの作域の中に会津の手を見分けさせる。本工自身の肯定の徴は、説明書が名指し続けるものにある。刃中の瓢箪刃、太く長い足、匂深に乗る金筋・砂流し、そして佳作の明るい匂口である。説明書はその限りも率直に記し、反り少く姿の悪い作が多い中で、彼の傑作は姿もよい例外であるとする。会津新刀の事実上の祖として、彼は後の会津一派が継ぐ手、すなわち地沸厚くつく板目の地に頑健な刀を焼く手を定め、その在銘・有年紀・截断銘の作は一門草創の資料的背骨をなす。
長道は藤代の極めで上作、刀工大鑑の評価は六〇〇で、新刀中でも伝来の点で高く位し、その記録作は同項の最も際立つ部類に列なる。指定の記録は重要刀剣八口にとどまり、いずれも重要刀剣の位で、それ以上を数えない。国宝・重要文化財をもたぬため、長道は指定の文化財のように手の届かぬものではないが、なお出会うことの稀な作である。数口の刀は裏に試刀家山野勘十郎久英の金象嵌截断銘をもち胴を截断した記録を伝え、説明書はかかる截断銘そのものが珍しく優れた作にさらに価値を加えると記す。その白眉について説明書は「この刀は彼の最高傑作で」[[c:5]]と平らに述べ、地刃の出来が優れるとし、別の作を「地刃共に明るい三善長道出色の一口」[[c:6]]と称する。その佳刀の一口に負う伝来は、新刀中でも屈指の物語をもつ。会津藩主松平容保が池田屋事件の功により新撰組の近藤勇に賜ったものと伝え、後に明治の軍人で愛刀家の谷干城将軍に蒐蔵され、さらに土佐山内家に伝来した。なお一刀は道津神社の蔵に伝わる。蒐集の上では、これは初期江戸の開かれた書物たる名工であり、在銘でしばしば年紀をもち往々截断を帯びた刀が時に市にかかるにすぎず、匂口明るく刃に瓢箪を連ねた出来のよい一口は、俟つに値する会津新刀の作である。
長道の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · Iwashiro
現在4点販売中
会津三善は、岩代会津に興った新刀の一門で、三善長道とその系をいう。説示が伝えるところによれば、長道は三好藤四郎と称し、伊予松山に住した長国の孫にあたる。長国は加藤嘉明に抱えられた工で、寛永四年に加藤家が伊予から奥州会津へ移封となった際、これに従って会津へ移り、長道の父政長もまた長国と共に会津へ移った。長道は寛永十年に会津で生まれ、長国の門に学んで初め道長と銘し、万治の頃に陸奥大掾を受領して名を長道と改め、貞享二年に五十三歳で歿している。藩主家の移封に随伴した一門が会津の地に根を下ろし、長道に至って会津新刀の事実上の祖と目されるに至った経緯が、説示の各所に共通して記される。なお一説に津田助広の門とする伝えも見えるが、説示はその作柄をもっぱら江戸の長曽祢虎徹に引き寄せて述べている。 作風は、説示が繰り返し記すところでは、のたれに互の目を交え、高低のある乱れ刃を本領とする。多くは直ぐ調に短く焼き出し、その上は焼幅を広くとって小のたれや大互の目に互の目を交え、処々で互の目が二つ連れて瓢箪刃風を呈する点が、ほぼ全作に共通する特色である。足は長くよく入り、匂深く、沸が厚くつき、荒めの沸やむら沸を交えることもあり、砂流しがかかって金筋が入り、匂口は明るく冴える。鍛えは板目に杢や流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入る。帽子は直ぐ調あるいは浅くのたれて小丸に返り、先を掃きかけるものが多く、説示はこれを虎徹の帽子に相似すると評する。総じて、江戸の長曽祢虎徹のハネトラ時代の作柄に近いとされ、見分けの要点もこの虎徹に通う乱れ刃と瓢箪刃風、厚い沸の働きに置かれる。 伝承の面では、生ぶ茎に栗尻、鑢目は勝手下がりを常とし、指表棟寄りに長銘を切る作例が伝わる。截断銘を伴う作が少なくなく、山野勘十郎久英の金象嵌截断銘や、神谷源次可朋の試し銘を裏に添えるものが説示に挙げられている。伝来として名高い一口は、池田屋事件の功により会津藩主松平容保から新撰組の近藤勇が賜ったと伝え、のちに谷干城将軍の蔵に帰し、さらに土佐山内家へ伝来したものである。年紀のある作も資料として重んじられ、ことに貞享二年紀の刀は長道歿年にあたることから最晩年の作と理解され、資料的にも貴重とされる。鑑定にあたっては、瓢箪刃風を交えた高低ある乱れ刃と虎徹に通う帽子、厚くついた沸と砂流し・金筋の働きが手がかりとなり、長道の最も得意とした作域を示す出来こそ、この一門を見定める拠りどころとなる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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