鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀装具[N.B.T.H.K]Juyo Tousougu No.62 肥後金工を代表する本流は、林・平田・西・志水の四家であり、皆初代は細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けた。寛永九年、加藤家改易の後に、子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は同国の八代に移り、八代城を隠居城とした。甚五は平田彦三の甥と伝え、この時彦三と共に三斎に従い八代に移っている。甚五の作風は肥後金工中、最も強烈な個性を発揮し、槌目焼手仕立ての鉄地に、表は猛禽・鶏・ふくろうなどを大きく真鍮据紋象嵌で力強く表し、裏は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランスをとり、侘寂の趣を深くするよう配慮している。この鐔は、泥障形の鉄槌目地に八方に身をくねらす蛸を真鍮据紋象嵌とし、裏は空間を大きくとって表から繋がる蛸の足を配している。表裏にわたる大胆な構図を取り、斬新で追力に満ちた出来口を示しており、同種の作品群の中でも特に優れた作であり、嘗て肥後刀装具の優品を数多く所蔵した米野健一氏の仕覆が付帯して伝来している。
肥後金工を代表する本流は、林・平田・西垣・志水の四家であり、皆初代は細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けた。寛永九年、加藤家改 易の後に、子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は同国の八代に移り、八代城を隠居城とした。甚五は平田彦三の甥と伝え、この時彦 三と共に三斎に従い八代に移っている。甚五の作風は肥後金工中、最も強烈な個性を発揮し、槌目焼手仕立ての鉄地に、表は猛禽・鶏・ふくろ う・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表し、裏面は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランス をとり、寂の趣を深くするよう配慮している。 この鐔は、泥障形の鉄槌目地に八方に身をくねらす蛸を真鍮据紋象嵌とし、裏は空間を大きくとって表から繋がる蛸の足を配している。 表裏 にわたる大胆な構図を取り、斬新で迫力に満ちた出来口を示しており、同種の構図は他にも数種見受けるが、中でも特に優れた作である。

















甚五
江戸
肥後
無銘
重要 #62 (NBTHK)
肥後金工を代表する本流は、林・平田・西垣・志水の四家であり、皆初代は細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けた。寛永九年、加藤家改 易の後に、子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は同国の八代に移り、八代城を隠居城とした。甚五は平田彦三の甥と伝え、この時彦 三と共に三斎に従い八代に移っている。甚五の作風は肥後金工中、最も強烈な個性を発揮し、槌目焼手仕立ての鉄地に、表は猛禽・鶏・ふくろ う・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表し、裏面は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランス をとり、寂の趣を深くするよう配慮している。 この鐔は、泥障形の鉄槌目地に八方に身をくねらす蛸を真鍮据紋象嵌とし、裏は空間を大きくとって表から繋がる蛸の足を配している。 表裏 にわたる大胆な構図を取り、斬新で迫力に満ちた出来口を示しており、同種の構図は他にも数種見受けるが、中でも特に優れた作である。
肥後 · 肥後
現在2点販売中
志水甚五は、肥後金工を代表する林・平田・西垣・志水の四家の一つであり、初代甚五は平田彦三の甥と伝えられ、寛永九年(1632年)に彦三と共に細川三斎忠興に従い、豊前から肥後国八代に移住したとされる。肥後金工は皆初代が細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けたことで発展盛行をみた。甚五は肥後金工中、最も異色の存在として知られ、代々その作風は継承され、肥後金工の大きな一派として連綿と栄えた。初代甚五には有銘作は皆無である。
甚五の作風の特色は、肥後の諸金工の中にあって、ひときわ強烈な個性を発揮することにあり、槌目焼手仕立ての鉄地に、猛禽や鳥・梟・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表す作風を確立した。表は猛禽・鶏・ふくろう・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表し、一方裏は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランスをとり、寂の趣を深くするよう配慮している点も特徴として挙げられる。一見表裏のバランスが非対称に感ぜられるものの、そこには甚五の卓越した技量と独特の世界観があり、総体的にきわめて均整のとれた趣の深い作品を数多残している。得意とした意匠として、鷲、梟、蛸などが挙げられ、松との組み合わせも多く見られる。また、素銅槌目地に蟹と勝虫を表裏に配するなど、素材や意匠において多様な試みが見られる点も特筆される。地鉄は鉄槌目地とし、真鍮据文象嵌を多用するほか、銀布目象嵌を施すものもある。鐔の形状は撫角形、撫角あおり形、泥障形などが見られ、櫃孔は片櫃孔、両櫃孔、変り孔などがある。
志水甚五の作品は、大胆で野趣に富んだ作風が特徴であり、その作風は他に比類なきものとして高く評価されている。「大模様の真鍮据文象嵌に強烈な個性を表出」[[c:1]]しており、「図柄が頗る近代的感覚にうったえる」[[c:2]]とも評されるように、斬新な意匠と大胆な構図は、今日においても色褪せることなく、鑑賞者を魅了し続けている。肥後金工における異色の存在でありながら、その独特の作風は後代にも大きな影響を与え、肥後金工の一派として確固たる地位を築いた。
甚五の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
肥後 · 肥後
現在24点販売中
志水派は、林・平田・西垣と並び肥後金工の本流を代表する四家の一つである。初代志水仁兵衛は平田彦三の甥と伝えられ、その指導を受けた。四家の初代はいずれも細川三斎忠興に抱えられ、直接の指導を受けている。寛永九年(一六三二)、加藤家改易ののち三斎の子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は隠居の身となり肥後国八代城を隠棲の場と定めた。初代甚五はこのとき彦三と共に三斎に従い八代に移住し、以後志水家は細川家の庇護のもと八代の地で代々栄えた。二代目以降、家督を継ぐ者は甚五(甚五)の名を襲名したが、初代・二代には在銘作が皆無であり、無銘ながら鑑定により世代が判別される。 志水派の作風は、肥後金工諸派の中にあって「ひときわ強烈な個性」[[c:2]]を発揮するものとして一貫して評される。その技法上の最大の特色は、槌目焼手仕立ての鉄地に大胆な真鍮据紋象嵌を施す手法にある。表には猛禽・鶏・梟・雨龍・蛸・蟹などの画題を大きく力強く配し、一方裏は意図的に空間を広くとり、文様は小さく、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランスをとる。一見非対称に感ぜられるこの表裏の構図こそが志水派の真骨頂であり、説示は繰り返し「総体的にきわめて均整のとれた趣の深い作品」[[c:3]]と評している。表の躍動感と裏の静寂感が渾然一体となり、寂(さび)ないし侘寂の趣を深くする剛毅な作風がそこに成立する。真鍮据紋象嵌は「恐らく平安城象嵌にならったもの」[[c:4]]とされるが、「平安城象嵌と異なるところは大胆な図柄にあって、これが今日なお斬新な感じを与える」と説示に明記されている。また鋤出高彫に金銀布目象嵌を施した作や、素銅地の作もあり、素銅でありながら重厚な趣を醸し出せるのは「甚五の技量の高さを伺うに十分」[[c:5]]と評されるように、地金を問わず深い造形力を示す。撫角形・障泥形を得意の鐔姿とし、変り櫃孔もまた同派に見る特色である。 志水派は肥後金工の伝統において最も異色かつ芸術的迫力に満ちた一派としての地位を占める。とりわけ初代甚五は卓越した作家として説示に高く讃えられ、松上の梟図や松上の猛禽図はその名と「ほとんど同義」とされるほどに密接に結びつく。説示は初代の最高作について「大智は愚の如し」の語を引き、「大巧は拙なるが如し――拙に見えて拙でないが故に常識を超越した力を発揮した」と述べ、技巧を超えた境地に達した芸術家として位置づけている。武人の魂を猛禽に託して無双の覇気を示す一方、余白を十分に生かした画面からは「物深い閑かな雅趣」[[c:6]]が感じとられ、文武両道の達人であった三斎の指導に応えた入念の作と評される。また「魚金甚五」の銘を持つ稀少な在銘作や、銀布目象嵌・毛彫・色金を駆使した後世代の展開は同派の技法的幅の広さを証するものである。「他の金工にはみられない大らかな雰囲気」を醸し出し、「近代的感覚にもうったえる」[[c:7]]と繰り返し評される志水派の絵画的造形は、肥後金工の枠を超えて刀装具史に独自の存在感を刻んでいる。 詳しく見る →
特別保存刀装具の中から、特に出来が優れ、美術工芸的価値が極めて高く、国認定の重要美術品に準ずると判断されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀装具[N.B.T.H.K]Juyo Tousougu No.62 肥後金工を代表する本流は、林・平田・西・志水の四家であり、皆初代は細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けた。寛永九年、加藤家改易の後に、子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は同国の八代に移り、八代城を隠居城とした。甚五は平田彦三の甥と伝え、この時彦三と共に三斎に従い八代に移っている。甚五の作風は肥後金工中、最も強烈な個性を発揮し、槌目焼手仕立ての鉄地に、表は猛禽・鶏・ふくろうなどを大きく真鍮据紋象嵌で力強く表し、裏は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランスをとり、侘寂の趣を深くするよう配慮している。この鐔は、泥障形の鉄槌目地に八方に身をくねらす蛸を真鍮据紋象嵌とし、裏は空間を大きくとって表から繋がる蛸の足を配している。表裏にわたる大胆な構図を取り、斬新で追力に満ちた出来口を示しており、同種の作品群の中でも特に優れた作であり、嘗て肥後刀装具の優品を数多く所蔵した米野健一氏の仕覆が付帯して伝来している。
肥後金工を代表する本流は、林・平田・西垣・志水の四家であり、皆初代は細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けた。寛永九年、加藤家改 易の後に、子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は同国の八代に移り、八代城を隠居城とした。甚五は平田彦三の甥と伝え、この時彦 三と共に三斎に従い八代に移っている。甚五の作風は肥後金工中、最も強烈な個性を発揮し、槌目焼手仕立ての鉄地に、表は猛禽・鶏・ふくろ う・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表し、裏面は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランス をとり、寂の趣を深くするよう配慮している。 この鐔は、泥障形の鉄槌目地に八方に身をくねらす蛸を真鍮据紋象嵌とし、裏は空間を大きくとって表から繋がる蛸の足を配している。 表裏 にわたる大胆な構図を取り、斬新で迫力に満ちた出来口を示しており、同種の構図は他にも数種見受けるが、中でも特に優れた作である。

















甚五
江戸
肥後
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肥後金工を代表する本流は、林・平田・西垣・志水の四家であり、皆初代は細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けた。寛永九年、加藤家改 易の後に、子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は同国の八代に移り、八代城を隠居城とした。甚五は平田彦三の甥と伝え、この時彦 三と共に三斎に従い八代に移っている。甚五の作風は肥後金工中、最も強烈な個性を発揮し、槌目焼手仕立ての鉄地に、表は猛禽・鶏・ふくろ う・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表し、裏面は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランス をとり、寂の趣を深くするよう配慮している。 この鐔は、泥障形の鉄槌目地に八方に身をくねらす蛸を真鍮据紋象嵌とし、裏は空間を大きくとって表から繋がる蛸の足を配している。 表裏 にわたる大胆な構図を取り、斬新で迫力に満ちた出来口を示しており、同種の構図は他にも数種見受けるが、中でも特に優れた作である。
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志水甚五は、肥後金工を代表する林・平田・西垣・志水の四家の一つであり、初代甚五は平田彦三の甥と伝えられ、寛永九年(1632年)に彦三と共に細川三斎忠興に従い、豊前から肥後国八代に移住したとされる。肥後金工は皆初代が細川三斎忠興に抱えられ、指導を受けたことで発展盛行をみた。甚五は肥後金工中、最も異色の存在として知られ、代々その作風は継承され、肥後金工の大きな一派として連綿と栄えた。初代甚五には有銘作は皆無である。
甚五の作風の特色は、肥後の諸金工の中にあって、ひときわ強烈な個性を発揮することにあり、槌目焼手仕立ての鉄地に、猛禽や鳥・梟・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表す作風を確立した。表は猛禽・鶏・ふくろう・雨龍などを大きく真鍮据文象嵌で力強く表し、一方裏は空間を大きくとって文様を小さく配し、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランスをとり、寂の趣を深くするよう配慮している点も特徴として挙げられる。一見表裏のバランスが非対称に感ぜられるものの、そこには甚五の卓越した技量と独特の世界観があり、総体的にきわめて均整のとれた趣の深い作品を数多残している。得意とした意匠として、鷲、梟、蛸などが挙げられ、松との組み合わせも多く見られる。また、素銅槌目地に蟹と勝虫を表裏に配するなど、素材や意匠において多様な試みが見られる点も特筆される。地鉄は鉄槌目地とし、真鍮据文象嵌を多用するほか、銀布目象嵌を施すものもある。鐔の形状は撫角形、撫角あおり形、泥障形などが見られ、櫃孔は片櫃孔、両櫃孔、変り孔などがある。
志水甚五の作品は、大胆で野趣に富んだ作風が特徴であり、その作風は他に比類なきものとして高く評価されている。「大模様の真鍮据文象嵌に強烈な個性を表出」[[c:1]]しており、「図柄が頗る近代的感覚にうったえる」[[c:2]]とも評されるように、斬新な意匠と大胆な構図は、今日においても色褪せることなく、鑑賞者を魅了し続けている。肥後金工における異色の存在でありながら、その独特の作風は後代にも大きな影響を与え、肥後金工の一派として確固たる地位を築いた。
甚五の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
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志水派は、林・平田・西垣と並び肥後金工の本流を代表する四家の一つである。初代志水仁兵衛は平田彦三の甥と伝えられ、その指導を受けた。四家の初代はいずれも細川三斎忠興に抱えられ、直接の指導を受けている。寛永九年(一六三二)、加藤家改易ののち三斎の子忠利が熊本五十四万石に封ぜられると、三斎は隠居の身となり肥後国八代城を隠棲の場と定めた。初代甚五はこのとき彦三と共に三斎に従い八代に移住し、以後志水家は細川家の庇護のもと八代の地で代々栄えた。二代目以降、家督を継ぐ者は甚五(甚五)の名を襲名したが、初代・二代には在銘作が皆無であり、無銘ながら鑑定により世代が判別される。 志水派の作風は、肥後金工諸派の中にあって「ひときわ強烈な個性」[[c:2]]を発揮するものとして一貫して評される。その技法上の最大の特色は、槌目焼手仕立ての鉄地に大胆な真鍮据紋象嵌を施す手法にある。表には猛禽・鶏・梟・雨龍・蛸・蟹などの画題を大きく力強く配し、一方裏は意図的に空間を広くとり、文様は小さく、彩色や肉置きも穏やかにして表裏のバランスをとる。一見非対称に感ぜられるこの表裏の構図こそが志水派の真骨頂であり、説示は繰り返し「総体的にきわめて均整のとれた趣の深い作品」[[c:3]]と評している。表の躍動感と裏の静寂感が渾然一体となり、寂(さび)ないし侘寂の趣を深くする剛毅な作風がそこに成立する。真鍮据紋象嵌は「恐らく平安城象嵌にならったもの」[[c:4]]とされるが、「平安城象嵌と異なるところは大胆な図柄にあって、これが今日なお斬新な感じを与える」と説示に明記されている。また鋤出高彫に金銀布目象嵌を施した作や、素銅地の作もあり、素銅でありながら重厚な趣を醸し出せるのは「甚五の技量の高さを伺うに十分」[[c:5]]と評されるように、地金を問わず深い造形力を示す。撫角形・障泥形を得意の鐔姿とし、変り櫃孔もまた同派に見る特色である。 志水派は肥後金工の伝統において最も異色かつ芸術的迫力に満ちた一派としての地位を占める。とりわけ初代甚五は卓越した作家として説示に高く讃えられ、松上の梟図や松上の猛禽図はその名と「ほとんど同義」とされるほどに密接に結びつく。説示は初代の最高作について「大智は愚の如し」の語を引き、「大巧は拙なるが如し――拙に見えて拙でないが故に常識を超越した力を発揮した」と述べ、技巧を超えた境地に達した芸術家として位置づけている。武人の魂を猛禽に託して無双の覇気を示す一方、余白を十分に生かした画面からは「物深い閑かな雅趣」[[c:6]]が感じとられ、文武両道の達人であった三斎の指導に応えた入念の作と評される。また「魚金甚五」の銘を持つ稀少な在銘作や、銀布目象嵌・毛彫・色金を駆使した後世代の展開は同派の技法的幅の広さを証するものである。「他の金工にはみられない大らかな雰囲気」を醸し出し、「近代的感覚にもうったえる」[[c:7]]と繰り返し評される志水派の絵画的造形は、肥後金工の枠を超えて刀装具史に独自の存在感を刻んでいる。 詳しく見る →
特別保存刀装具の中から、特に出来が優れ、美術工芸的価値が極めて高く、国認定の重要美術品に準ずると判断されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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