NTHK鑑定書付 銘 越前国下坂 短刀 【解説】 本作はNTHK(日本刀剣保存会)の鑑定により、寛永年間(1624-1644年:江戸時代初期)の「越前国下坂」と極められた短刀です。下坂とは越前国(現在の福井県)を拠点に隆盛を極めた高名な一派の名称であり、本作はその一門の刀工によって制作されました。 越前下坂派の祖は、初代康継と伝えられています。康継は室町時代末期(16世紀後半)に近江国下坂(現在の滋賀県)に生まれ、慶長初期まで同地で活動していましたが、主君の転封に伴い越前国へ移住しました。その後、徳川家康の三男であり、江戸初期の越前藩主であった結城秀康の知遇を得て庇護を受けます。この秀康の強力な後援により、初代康継は越前下坂派を確立し、その名は全国に轟くこととなりました。 さらに秀康の推挙により、初代康継は徳川将軍家の御抱え鍛冶となり、家康・秀忠の両大御所および将軍からも高く評価されました。慶長11年(1606年)には家康より「康」の一字を賜って名を「康継」と改め、さらに茎に徳川家の家紋である「葵紋」を切ることを許されるという破格の栄誉を授かりました。同派は江戸時代を通じて繁栄し、多くの優れた門弟を輩出しています。 本作の刀身には「欄間透彫」が施されています。当時、これほど精緻な彫物を注文できたのは、相当な資力を持った武士であったことが推察されます。 【彫物について】 刀身に施された彫物は、本作の見どころの一つです。日本の刀剣彫刻の歴史は古く、約1300年前まで遡ります。直刀から湾刀へと姿を変えた武士の時代、刀剣は生死を分かつ極めて重要な武器でした。武士たちは自らの加護を願い、本作に見られるような宗教的な意匠を彫り込むことで神仏への祈りを込めました。 当初は権威の象徴としての装飾性が好まれましたが、実戦の時代には実用性と信仰心が重視されました。泰平の世となった江戸時代以降は、再び装飾性が高まり、瑞獣や草花、和歌や漢詩など多彩な図案が彫られるようになります。彫物の変遷を辿ることは、時代の移り変わりとともに日本刀に求められた役割の変化を知ることでもあります。 本作の彫物の画題は「倶利伽羅剣」です。これは仏教における信仰対象の一つ、不動明王(大日如来の化身とされる)が右手に持つ剣です。倶利伽羅龍王が剣に巻き付く姿からその名があり、人間の根源的な煩悩である「三毒(貪・瞋・癡:むさぼり、怒り、おろかさ)」を断ち切る知恵の象徴とされています。 ※本作には、経年による目立った鍛え傷や黒錆が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【種別】 長さ(Nagasa):28.7 cm 反り(Sori):0 cm 刃文(Hamon):(※原文が途切れているため、一般的な説明:刃縁に沿って現れる結晶構造)




















Echizen Shimosaka (Shintō; the group from which the Echizen Yasutsugu line arose) · 越前 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
肥後大掾藤原下坂・越前住と銘する第十四回重要刀剣の一刀を、説明は「康継前銘」と読み、康継を慶長十一、二年に銘し始める以前の作とする。そしてそれがこの名の中心の事実へと開く。下坂は一人の刀工ではない。新刀初頭の越前において一団の鍛冶が用いた商標銘であり、指定の記録はその作をこの一銘の下にまとめる。説明はこれを明示する。これらの銘を一人とみるよりは「同人とみるよりは幾人かの鍛冶者の一団であり」、下坂を商標として「下坂を商標として鍛刀していたと解することが妥当であろう」、その初期においては初代康継が「康継がその代表者」であったとする。この名は越前康継家の源流であり、越前が我がものとした深い浮彫の源流でもある。
一派を貫く手は静かで、同時代の華やかな新刀の多くに対置される。記録の悉くが板目に鍛えられ、多くは杢を交え刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地に総体に地沸つき、時にかね黒味がかり地景入る。その上に刃は中直刃から浅いのたれに互の目を交えるまでに及び、小足入り、沸つき、しばしばむらにつき、刃中に砂流しかかり、優れた作には金筋がかかり刃縁が頻りにほつれる。帽子は最も恒常の見どころで、直ぐに小丸となり、多くは先に掃きかける。これは刃の輪郭の豪壮さよりも刃中の働きによって読まれる作風であり、刃中を流れる砂流しが一派の最も恒常的な見どころである。
彫物がいま一つの恒常で、説明が最も進んで地方の特色と名指すものである。深い浮彫・透彫の彫物が corpus を通じて繰り返し現れる。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、ある刀は櫃中に毘沙門天と梵字を、ある短刀は竜虎を力強く彫り、ある薙刀は腰元に摩利支天を彫る。説明はこれを越前独特の彫物「越前彫」と呼び、後の作には越前記内彫「記内彫」と呼んで、一派の手を示す鏨のさらいのやや荒びた感じを記す。肥後大掾藤原の書付はこれに細直刃を加え、匂口しまりごころに沈み、地に白け映り立ち、説明がこの初期の手を康継の作に通じる点があると読む。
この名が商標であるため、corpus は一様式によってよりも、説明自身が分かつ書付によって読むのがよい。最も古いのは肥後大掾藤原下坂の銘で、従来康継自身の初銘とされ、説明はこれを「康継前銘」と呼ぶ。しかし肥後大掾の受領は同時に数工の越前刀工が冠したもので、説明は「肥後大掾下坂銘は、従来初代康継の初銘とされてきた」としつつ「康継一人とは限らない」とし、初代康継・貞国・兼法・国康・正勝を、鏨運びも筆意も作風も酷似して現時点で分かち得ぬ手として挙げる。この書付と並ぶのが一般の越前国下坂の作で、説明が「康継とは全くの別人の作」と判じ「個名を明らかにし得ないが一門の上手」と呼ぶ手であり、上手ながら名を明かさず、年代は慶長元和を下らない。説明があえて名指す手は二つある。茎まで通る片切刃の短刀を、慶長十一年紀の同手と下坂兼先銘に通じる銘振りより兼先と読み、反り深い薙刀もまた恐らく兼先とする。
いま一つの名指された手は商標を越前の外へと運び、一派の置きどころを示す。下坂八郎左衛門を説明は「下坂八郎左衛門は本国が近江であり」、生国を一にする久留米藩主田中吉政に抱えられて筑後に移ったとする。その長銘ある筑後打ちの慶長八年紀の薙刀は、頭の張った反り深い造込みに前時代の特色を継承した姿を見せ、説明はその茎の銘文を「下坂鍛冶研究の貴重な好資料である」とする。説明の引く区別は作風のみならず名と経歴によるもので、個名は銘と記録された生涯より読まれ、それが読み得ぬ作の悉くにおいては評は一つである。すなわち「下坂一門の作として優品であることには異論はない」、個名がいかであれ下坂一門の優品である。
この名は記録上九口の重要刀剣に伝わり、短刀四口・薙刀二口・刀二口・脇指一口、いずれも在銘で無銘はなく、出来は藤代の上々作とされる。国宝も重要文化財もなく、一派は名だたる蔵伝ではなく指定の重要刀剣を通して出会われる。所在の知れるもののうち一口は東京国立博物館にあり、ある薙刀は三ツ葉葵紋を蒔絵にした金梨子地の拵を伴って残り、説明はこれを大名の御腰入れ道具の一つと見る。伝来はその他に記録がなく、これは作が一人の名工の手としてよりも新刀初期の鍛冶集団の資料として価され、そのいくつかが説明に一派の手を定める資料と称えられるためでもある。在銘の越前下坂は収集家のもとに稀に現れ、重要刀剣の短刀か薙刀がその現実の出会いであり、より得難いのは肥後大掾藤原の康継前銘の書付、あるいは越前康継家の興った一団のうちに置かれる、兼先か八郎左衛門の名指された一口である。
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
NTHK鑑定書付 銘 越前国下坂 短刀 【解説】 本作はNTHK(日本刀剣保存会)の鑑定により、寛永年間(1624-1644年:江戸時代初期)の「越前国下坂」と極められた短刀です。下坂とは越前国(現在の福井県)を拠点に隆盛を極めた高名な一派の名称であり、本作はその一門の刀工によって制作されました。 越前下坂派の祖は、初代康継と伝えられています。康継は室町時代末期(16世紀後半)に近江国下坂(現在の滋賀県)に生まれ、慶長初期まで同地で活動していましたが、主君の転封に伴い越前国へ移住しました。その後、徳川家康の三男であり、江戸初期の越前藩主であった結城秀康の知遇を得て庇護を受けます。この秀康の強力な後援により、初代康継は越前下坂派を確立し、その名は全国に轟くこととなりました。 さらに秀康の推挙により、初代康継は徳川将軍家の御抱え鍛冶となり、家康・秀忠の両大御所および将軍からも高く評価されました。慶長11年(1606年)には家康より「康」の一字を賜って名を「康継」と改め、さらに茎に徳川家の家紋である「葵紋」を切ることを許されるという破格の栄誉を授かりました。同派は江戸時代を通じて繁栄し、多くの優れた門弟を輩出しています。 本作の刀身には「欄間透彫」が施されています。当時、これほど精緻な彫物を注文できたのは、相当な資力を持った武士であったことが推察されます。 【彫物について】 刀身に施された彫物は、本作の見どころの一つです。日本の刀剣彫刻の歴史は古く、約1300年前まで遡ります。直刀から湾刀へと姿を変えた武士の時代、刀剣は生死を分かつ極めて重要な武器でした。武士たちは自らの加護を願い、本作に見られるような宗教的な意匠を彫り込むことで神仏への祈りを込めました。 当初は権威の象徴としての装飾性が好まれましたが、実戦の時代には実用性と信仰心が重視されました。泰平の世となった江戸時代以降は、再び装飾性が高まり、瑞獣や草花、和歌や漢詩など多彩な図案が彫られるようになります。彫物の変遷を辿ることは、時代の移り変わりとともに日本刀に求められた役割の変化を知ることでもあります。 本作の彫物の画題は「倶利伽羅剣」です。これは仏教における信仰対象の一つ、不動明王(大日如来の化身とされる)が右手に持つ剣です。倶利伽羅龍王が剣に巻き付く姿からその名があり、人間の根源的な煩悩である「三毒(貪・瞋・癡:むさぼり、怒り、おろかさ)」を断ち切る知恵の象徴とされています。 ※本作には、経年による目立った鍛え傷や黒錆が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【種別】 長さ(Nagasa):28.7 cm 反り(Sori):0 cm 刃文(Hamon):(※原文が途切れているため、一般的な説明:刃縁に沿って現れる結晶構造)




















Echizen Shimosaka (Shintō; the group from which the Echizen Yasutsugu line arose) · 越前 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
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肥後大掾藤原下坂・越前住と銘する第十四回重要刀剣の一刀を、説明は「康継前銘」と読み、康継を慶長十一、二年に銘し始める以前の作とする。そしてそれがこの名の中心の事実へと開く。下坂は一人の刀工ではない。新刀初頭の越前において一団の鍛冶が用いた商標銘であり、指定の記録はその作をこの一銘の下にまとめる。説明はこれを明示する。これらの銘を一人とみるよりは「同人とみるよりは幾人かの鍛冶者の一団であり」、下坂を商標として「下坂を商標として鍛刀していたと解することが妥当であろう」、その初期においては初代康継が「康継がその代表者」であったとする。この名は越前康継家の源流であり、越前が我がものとした深い浮彫の源流でもある。
一派を貫く手は静かで、同時代の華やかな新刀の多くに対置される。記録の悉くが板目に鍛えられ、多くは杢を交え刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地に総体に地沸つき、時にかね黒味がかり地景入る。その上に刃は中直刃から浅いのたれに互の目を交えるまでに及び、小足入り、沸つき、しばしばむらにつき、刃中に砂流しかかり、優れた作には金筋がかかり刃縁が頻りにほつれる。帽子は最も恒常の見どころで、直ぐに小丸となり、多くは先に掃きかける。これは刃の輪郭の豪壮さよりも刃中の働きによって読まれる作風であり、刃中を流れる砂流しが一派の最も恒常的な見どころである。
彫物がいま一つの恒常で、説明が最も進んで地方の特色と名指すものである。深い浮彫・透彫の彫物が corpus を通じて繰り返し現れる。櫃中に真の倶利迦羅を浮彫にし、ある刀は櫃中に毘沙門天と梵字を、ある短刀は竜虎を力強く彫り、ある薙刀は腰元に摩利支天を彫る。説明はこれを越前独特の彫物「越前彫」と呼び、後の作には越前記内彫「記内彫」と呼んで、一派の手を示す鏨のさらいのやや荒びた感じを記す。肥後大掾藤原の書付はこれに細直刃を加え、匂口しまりごころに沈み、地に白け映り立ち、説明がこの初期の手を康継の作に通じる点があると読む。
この名が商標であるため、corpus は一様式によってよりも、説明自身が分かつ書付によって読むのがよい。最も古いのは肥後大掾藤原下坂の銘で、従来康継自身の初銘とされ、説明はこれを「康継前銘」と呼ぶ。しかし肥後大掾の受領は同時に数工の越前刀工が冠したもので、説明は「肥後大掾下坂銘は、従来初代康継の初銘とされてきた」としつつ「康継一人とは限らない」とし、初代康継・貞国・兼法・国康・正勝を、鏨運びも筆意も作風も酷似して現時点で分かち得ぬ手として挙げる。この書付と並ぶのが一般の越前国下坂の作で、説明が「康継とは全くの別人の作」と判じ「個名を明らかにし得ないが一門の上手」と呼ぶ手であり、上手ながら名を明かさず、年代は慶長元和を下らない。説明があえて名指す手は二つある。茎まで通る片切刃の短刀を、慶長十一年紀の同手と下坂兼先銘に通じる銘振りより兼先と読み、反り深い薙刀もまた恐らく兼先とする。
いま一つの名指された手は商標を越前の外へと運び、一派の置きどころを示す。下坂八郎左衛門を説明は「下坂八郎左衛門は本国が近江であり」、生国を一にする久留米藩主田中吉政に抱えられて筑後に移ったとする。その長銘ある筑後打ちの慶長八年紀の薙刀は、頭の張った反り深い造込みに前時代の特色を継承した姿を見せ、説明はその茎の銘文を「下坂鍛冶研究の貴重な好資料である」とする。説明の引く区別は作風のみならず名と経歴によるもので、個名は銘と記録された生涯より読まれ、それが読み得ぬ作の悉くにおいては評は一つである。すなわち「下坂一門の作として優品であることには異論はない」、個名がいかであれ下坂一門の優品である。
この名は記録上九口の重要刀剣に伝わり、短刀四口・薙刀二口・刀二口・脇指一口、いずれも在銘で無銘はなく、出来は藤代の上々作とされる。国宝も重要文化財もなく、一派は名だたる蔵伝ではなく指定の重要刀剣を通して出会われる。所在の知れるもののうち一口は東京国立博物館にあり、ある薙刀は三ツ葉葵紋を蒔絵にした金梨子地の拵を伴って残り、説明はこれを大名の御腰入れ道具の一つと見る。伝来はその他に記録がなく、これは作が一人の名工の手としてよりも新刀初期の鍛冶集団の資料として価され、そのいくつかが説明に一派の手を定める資料と称えられるためでもある。在銘の越前下坂は収集家のもとに稀に現れ、重要刀剣の短刀か薙刀がその現実の出会いであり、より得難いのは肥後大掾藤原の康継前銘の書付、あるいは越前康継家の興った一団のうちに置かれる、兼先か八郎左衛門の名指された一口である。
新刀 · 越前
現在50点販売中
茎にきられた黒い鉄こそ、この一門の最も確かな標である。鍛えは板目に杢が目立って交じり、刃寄り棟寄りに流れて肌立ち、地沸厚く、地景細かに入って、かねが総じて黒みをおびる。説明書はこれを繰り返し「越前がねの特色」と名指し、初代康継から重高・貞国・貞次に至るまで終始変わらぬ見どころとする。この一団は近江国坂田郡下坂郷を本貫とし、新刀初頭の越前にあって「下坂」を商標として用いた幾人かの鍛冶の集まりであって、説明書は一人の刀工とみるよりは一団とみるのが妥当とし、初期は康継をその代表者とする。初代康継は下坂市左衛門と称して越前に移り結城秀康に仕え、初め肥後大掾下坂と銘した。慶長十年から十一年にかけて江戸に召され、家康・秀忠両将軍の御前で鍛刀した褒賞として「康」の一字と三つ葉葵紋を茎にきることを許されて康継と改名し、葵下坂・御紋康継の名はこれに発する。以後は将軍家の御抱工として越前と江戸を隔年に勤め、本国打には越前住、江戸打には於武州江戸と切り添え、南蛮鉄を以南蛮鉄と添えた。肥後大掾藤原下坂の康継前銘は貞国・兼法・国康らと鏨運びも筆意も酷似し、今日なお銘振りによってしか分かち得ぬほど近い。 この一門の手は静かで、同時代の備前・美濃の華やかな新刀の多くに対置される。刃文は浅いのたれ・中直刃を基調に小互の目を連れて交え、小足・葉入り、沸厚く、荒めの沸がむらにつき、本工らしいばさけを生じて、金筋・砂流しが長くかかり、棟焼・飛焼さかんに、時に皆焼風となり、匂口は沈みごころとなる。帽子は浅くのたれて先尖りごころに三品風を呈し、掃きかけて長く返る。姿は身幅広く元先の幅差少なく重ね厚め反り浅い慶長新刀体配で、平造脇指は幅広寸延びとなる。彫物がいま一つの恒常で、彫口深く力強い越前彫・記内彫が一門の手を示し、不動三体仏・倶利迦羅・梵字・護摩箸・素剣を巧みに彫る。記内ら越前の彫物師の手によるこの深い浮彫は、説明書が地方の特色と名指すものである。一門が最も称えられる作域は相州写しであって、初代・二代ともに大坂落城に焼失した名物の再刃を試み、中でも貞宗写しを最も得意とし、各写しに自らの作風を加えて徒らに模倣せぬところに特色がある。手は系統と目的とで分かれ、貞国は直刃を得意として地がつんで精美に、貞次は越前関の系譜を引いて丁子の目立つ明るい現れを示し、重高は茎尻を栗尻とする点で一門の剣形と分かたれる。 収集家がこの一門の作に向かうべき所以は、その見分けやすさにある。黒く肌立った越前がね、ばさけた刃縁、縞がかる砂流し、長く掃きかける小丸の返り、そして深い記内彫が併さって、写した古作によってではなく一門自らの語法によって読まれる。中心に立つのは初代康継で、駿府滞在中の駿州打や名物写しを残し、駿府御分物の一刀は紀州徳川家に、号風雷神の刀は越前松平家に伝来した。嫡子二代康継は父風を忠実に継ぎ、継の字形以外では殆ど区別し難く、晩年は初代に劣らぬ域に達した。二代の後、家は江戸三代を右馬助、越前家を四郎右衛門が継いで両系に分かれ、同名は幕末まで両地に栄えた。江戸三代は鍛えがつんで綺麗に、匂口は明るく、直ぐの焼出しを置いて法城寺一派など当時の江戸物に近づく。後援者本多飛騨守成重の立葵紋が貞次や康継一門の優品に多くきられ、截断銘がその伝来を彩る。藤代は上々作から上作に位し、一門は名だたる蔵伝よりも在銘の指定刀を通して出会われる。市に現れるのは葵紋を切った在銘の康継、あるいは下坂貞国・貞次・重高の在銘作であって、根気をもって待てば折にふれ世に現れ、現れれば家康の葵紋下賜に発する越前下坂の確かな一口となる。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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