日本刀 短刀 銘 大和大掾兼重(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書附) 【解説】 本短刀は「大和大掾兼重」の銘が切られた一振りです。 「兼重」の名を冠する刀工は複数存在するため、本作がどの代の兼重によるものかを特定するのは容易ではありませんが、日本美術刀剣保存協会(日美工)の見解および現存する資料に基づけば、江戸時代初期から中期にかけて活躍した兼重の手によるものと推測されます。名に「兼」の字を冠することから、実用的かつ堅牢な作風で知られる美濃伝の系統を汲む刀工であったと考えられます。 美濃国の刀工たちは、たゆまぬ研鑽と卓越した技術により「美濃伝」と呼ばれる独自の伝法を築き上げました。その特徴は、尖り刃を交えた互の目乱れや直刃、時に白く現れる映りなどに象徴されます。美濃伝は鎌倉時代末期(1280年〜1330年頃)に大和伝を源流として興り、南北朝・室町時代を通じて隆盛を極め、江戸時代に至るまでその伝統を継承しました。その変遷と永きにわたる存続は、美濃刀工たちの高い技量と芸術性の証と言えるでしょう。 美濃伝が最盛期を迎えたのは、武器の需要が急増した戦国時代(1467年〜1590年)です。美濃は明智光秀が治め、隣国には織田信長の尾張、徳川家康の駿河といった有力大名が割拠する戦略的要衝に位置していました。これら諸将や家臣団による膨大な需要に加え、関東と京都を結ぶ交通の要所であったことも、刀剣の一大産地としての地位を不動のものにしました。美濃刀は「実戦本位の造り」と「抜群の切れ味」で名を馳せ、その洗練された技術は江戸時代にも受け継がれました。多くの美濃刀工が新天地を求めて各地へ移住しましたが、本作の兼重もその一人であったと考えられます。 本刀は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」の鑑定を受けた真作です。この鑑定書は、保存状態が良く、美術品としての価値が高い正真の日本刀に対してのみ交付されるものです。 ※刀身にわずかな鍛え傷(きたえきず)がございます。詳細な状態については、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):23.4 cm 反り(Sori):0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃縁に現れる結晶構造。 地文(Jihada):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、柄内部の赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この経年による錆色は、専門家が制作年代を推定する上での重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などから構成される外装。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護し装飾する一対の金具。 本品の縁頭には、馬とともに秋の七草である「桔梗」と「菊」が描かれています。秋の七草は、古来より日本の詩歌や芸術において親しまれてきた伝統的な草花です。


























新刀 · 武蔵
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兼重は、初代康継・繁慶についで江戸にあらわれた鍛冶で、説示は初代和泉守兼重をもと越前の矢ノ根鍛冶とし、のちに江戸へ出て刀鍛冶に転じたと伝える。古今鍛冶備考の説に拠るとあり、その現存作で最も早い年紀は寛永二年八月日紀の薙刀で、作刀は明暦の頃にまで及ぶ。和泉守と上総介の両者は従来同人とされ、藤堂和泉守に抱えられたために主君と受領銘が同じであることを憚って上総介に改めたと伝えられてきたが、辻上総介藤原兼重四十三歳於江戸作之康継下坂市之丞云々と銘じた脇指、ならびに寛文六年紀の康継合作刀の存在によって、上総介兼重は寛永三年の生まれと算せられ、和泉守とは明らかに別人であることが説示に示される。二代上総介兼重は和泉守兼重の子または弟子とみられる兼重二代目であり、上総守と冠することもあって、作刀はおよそ明暦・万治から始まり、寛文・延宝の頃が活躍期で、虎徹と同時代に位置する。近年は両者の銘字を比較検討して代替りの時期を慶安期とし、二代も初期には和泉守を冠したのち上総守・上総介を交互に用い、さらに二代の子と伝える助九郎兼常による代銘を指摘するなど、新説が打ち出されているという。 作風は説示が初二代に分けて記す。初代和泉守の作は大別して二様で、一はのたれを基調に互の目が連れて交じり足の入ったもの、一は沸匂深く直刃仕立に浅くのたれをおびた刃取りで匂口が明るく冴えるものである。鍛えは小板目肌がよくつみ、あるいは板目に杢・流れ肌を交えて肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景が細かによく入る。直刃の作では広直刃に浅いのたれをおびて沸筋がかかり、匂が一段と深く沸が厚くつくところが、この作域を手懸けた折の特色とされる。二代上総介の作は、直刃調に互の目が連れて数珠刃風となるのが本領で、足太く頻りに入り、金筋・砂流しがかかって匂口が明るい。互の目を一つ焼くと次は二つ焼くというふうに、一つ二つと繰り返して焼く一定のリズムが見られ、これが大きな見どころと説示は繰り返す。姿は身幅尋常、元先の幅差つき、反り浅く中鋒の詰まった寛文新刀の体配を示し、寛永・正保頃の作には慶長新刀から寛文新刀へ移行する過渡的な姿もあらわれる。茎には化粧風の鑢がかかり、後世の装飾的な化粧鑢の原形とみられると説示はほぼ一様に記す。 伝承の要点として説示が重んじるのは虎徹との関係である。二代は虎徹同様に数珠刃を得意とし、万治四年の山野加右衛門尉永久の金象嵌截断銘の脇指に虎徹に先立って完全な数珠刃を焼いた作があることから、その作風が後の虎徹の数珠刃に大きな影響を及ぼしたと想像に難くないとし、初代もまた虎徹の師と云われるとの伝を引く。一見虎徹を髣髴させ、ほとんど虎徹に見紛う程の出来とする評が諸作に見え、長曽祢虎徹や法城寺一派と類似した数珠刃風の互の目を江戸鍛冶相互の影響のうちに焼いたとも説く。截断銘を伴う作が多いのも特色で、山野加右衛門尉永久、勘十郎時代の同人、柴崎伝左衛門正次、前島八郎友次らの金象嵌截断銘が裏に添えられ、三ツ胴・二ツ胴截断の業物として遇されたことを示す。茎の隷書風の独特の書体による五字・七字・長銘も同工識別の手懸りであり、銘字の太細や大小の推移が前後期の判別に資する。明暦三年紀や寛文・延宝紀の作を含め、説示は数珠刃の完成度と直刃の冴えの両面に同派の到達を見ている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 短刀 銘 大和大掾兼重(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書附) 【解説】 本短刀は「大和大掾兼重」の銘が切られた一振りです。 「兼重」の名を冠する刀工は複数存在するため、本作がどの代の兼重によるものかを特定するのは容易ではありませんが、日本美術刀剣保存協会(日美工)の見解および現存する資料に基づけば、江戸時代初期から中期にかけて活躍した兼重の手によるものと推測されます。名に「兼」の字を冠することから、実用的かつ堅牢な作風で知られる美濃伝の系統を汲む刀工であったと考えられます。 美濃国の刀工たちは、たゆまぬ研鑽と卓越した技術により「美濃伝」と呼ばれる独自の伝法を築き上げました。その特徴は、尖り刃を交えた互の目乱れや直刃、時に白く現れる映りなどに象徴されます。美濃伝は鎌倉時代末期(1280年〜1330年頃)に大和伝を源流として興り、南北朝・室町時代を通じて隆盛を極め、江戸時代に至るまでその伝統を継承しました。その変遷と永きにわたる存続は、美濃刀工たちの高い技量と芸術性の証と言えるでしょう。 美濃伝が最盛期を迎えたのは、武器の需要が急増した戦国時代(1467年〜1590年)です。美濃は明智光秀が治め、隣国には織田信長の尾張、徳川家康の駿河といった有力大名が割拠する戦略的要衝に位置していました。これら諸将や家臣団による膨大な需要に加え、関東と京都を結ぶ交通の要所であったことも、刀剣の一大産地としての地位を不動のものにしました。美濃刀は「実戦本位の造り」と「抜群の切れ味」で名を馳せ、その洗練された技術は江戸時代にも受け継がれました。多くの美濃刀工が新天地を求めて各地へ移住しましたが、本作の兼重もその一人であったと考えられます。 本刀は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」の鑑定を受けた真作です。この鑑定書は、保存状態が良く、美術品としての価値が高い正真の日本刀に対してのみ交付されるものです。 ※刀身にわずかな鍛え傷(きたえきず)がございます。詳細な状態については、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):23.4 cm 反り(Sori):0 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃縁に現れる結晶構造。 地文(Jihada):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、柄内部の赤錆を防ぐために茎に黒錆を残します。この経年による錆色は、専門家が制作年代を推定する上での重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などから構成される外装。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護し装飾する一対の金具。 本品の縁頭には、馬とともに秋の七草である「桔梗」と「菊」が描かれています。秋の七草は、古来より日本の詩歌や芸術において親しまれてきた伝統的な草花です。


























新刀 · 武蔵
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兼重は、初代康継・繁慶についで江戸にあらわれた鍛冶で、説示は初代和泉守兼重をもと越前の矢ノ根鍛冶とし、のちに江戸へ出て刀鍛冶に転じたと伝える。古今鍛冶備考の説に拠るとあり、その現存作で最も早い年紀は寛永二年八月日紀の薙刀で、作刀は明暦の頃にまで及ぶ。和泉守と上総介の両者は従来同人とされ、藤堂和泉守に抱えられたために主君と受領銘が同じであることを憚って上総介に改めたと伝えられてきたが、辻上総介藤原兼重四十三歳於江戸作之康継下坂市之丞云々と銘じた脇指、ならびに寛文六年紀の康継合作刀の存在によって、上総介兼重は寛永三年の生まれと算せられ、和泉守とは明らかに別人であることが説示に示される。二代上総介兼重は和泉守兼重の子または弟子とみられる兼重二代目であり、上総守と冠することもあって、作刀はおよそ明暦・万治から始まり、寛文・延宝の頃が活躍期で、虎徹と同時代に位置する。近年は両者の銘字を比較検討して代替りの時期を慶安期とし、二代も初期には和泉守を冠したのち上総守・上総介を交互に用い、さらに二代の子と伝える助九郎兼常による代銘を指摘するなど、新説が打ち出されているという。 作風は説示が初二代に分けて記す。初代和泉守の作は大別して二様で、一はのたれを基調に互の目が連れて交じり足の入ったもの、一は沸匂深く直刃仕立に浅くのたれをおびた刃取りで匂口が明るく冴えるものである。鍛えは小板目肌がよくつみ、あるいは板目に杢・流れ肌を交えて肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景が細かによく入る。直刃の作では広直刃に浅いのたれをおびて沸筋がかかり、匂が一段と深く沸が厚くつくところが、この作域を手懸けた折の特色とされる。二代上総介の作は、直刃調に互の目が連れて数珠刃風となるのが本領で、足太く頻りに入り、金筋・砂流しがかかって匂口が明るい。互の目を一つ焼くと次は二つ焼くというふうに、一つ二つと繰り返して焼く一定のリズムが見られ、これが大きな見どころと説示は繰り返す。姿は身幅尋常、元先の幅差つき、反り浅く中鋒の詰まった寛文新刀の体配を示し、寛永・正保頃の作には慶長新刀から寛文新刀へ移行する過渡的な姿もあらわれる。茎には化粧風の鑢がかかり、後世の装飾的な化粧鑢の原形とみられると説示はほぼ一様に記す。 伝承の要点として説示が重んじるのは虎徹との関係である。二代は虎徹同様に数珠刃を得意とし、万治四年の山野加右衛門尉永久の金象嵌截断銘の脇指に虎徹に先立って完全な数珠刃を焼いた作があることから、その作風が後の虎徹の数珠刃に大きな影響を及ぼしたと想像に難くないとし、初代もまた虎徹の師と云われるとの伝を引く。一見虎徹を髣髴させ、ほとんど虎徹に見紛う程の出来とする評が諸作に見え、長曽祢虎徹や法城寺一派と類似した数珠刃風の互の目を江戸鍛冶相互の影響のうちに焼いたとも説く。截断銘を伴う作が多いのも特色で、山野加右衛門尉永久、勘十郎時代の同人、柴崎伝左衛門正次、前島八郎友次らの金象嵌截断銘が裏に添えられ、三ツ胴・二ツ胴截断の業物として遇されたことを示す。茎の隷書風の独特の書体による五字・七字・長銘も同工識別の手懸りであり、銘字の太細や大小の推移が前後期の判別に資する。明暦三年紀や寛文・延宝紀の作を含め、説示は数珠刃の完成度と直刃の冴えの両面に同派の到達を見ている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.