越前の兼法は「越前国住兼法」の六字を細鏨で指表目釘孔の横棟寄りに切る。第五十三回重要刀剣に指定された一口は裏に「慶長五年三月日」の年紀を刻し、説明はさらに「慶長十二丁未八月吉日」紀の作の遺存を挙げ、このことから同工の活躍期はほぼ明らかであるとする。初期の説明は本工を一群の中に置き、「越前刀工の中に越前国住兼法、越前国兼法と銘するものが数人いるようである」と記し、それぞれ銘字に多少の相違があるとして、各作をその一人の作と読む。
その出自について、説明は勿論その先は美濃関からの移住であり、同名を名乗ったものと思われるとする。後の説明は作そのものから論を立てる。現存する作例は少ないが、それらを通観するに、造込み・地刃の出来・鷹の羽の鑢目などに室町末期の美濃物の色合が濃く示されており、「兼法」を名乗る点と考え併せて、「美濃の関から越前に移住した刀工の一人と推測される」。説明は本工に代数を与えず、師となる特定の美濃の工の名も挙げない。
慶長五年紀の刀が基準作である。身幅一段と広く、元先の幅差目立たず、重ね厚く、反りやや深く先反りつき、大鋒となる。鍛えは板目に杢や少しく流れた肌合を交えて肌立ちごころとなり、地沸厚くつき、地景入り、水影風が立つ。刃文は焼幅広く、頭の丸い互の目・丁子・互の目丁子・尖りごころの刃などが交じり、足入り葉少しく交える。小沸つき、金筋・砂流しかかり、小さな飛焼をみせ、棟焼しきりに入り、匂口は沈みごころとなる。帽子は焼深く乱れ込み、表は小丸に返り、裏は一枚風となる。表裏に棒樋を丸止めにし、その下に梵字を陰刻し、表に護摩箸、裏に素剣を配す。説明はこれを「作例の少ない越前兼法の優品であり」とし、加えて慶長年紀は同工を研究する上で「資料的に頗る貴重である」とする。
第四十四回指定の刀はこの基準作との比較によって年代が定まる。身幅広く寸つまり、重ね薄く、鎬地の肉を削いで鎬筋高く、反り深く、中鋒延びる。鍛えは裏総じて強く流れて柾状となる。刃文は頭の丸い互の目が連れて複式風をなし、小のたれ・尖りごころの刃を交え、小さく金筋入り、匂口沈みごころとなり、帽子は地蔵風となって先を掃きかける。慶長五年紀の作が上身の出来・茎仕立・銘振りに至るまで本作と近似することから、説明はこれも慶長年間の作と鑑し、「室町末期の美濃物そのものの作域を見せており」とする。第六十回指定の刀は長さ六六・六五糎、鋒長さ七・一糎で、刃文はのたれを基調に頭の丸い互の目丁子を交え、処々叢沸となり、説明は「作例の少ない越前兼法の作品であり、地刃共に健全で優品である」と結ぶ。
第十八回・第二十三回の初期の説明は、造込みと作風の近縁から美濃の出自を読む。大鋒で、のたれに複式に互の目丁子を交える一口は、「伊賀守金道や大道などの作に近似して地刃も健全である」とされ、その茎は珍しく鑢目表逆筋違、裏筋違となる。もう一口については「重ねがうすく、鎬もやや低くて美濃色が濃く」、「鑢目は鷹の羽である」とし、やはり美濃から出て京に移住した伊賀守金道など、三品派にも通じる作風として慶長初年頃の作と鑑する。
「越前国住兼法」と銘する刀は五口が重要刀剣に指定され、その時期は昭和四十四年の第十八回から平成二十六年の第六十回に及ぶ。いずれにも伝来の記録はない。説明は現存作の少なさを繰り返し、慶長五年紀の一口を何よりもその定めるところによって重んじる。それは活躍期を押さえ、無年紀の諸作を造込み・茎仕立・銘振りで照合する基準となる。五口を通じて、説明は「越前移住後も本国の遺風を強く残していることが注目される」とする。