兼法は現存最古の刀を美濃国で「関兼法」と銘しており、その名は室町末期の関の刀工群、いわゆる末関に属する。銘鑑はこの名の初代を文亀頃、三代を天正頃に置き、以後一派が関から越前一乗谷に移って、慶長初年まで「越前国住兼法」と銘したと記す。彼の名で残る七口はこの二つの場に綺麗に分かれる。天正頃の美濃銘の刀が二口、うち一口は天正七年の年紀をもち、残る一群は越前銘の刀で、年紀作は慶長五年・慶長十二年を切るため、地方の末関の手としては異例なほど活躍期がはっきりする。説明書は美濃作を端的に優品と評し、最古の一口を「末関として出来が優れ」、銘振りも参考になる作とする。早晩を通じて貫くのは、判者が繰り返し立ち返る純然たる美濃伝の手であり、本国の作風を越前に携え、これを守り抜いた工である。
彼の特徴的な刃文は、素直な関の互の目よりも構えの込んだ美濃伝のそれである。刃取りは頭の丸い互の目を連れて複式風に組み、そこへ互の目丁子・小のたれと、美濃の見どころである尖り刃を交える。身幅の広い越前作では焼幅広く互の目の頭が丸く張って、兼元一類の三本杉の忙しさとは異なる、やや装飾的な複式の乱れとして読める。小沸が処々叢沸となって締まり、刃縁はほつれて砂流しが流れ、刃中に細かな金筋が入る。何より匂口は明るく立つよりも沈みごころとなり、判者がたびたび記すこの沈静な出来が、同時代の華やかな慶長新刀本流から本工を分かつ。帽子は下の刃に応じ、多くは乱れ込んで小丸に返り、一口では静かに直ぐとなって地蔵風を呈し、先を掃きかける。
地鉄は京や備前の精良な小板目ではなく、開いた美濃の地である。板目が流れてやや肌立ち、杢や小板目を交え、裏は強く流れて柾目状となって、地沸厚くつき地景の入る鋼に肌が立つ。慶長五年の一口には区上にうっすらと水影風が立つ。造込みも同じ地方色を帯びる。身幅広く元先の幅差が目立たず、重ねは薄くまた厚く、反り深く先反りつき、鋒は中鋒延びるか率直な大鋒となり、鎬地の肉を削いで鎬筋が高い。茎の鑢目は一貫して鷹の羽で、判者はこの一点を鍛えや造込みとともに、その美濃出自を示す最も確かな見どころの一つとする。七口のうち無銘は天正頃の一口のみで、他は生ぶ茎の在銘、うち一口は六字の長銘、二口は裏に年紀を切る。
この二つの場は二つの作風ではなく、一つの手の二つの所在であり、その境を説明書自身が引く。美濃作は本来の末関で、あまりに出来がよいため、判者は越前銘の作が彼の子の手かと問うた。一乗谷移住後に銘した越前作を、判者は美濃物がそのまま残ったものと読む。ある一口について端的に「美濃風の刃文を焼いて出来がよい」と書き、別の一口について越前へ移った後も「越前移住後も本国の遺風を強く残している」と記す。越前で同名を名乗る者が銘字に多少の相違をもって数人あったため、判者はこれらを一つの伝記に融かすことを慎み、各作をその出来によって読み、年紀作に残りを繋ぐ。慶長五年の刀が基準となり、造込み・茎仕立・銘振りにおいて他作がこれに近似するかが計られる。
彼の位置は、その作が属するより大きな動きを通して最もよく分かる。美濃伝の工は室町末に関から各地へ散り、説明書は越前兼法をこの拡散に直接結びつけ、その美濃風の作を「美濃から京に移住した伊賀守金道」や三品一門に近いとする。いずれも美濃から出て、新刀の幕開けにその手を京へ運んだ工である。その群の中で本工を分かつのは地方色の一貫性で、頭の丸い複式の互の目・尖り刃・流れて柾目状となる地・鷹の羽の鑢目が、天正の美濃刀から慶長の越前刀までほとんど薄まらず現れ、判者は一口をまさに室町末期の美濃の作域、「室町末期の美濃物そのものの」作と呼ぶ。彼は革新者ではなく忠実な継承者であり、伝統がその故郷を離れた後にいかに綺麗に、いかによくこれを生かし続けたかにこそその価値がある末関の手である。
兼法は藤代の位列で上作とされ、刀剣美術鑑定における刀工大鑑の評価も中位にあって、名高い工というより堅実な末関の作者である。記録される七口はすべて重要で、特別重要に上がるものはなく、地方の室町末期の名にふさわしく、国宝や重要文化財に指定されたものはない。大名伝来も著名な名物もこの工には付かない。それは蒐集家にとって、彼を目録の前列にありながら静かで手の届く名にする。現存作は説明書が繰り返すとおり少ないが、博物館や社寺に秘蔵されているのではなく、重要の兼法は時に、辛抱とともに市場に現れる。世代を待って出会うような里程標ではなく、よく出来てよく記録された美濃伝古刀の一口としてである。慶長五年・慶長十二年の年紀作には判者の挙げる別格の価値があり、少数に残るその作が、関の伝統がいかに越前へ携えられ守られたかを示す最も明らかな地方の記録として、同工研究の基準資料に立つ。