繁昌は、重要刀剣に達した刀工のうちでも最も記録の乏しい一人である。四口の指定刀をもってしても、説明書が記しうるのは、彼が繁慶の子あるいは弟子であったこと、そしてこの帰属以上のことは全く不詳である、ということに尽きる。彼による刀は一度も見られていない。現存するのは脇指一口と僅かな短刀のみで、官の記録を有する四口は、昭和六十年の第三十二回から令和六年の第七十回まで、四十年近くにわたって指定され、いずれも繁昌と読む二字の彫銘を切る。説明書は彼を、尾張・江戸において越中則重の相州伝を蘇らせた江戸初期の名工繁慶の系統に確かに置き、その根拠を文書ではなく作そのものに求める。すなわち、その作風・茎仕立・銘振りが繁慶のそれに近似することから、一門であることは確実とする。繁慶同様、繁昌もまた則重に範をとった、と説明書は述べる。
その手は、数様に分かれることなく則重に範をとって全き力で貫かれた、一様の定まった手である。姿が最も読みやすい見どころで、身幅広い平造の短刀あるいは脇指、寸延びごころに重ね厚く、反りは浅いか殆どなく、棟は三ツ棟に造られて卸しが急である。説明書はこのズングリとした体配を繁慶・繁昌の短刀に共通する特色とし、「身幅の広い割には寸法のややつまった」、いわばズングリとした形状と評する。その豪壮な体に、大板目に杢・流れ肌を交えて大いに肌立ち、地沸厚くつき、太く黒い地景の頻りに入る地鉄を鍛える。第四十一回の短刀と令和の脇指において、説明書はこの肌合を明示的に、いわゆる「ひじき肌」と称し、これこそ繁慶一門の中心の見どころであり、則重から最も直に継いだものである。
地鉄こそ繁昌が最初に読まれる所で、刃文も同じ相州の調子でこれに応える。浅いのたれ、時に小のたれを基調に互の目・小互の目を交え、足よく入り、匂深く、沸厚く荒めの沸を交えてやや刃中むら立つ。総体に砂流し・太い金筋がかかり、沸筋・湯走り頻りに、小さな飛焼と棟焼が処々に現れ、匂口は終始沈みごころとなる。帽子は小丸あるいは大丸に深く返り、さかんに掃きかけて火焰となり、金筋は物打から帽子にかけて特に顕著である。これらは備前のごとき華やぎではない。則重が遺した相州伝の、流れて沸の充ちた働きそのものを、次代の手が同じ狙いで再現したもので、説明書はそれを師の短刀に些かの遜色もないと断じる。
その一様の手も、記録に残る変り作を一口だけ容れる。平成五年の第三十九回の短刀において説明書は、小のたれに互の目を交えた刃と、表に尖りごころを呈して突き上げ、返りを棟焼に繋げて焼き下げた帽子とに、則重ではなく「左文字を狙った」狙いを読む。同じ相州伝の中で則重以外の相州上工の作風を参酌した意欲的な一口とする。但し、刃取りを除けば地刃の様相はこの工の常の作域である則重風が窺えるとし、左文字の狙いは定まった手の上に置かれた意図的な変化であって二様の手ではないと注意する。三ツ棟の造り込みと棟の卸しが急な点が、ここでも同じ則重の範を露わにする、と説明書は記す。
同門の中で繁昌を分かつのは、逸脱というより忠実な継承である。記録に残る後継はなく、独自の系統も持たない。その立場は、繁慶の手の次代を伝える最も明らかな証人としてのものである。説明書は、繁昌自らが招いた比較をそのまま引き、その地刃が覇気に充ちており、作は師に比肩する、まさに「繁慶の短刀宛らの出来映え」であるとする。範とした相州の大原物に照らせば、その作は則重の肌立つ地鉄と黒い地景を、最も極端な松皮肌に到らぬところで備え、備前の華やかな乱れでも山城の長い直刃でもなく、一門の互の目交じりののたれを焼く。明るく流れる砂流しと、沈みごころに沸の深い匂口とがその作を分かち、繁慶の系譜の中に確と置く。
繁昌は結局のところ、市場の名というより鑑賞者の資料的な工である。四口が官の記録に立ち、いずれも重要刀剣の位で、重要文化財や国宝に上るものはなく、説明書はそれらを華麗さよりも証として価し、作例の少ない繁昌の作域を知る上で資料的に貴重と評する。名のある所持者の伝来は記録に附帯せず、刀は未見で短刀数口と脇指一口を残すのみであれば、繁昌の作は、新刀相州伝を集める者が出会いうる最も稀なものの一つである。世に現れるのは時にまれに、忍耐をもってのことで、数を以てではない。繁慶一門を学ぶ者にはその稀少ゆえに一層貴く、則重の相州伝が江戸の再興から一代を経てなお如何に伝えられたかを示す健全で覇気ある一例であり、説明書は繰り返し、その作が師に比肩する出来であり、ほかに殆ど何も残さぬ工の資料的な証として尊ばれるべきことに立ち戻る。